第48話
見送りに来てくれた病院の人達に大きく手を降りながら、二人は長い間お世話になったその建物を後にする。
「いや~!なんつーかこの解放感?たまらん!」
「だな」
マキと二人、連れ立って歩きながら、タイトは清々しく晴れた空を見上げる。
タイトは結局「赤い糸」の行方の真相をマキに話せずにいた。
あの場ではその驚きをすぐに共有したいと思えたのだが、時間が経ってみるとなんと恥ずかしい事実であろう。顔から火を噴くどころではない。
あの夕方の公園で、二人に視えたのが赤い糸であったというのがそもそも照れ臭いのに、それを結んでいたのは当の本人同士でしたとか、恥ずかしいとか以前にあんまりにも出来過ぎていて現実味がなく(そもそも糸視能力からしてそうなのだが)、例えマキが当事者でも信じ難いであろう。
幸いというか、旅の経緯を考えるといささか不自然ではあるのだが、マキの方はこの件に関してあまり話題にしようとしない。いずれによ、今はこの事を自分からマキに明かすつもりはない。
想い人と赤い糸で結ばれていた事はタイトにすれば喜ばしくあるが、それがマキが喜ぶかどうかは全く別だからだ。
この事実を知って、マキとの関係が変わってしまうのも怖い。
だから、今暫くは、マキとのこの距離感を楽しもうと思う。
そう、旅は終わったかもしれないが、マキとの日常は続いていくだろうから。
思えば高校二年の、この夏は色んな事があった。有りすぎた。
隣にいるマキを始め、シックザールの老人、そして字実野…色んな人に会った。
それが全て見えない「糸」で繋がれていたとしてもそうでなくても。
貴重な、本当に貴重な出会いであった。
「風気持ちいいー」
「ああ…」
瞼を薄く閉じ、頬を優しく撫でる風を楽しんでいるマキのその横顔の、なんと愛らしい事か。
出来うる事なら、いつまでもここでこうしていたい。
だが、それが叶わぬ願いであるのは当然ながらタイトにもわかっている。
なんといっても、高校二年生の貴重な夏休みの殆どを、病院のベッドの上で寝て過ごしてしまったのだ。
両親が参考書等を持ち込んでくれたおかげで(因みにもちろん両親、加えてマキの父親とも一幕あったがそれについてはまたの機会にしよう)、 ふらふらと出歩くよりはある意味、勉学に専念出来た事と、 始業式…学校の再開から復学迄に取り返しのつかない程日数が離れている訳でないのは、幸いであるといえた。
そんな状況だから、しばらくの間は慌ただしい日々になるだろう。
大変なことに巻き込まれたし、これからも大変であるに違いない。
でも、そうだからこそ、この隣りにいるマキと。あの無下に絡み付く糸とは違う、 抗い難い見えざる絆で二人は繋がる間柄になった
…とタイトは考えている。
だからこそ、タイトには別れる前にこの場ではっきりとさせておきたい、ある疑問があった。
それは、実の所マキと出会ってこのかた、ずっと引っ掛かっていた事だ。
「なあ、マキ」
「うんにゃ?」
「俺さ、前から気になってた事があるんだけどさ」
「何を今更改まって。私とタイトくんの仲ではないか、遠慮なく言いたまえ」
「それを聞いて安心したよ。実はな」
「うんうん」
「いい加減、マキのフルネーム教えてくれてもいいんじゃないかなってさ」
「…」
「……」
「…マキ、だよ」
「そうじゃないだろ?俺が知りたいのは、みょ・う・じ、ファミリーネーム、名字だよ」
そうなのだ。
この「マキ」という少女、信じ難い話だが出会ってこのかた本名を明かす事を、
ず~~~~~っと 拒み続けて来たのである。
まず二人が再開した、糸の行方を探る旅に出る事が決まったあの日。
二人は連絡先を交換しようとしたのだが、マキはスマホを持っていない。 面食らいながらも取り敢えずの連絡先を聞き出して、フルネームでアドレス帳に登録しようとしたのだが。
「マキの名前はマキだってばさ」
この一点張りなのだ。タイトとしては、苗字で検索できるようにしたかっただけなので結局あの場はそれ以上追及せずにいたのだが、マキはついぞ退院したばかりである。
当然、病院内で本名を明かさずにいるのは不可能であると普通は思うだろう。
だが、なんとこの少女、病院内で呼ばれる時も、病室のネームプレートも。
一貫して「マキ」で通させたのである。
どうも搬入されて暫くは、 ~死ぬか生きるかの瀬戸際で精一杯だったのだから当然といえば当然なのだが~ 流石に身元を明かさない訳にはいかない様だった。
なのだが、タイトの容態が安定し病院内の様子にまで気が回る様になった頃には、呼び名をすでに「マキ」で通させていたのである。
どうやら、マキに貴重なサンプルとしての価値を見出だした病院側との取引に、名字を伏せる事も条件として提示したらしい。
こうして固くなにフルネームの公表を阻まんとするマキの行動は、当然ながらタイトには理解出来ないものであった。
何故、マキがそこまでに本名の開示を拒むのか。
どうも、自分に知られたくないのがその理由であるらしい。
ここまでされてしまっては、逆に何も解らぬまま別れるなど無理というものだ。
「マキ。俺達は二人で色々な事を乗り越えてきたじゃないか。
お互い、どんな人間かも…その、少しかは解ってる、と思う。
今更、マキの名字が、本名がどんなだって、俺は笑い飛ばしたりしないよ、約束する」
タイトはマキがしぶる理由を、なんらかの事情で自分にからかわれるからではないか、と考えた。
そんなにも自分は信頼がないのかと、タイト的にはやや悲しく思う所であるが、だからこそ今ここではっきりさせておきたかった。
マキから名前も明らかにされない程信頼が無い…かもしれない等と悶々としながらでは、これからの日常生活に支障が出るレベルだ。
だから、タイトは今真剣な表情で目の前の少女に問う。
ある意味、タイトの字実野に相対した時以上のその必死さに観念したのか、マキが顔をそむけながらポツリと口にしたその言葉は。
「…イトー」
「…は?」
「だからっ…伊藤、だってばさ」
最後の方は消え入る様に絞り出されたその言葉。
伊藤。伊藤マキ。
何の変哲もない、ごくごくありふれた、有りがちな名前だ。
だが。
「…ふふふ」
そうか。
「ははは…はは!」
だからか。
「はははははは!」
謎の解けたタイトは一人高らかに心の底から笑う。
伊藤マキ。確かに普通の名前だが。
糸巻き。運命を示唆する糸の視える、糸に干渉も出来る少女の名前が「糸巻き」
出来過ぎではないか。
しかも、その解釈に辿り付けるのは。
その意味を知り、笑いに転化出来るのは。
マキ本人と、もう一人、同い年で感性の近いであろうタイトだけ。
二人の、二人だけの間でマキが秘密にしたかった事。
悪意に怯むことなく立ち向かい、振り返る事を知らない少女の、意外過ぎる可愛らしい恥じらい。
憧れの君の、自分にだけ隠したい小さな小さな秘密。
それを、遂に暴いたのだ。
痛快にならない訳がない。愉快適悦、喜色満面。嬉しく思わない訳がないではないか。
だからタイトは笑う。人目を憚らず思いっきり盛大に、腹を抱えて、転げ回らんばかりの勢いで。
対して、件の伊藤マキ嬢からすれば、面白い訳がない。
そのリアクションをされたくなかったからこそ、艱難辛苦を乗り越えこれまで必死に隠蔽してきたのだ、さっきの約束だって爆速で反故にされたし。
だから、怒る。
恥じらいに顔を真っ赤にし怒りに頬をプクッと膨らませたマキは、カバンから病院より預かってきたスリッパを取り出すと、タイトの脳天に遠慮なくそれを叩き下ろす。
どこまでも突き抜ける青い空。やや深みのかかったその色を貫くが如く、タイトの笑い声が天に昇っていくそれを上書きするかの様に、タイトに繰り出されたスリッパの一撃が心地好い乾いた音を響かせる。
その音を横切るように、つがいのアキアカネが連なったまま何匹も何匹も、見る者の視界に赤い軌跡を残しながら独特の軌道で飛び去って行く。
季節は、秋になろうとしていた。
(了)
「いとまき、。 宇宙天 @soratakashi
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