第47話

 ノックをする。


「うい~」


 気の抜けた、だらしのない返事が返ってくる。


「俺だよ、タイトだよ」

「苦しゅうない、ちこうよれ」

「入るぜ」


 ふざけた様子のマキをスルーして、タイトは扉を開ける。

 字実野の病室と間取りは変わらない。飾り気のない白いベッド、白いカーテン、白い壁。


 だが、ベッドの上に胡座をかいた人物の存在感はその空間に於いて異質だった。

 エネルギーに溢れている、というか駄々漏れというか。

 その臨界を超えた炉心の様な少女は、カップうどんにお湯を注がず直接麺にかじりついている真っ最中であった。


「…お湯位注ごうよ、な?」

「待てん!待てんのだよタイトくんさ!もう我胃袋が一刻でも早く贄が欲しいと渇望しているのだよ!」

「分かった分かった」


 タイトは両手に抱えていたビニール袋を手渡す。

 マキが空腹に苦しんでいる事は想像に難くなかった為、予め調達してきたのだ。


「おお流石気が利くねタイトくんちゃん様々…栗羊羹様の御光臨でありますぞ!」

「喜んで頂けた様でなによりで御座います」


 眼前の供物に心奪われ地獄の餓鬼の様に菓子パンやら惣菜を貪るマキ。

 その姿は端から見れば浅ましいというに他ないのだろうが、 タイトの目には微笑ましい日常の一ページにしかみえない。

 よくも、あの怪我からここまで回復出来たものだ。




 この年若い「カップル」が病院に担ぎ込まれてきた当初、医師達の共通見解としてはマキの方が重篤という見立てだった。 実際、何度も重傷者を見てきたであろう看護士達が思わず目を背けてしまう位の惨たらしさであった。

 うら若き少女が、これから送る事になるその長き人生の辛さ足るや、如何程のものか。

 それを思うと担当の医師や看護士達の誰も彼もが涙を禁じ得ない有様であったのだ。


 …それが、である。


 病室に入って一週間で脱走、配膳室に忍び込んで病院食の盗み食いを敢行したのだ。

 それだけではない。字実野に酷く殴られた為前歯がかなり折れてしまっていたのだ、そうなのだ。こやつ、一体全体どうやって物を咀嚼した?


 歯が折れた際には根が乾かぬ様口内に保管する等して、速やかに病院に持ち込めば再び繋げる事が可能である。

 だが、マキの場合歯を保存しておくどころではなかった。

 だから、普通ならば差し歯なりにするしかないのだが、…なんと新しい歯が生えて来たのである、それも恐るべき速さで。


 タイトはあまりに常識外れなマキの体に、これも糸視能力が関係しているんじゃないのかと疑ったが、 後で東洋に確認をとった所そんな前例は聞いた事もないという。 そりゃそうか。

 つまる所は食欲の権化であるマキの執念が、そうさせたとしか考えられない。歯がちゃんとしていないと食事を楽しむのは難しいからだ。げに恐ろしきは、マキの尽きぬ事ない食への欲求といった所だろうか。


 医師達もしきりに首をかしげていたが、なんとか導きだした結論が、「マキの折れた歯は全て親知らずだった」である。


「サメの歯じゃあるまいしそうポンポン生えて来られちゃ現代医療の敗北だよ…」


 とはマキの担当医のぼやきである。

 そんな馬鹿な、と言いたくなるのも分かるが、医療のプロフェッショナル達が他に納得のいく結論を見付けられなかったのだから文句の付け様もない。

 それに不可解極まりない事ではあるものの、患者の容態が予想より早く回復に向かう事を喜ばない医者もいない。


 その上で、一時は現代医療に挑戦を仕掛けたマキという貴重な「サンプル」に対しVIP待遇の上長く居てもらおう!なんて提案も出て、実際そのおかげで個室を宛がわれたりもしたのだが(実験動物扱いである)、病院食盗み食い事件以降、監視の目が強まって空腹を満たせず進退窮まったマキは。


 驚くべきことに血液製剤に手を出そうとしたのである、吸血鬼かよ。すんでのところで取り押さえられ製剤は無事だったものの、マキというモンスターを飼い続けるリスクにようやっと気づいた病院側は


「そんなに元気ならもう退院した方がいいよね?というかして」


 とすっかり掌を返され、今日に至るという訳だ。

 ここまでの顛末を聞いて、かつてのタイトならば旅を始めた当初を思い起こしてもううんざりといった顔をしただろう。


 だが、今のタイトにとって、そのトラブルメーカーのマキが居るという事は、転じて普段のマキが健在であるという事の証しである。

 今も一本まんまの羊羹を、あたかも大道芸人よろしく真上を向いたマキがするすると口内に送り込んでいる異様な光景が目に入って来るが、それすらも愛おしく見える。


 なんにせよ、あの未曾有の大怪我の痕跡を残さず、マキがここまで回復してくれたのだから、当事者の一人であるタイトに不満がある訳はないのだ。

 そして現状、身体の状態でいえばタイトの方が余程深刻であった。


 廃工場から落下した際、マキを庇っていたタイトは瓦礫その他諸々との衝突を一身に受けた。

 その多くは体を穿ちつつも裂傷を残す程度で済んでいたのだが、運悪く鉄骨の一柱が背骨を貫き椎間板を傷付け、神経にまで到達していた。


「こちらも手を尽くすし君は若いから回復見込みはある」と医師は言ってくれたが、何分神経の損傷である。今はなんとか動けるものの足には痺れも残っている、もしかしたら一生このままかもしれない。


 だがタイトはあまり悲観的にならなかった。

 あの場で見た壮絶な光景、その渦中の人物であったマキの受けたその苦痛、苦しみ。 それを思えば自らはまだ運がいいと思える。

 ここまで順調以上に回復したのもおそらくはであって、そもそもが怪我どころではなく、それこそ命を落としていたかもしれない。


 そしてあの時自分は何もせず、虚空から汚い液体を撒き散らしながら見ているしか出来なかった。

 だから、この傷は…タイトは誰にもこの考えを話してはいないが…


 そんな自分に下された罰だと考えている。

 一時とはいえ愛する人を見捨てた男、そいつが生涯かけて背負うべき罪、十字架だと。

 しかし、このような内向きな考えでいては、それこそ本当に一生治らないままかもしれない。病は気から、は案外本当の事なのだ。

 だが。


 深い青色をした贈答用のクッキー缶を斜めにし、ガラガラと音をたてながら中身を口中に送り込んでいたマキが、 自分をじっと見つめるタイトに気付く。

 やや逡巡した後、その視線の意図をマキなりに解釈したのか、笑みを向けながら殆ど空のクッキー缶を差し出す。

 タイトは手を振って辞退する。


「いいから、全部喰えよ」


 そう呟いたタイトの眼差しはクッキーの欠片まみれの口元の上、てっぺんの光っている小さい鼻。

 その更に上の、笑顔で横に細くなっている、二つの黒い銀河の瞬きに注がれていた。

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