第46話
病院の中、というものは独特の雰囲気がある。
生と死、歓喜と悲鳴、希望と絶望、清廉と汚濁。
そういった相反するものが渾然一体となって一箇所に存在し、消毒の香でそれを覆い被せているからだとタイトは思う。
そんな所だから、そこを訪れる人間の思いも様々だ。
目にするのも嫌な人もいるだろう、霊廟を参拝するかの様な気持ちの人間もいるだろう。
今のタイトはというと~幼い頃注射が嫌で嫌で泣きじゃくった経験から言えば、あまり好きな所ではなかった筈だが~ 今は浮き足だった気持ちでその門をくぐっていた。
あの日、タイトとマキが字実野と対決し、辛うじて窮地を脱したあの朝。
あれから既に二ヶ月近くが経過しようとしていた。
瓦礫の山の上でわんわんと泣いていたタイトの前に、半信半疑といった顔の警官と共にやって来たのは、あのシックザールの老人、 東洋だった。
タイトとマキがこの病院に担ぎ込まれ、事態がようやく落ち着いたその頃に。
あらためて東洋と面会した時、タイトは正直どうしていいか解らなかった。
シックザールで受けた「仕打ち」はまだタイトの心を深く抉ったままだったし、何よりも何故東洋があの場に現れたか、皆目見当も付かなかったからだ。
その事を慎重に言葉を選びながらタイトが告白すると、東洋は笑いながらこう答えた。
「ははは!織部さん、忘れちゃいませんか、私共も糸が視えるんですよ?」
東洋曰く別れる時に二人に『糸結』しておいたのだという。
「え、何色の糸だったか知りたい?それは…は、や、いや既にご存知でしたか、こりゃ失敬」
そうして暫し様子を見ていた東洋は、その糸が「灰」に変わるのを見届けるや、糸の結ぶ先目指して行動を開始。
件の廃工場に行き着き辺りを伺う内、争う様な喧騒が聞こえて来たので「折野に連絡を取って」警察を呼んだという事だ。
それだけではない。
字実野とタイトとマキが何故あの時間に廃工場にいて、何故廃虚を半壊させる事態に至ったのか。
普通ならばゴシップに餓えているマスコミの餌食となり、根掘り葉掘り抉り出されて腸まで陽の元に晒されたであろうこの顛末を。
それなりに無理のない範囲で、それもタイトとマキに嫌疑の係らぬ形で、警察と口裏を併せての隠蔽工作までしてくれたのである。
「…そこがちょっと分からないんですけれど。感謝してもしきれませんが、なぜそんな事が出来たんですか?」
得意満面といった調子で演説を行う東洋を制して、タイトは自分の感じた疑問点を素直にぶつけてみる。
「はは、それはツルさんの昔取った杵柄というか、御人徳、というやつですな」
「…あの人が?」
二人をけんもほろろに追い返したあの老人が、自分達の為に動いた?
「あの人も誤解され易い人ですからなあ。そもそも、あなた達を暫しの間こっそり見守る様に私に指示を出したのは、他ならぬツルさんなんですよ?」
「…」
開いた口が塞がらないとはこの事か。あの老人は一体どういうつもりなのか。
「訳が解らない、という顔ですな、まあ無理も有りません。
ひとつだけ、あの人は糸視能力者であるがゆえに、とてつもない苦労をして来たんですよ。
まあ詳細はあんまり口外できない故勘弁して欲しいのですが、今はツルさんが過去にして来たことが縁となって。
過去の糸が巡り巡ってあなた達お二人を救えたと。そうとだけ、ご理解頂ければ幸いです」
糸によって紡がれた関係が、巡り巡ってタイト達を救う。
糸と関りを断ちたかった自分が、糸の力で窮地を脱し、結局は糸に絡めとられれている。そんな気分になって、 なんだか、とてもむず痒い様に思える。
「糸が視える事で辛い経験もして来たでしょう。でも、それを変えてゆくのは自身の気の持ちようです。
マキさんの様に常に前向きである人もいれば、あの男の様に自身の闇に糸を絡めて引き込もうとする輩もいる」
「…」
「いや、長々としゃべり過ぎましたな、まだベッドから出られないのに失礼しました。ゆっくりと身体を休めて下さいませ」
ひとしきり言いたい事は言ったのか、東洋はタイトのいる病室から退去していった。
この時の会話はタイトに様々な衝撃をもたらした。
そして今。あの日、タイトに別の衝撃を与えた「あの男」のいる病室の前にタイトは立っている。 病院側にだが入室の許可は取れている、迷う事は無い。
大きく息を吸って、ふっと吐き出す。
控え目に、しかし確実に扉をノックすると返答を待たずに扉を開ける。
その必要がないのを知っているのだ。
「入ります、字実野さん」
かつて、タイトを恐怖のどん底へ押しやった男。暴力と人の心の闇を体現する男。
それが今、身体中にチューブを繋がれ、顔面を包帯で被われた状態でベッドに横たわっていた。
そこにあの夜感じた脅威はない。
字実野はあの後一命は取り止めた。しかし未だ意識は回復していない、昏睡状態なのだ。
それだけに留まらず、瓦礫の山に受け身もままならぬまま顔面から飛び込んだ事によって、顔を中心に取り返しのつかない傷を負った。
今の字実野は、糸は勿論だがそれ以前に物を見る事が出来ない。視力そのものを失ったからだ。
口は開くが咽をやられて満足にしゃべる事が出来ない。食事は辛うじて取れるが砕けた顎では固い物はもう食べられない。
両手足も酷い打撲に骨折、こちらは時間をかければ直るだろうが目も見えぬ、口も聞けぬ有様で果たしてリハビリが出来るものなのか、タイトには想像もつかない。
総じて、酷い有様である、これが字実野でなければタイトにしても涙を禁じ得ないであろう。 だが、今目の前に転がっているのはあの字実野に他ならない。
彼がしようとした事、そしてマキにした事を思えば、命があっただけいいだろうとすら思う。
もはや、この男が起き上がっても他人を害する事等、一生出来ないだろう。
その点で言うならば、これからこの男の介護に当たる人間の事を思うと当事者の一人として申し訳なく思う。
しかし、そこまでだ。哀れには思うがそれ以上の感情はない。
畏怖、そして恐怖。
この光景を目にして、血の通った人間ならば感じる筈のそういった感情が、まるで麻痺したかの様である。
「…字実野さん」
タイトは目の前の、静かに横になっている大男に語りかける。
「…今日はお別れの挨拶に来ました」
「字実野さん。あの日、あなたが僕達に…マキに対してした事は許せません。
僕らを騙していた事、暴力を振るった事。いまだに、あの光景を夢にも見ます。
多分、生涯忘れる事はないでしょう」
「…それでも、僕は感謝しているんです。アレの…糸が紡いで導かれた出逢いであったとしても、ずっと、ずっと、くすぶっているしかなかった俺に、希望を、道筋を指し示してくれた。シックザールの人達と出逢わせてくれた。
これらは、字実野さんの本来の目的とは違う事だというのも、理解しています」
「だけど、その上で、全て飲み込んだ上で、言わせてもらいます。…字実野さん、ありがとうございました。そして、さようなら」
一気に、所々噛みながらも、長い間言おうと思っていた事を言えた。
これはけじめなのだ、終わったのだ、ようやっと。
この儀式を通過しない事には新しい道を歩いていけない、タイミングは今しかなかった。
タイトは何の感慨も無く退室すると、そっとドアを閉めた。これが今生の別れになるだろう。
「…さて」
周囲に誰もいないのを確かめてから、タイトは己の頬を両手で打つ。
ここですべき一番重要な要件はこれで済んだ。 あとは、この建物からも去るだけだ。
長い間面倒を見てもらった訳だが、それに対する感謝はあっても未練はない。
足取り軽く、患者や付き添いの人がひしめくロビーを通過して別の病棟へと進んでいく。
今日は、マキが退院する日なのだ。
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