第45話
最後の特攻の勢いは凄まじく、自らの身体のバランスを保てなかったタイトは崩れつつあるコンクリの床に叩き付けられた。
タイトが乗り込んできた鉄球が食い込んだ場所を基点に、そこへ沈みこんでいくように…堰を切ったかの様にこの場の崩壊が始まっている。
もうもうと立ち込める粉塵が、衝突の勢いの凄さを物語っている。
既に視界もままならぬ状態だが、一秒二秒、そんな時間でタイトも崩壊に巻き込まれ奈落へと落下していくだろう。一刻の猶予もないとはこの事だ。
ここにこのまま立ち竦んでいれば、いずれはこの足場ごと地面に衝突する他なく、マキもタイトも、とても生きていられるとは思えない。
いや、それ以前にだ。あれだけ蹂躙されたマキが、無事でいる訳がないのだ。
「マキ!」
散々に、散々に遅れてしまった。
暴力の嵐に晒されるマキを前にして、泣き叫び失禁する事しか出来なかった。
そんな自分が情けなかった。
それでも。だからこそ、今度こそ守りたい、救いたいのだ。
そのマキはあろう事かまだ字実野にしがみついていた。
既に平行を失いつつある床と、ひび割れ崩れかけた足場は字実野に姿勢を正す余地を与えず、傍らにぽっかりと空いた地獄の入り口へ二人を誘おうとしていた。
(まずい!)
遮二無二に駆け出すタイト。崩壊する足場は、一番早く崩れ始めた鉄球の場所を中心に斜めになっている。
タイト自身そこから投げ出されてきたとはいえ然程遠くへは吹っ飛んでいない。
ずるずると滑り落ちる二人の側へは意外に早く行けるだろう。
投げ出された衝撃で強く打った脚の痛みをもろともせず。
ついさっきまで鉄球の振子運動をする事を散々に拒んできた意気地のなさをも過去の物として。
タイトは駆ける。
あの時、あの朝のホームで出来なかった事を。
遅きに過ぎたかも知れない、けれど、彼女を、マキを失わない為に。
なりふり構わず、おのが命を顧みず。まだ、喪えない。失いたくない!
だが、時は止まる事を知らず、無情にも二人は大量の瓦礫と共に落下しようとしている。
「駄目だ…!駄目だこんなの!なんとか…何か、何か!」
事ここに至っても絶望に屈しなかったタイトに何かが報いたのか。
危機的状況に追い込まれた事で何か発露を促したのか。
とにかく、この時この瞬間、タイトには「あれ」が視えたのである。
コンクリートの床のはぜる音。錆び付いた鉄骨が歪んで軋む悲鳴。耳をつんざく轟音鳴り響く中、タイトは辺りが無音になったかの様な錯覚を受けた。
それほど迄に、眼前の光景に心奪われたのである。
よつん這いのまま血塗れで字実野にしがみつくマキのその薬指に。
赤い糸。
あんなに探して、でも見付からなくて、いつの間にか旅の本分から外れてしまっていた、赤い糸。肝心な時に視えず何の手掛かりにもならなかった、あの赤い糸が、今視えている。
マキから伸びた赤い糸は、そのまま字実野に幾重にも巻き付いていた。
では、マキの糸の繋がる先は字実野だったのか?
あの、粗暴で、慈悲の欠片も持ち合わせていない、自己中心的な男が?
いや。
その糸は字実野を経由して、マキを乗り越え、そして。
タイトは己の指を見る。
ああ。そうか。そういう事だったのか。
視えなくなる訳だ。
糸視能力者同士に繋がる糸な上に、中継点にもう一人糸視能力者がいたのだから。
思いもかけない、そして願ってもない事態に、普通なら飛んで喜びを表現したい所だが。この時タイトが真っ先に行ったのは、
「頼むぞ!掴め、『掴む』んだ!」
触れ得ざる筈の糸をその手に掴む事だった。
タイトはあの日、ドローン大会での出来事を想起していた。
あの時も、必死だった。
何も考えず一心不乱に糸を手にした。
結果、それまで目にする以外に他なかった糸を手にしたのだ。
今だって、出来る。
果たして。
「やった!」
タイトの手の中に、しっかりとした繊維の感触が伝わる。
か細い、頼りない太さではあったが、今はこれにすがる他ない。
「てや!」
タイトは渾身の力を籠めて糸を手繰る。
自ら駆け寄りながらというのもあったが、存外あっけなくマキは字実野を開放し、タイトの手の中に倒れこむ。
(まだだ…!)
だが状況は予断を許さない、ここも今すぐ崩壊する。そしてこの高さから落ちたのではどのみち二人とも助からない。
(…!?)
タイトの中にある閃きが走る。
二人の傍らにはあの鉄球。クレーン自体は危うげに揺れてはいるものの、今だしっかりと地面に足を付けている。
そして、字実野と、マキと、タイトを繋ぐ糸は今だ彼の手中にあった。
(一か八か。頼む!!)
タイトはマキを抱えたまま、鉄球を中心に半周程廻る。
そしてそのまま、跳躍する。それとほぼ同時に、背後で足場の崩れ落ちる音がした。
「いけぇ!!」
その胸にマキをしっかり抱き締めたまま、タイトは落下していく。だが、ただ落ちたのではない。
「ぬああああ!!?」
二人が落下するのと引き換えに、糸で繋がれたままの字実野が上昇していく。
タイトは『糸握』で掴んだ糸で結ばれたタイトとマキ、そして字実野とで、鉄球を支点に滑車を作ったのだ。
如何に大柄な字実野とて、高校生二人分の重量に勝る程はない。その重量差を利用して、落下の勢いを殺そうというのだ。
未だ知らぬことの多い糸の特性、しかもまだ二回しか使った事のない「糸握」が、自分達以外の物理法則に干渉できるものかは全くの未知であったが、死すれすれのこの状況で、なんとか賭けに勝った形だった。
鉄球の辺りから、繋ぐワイヤーの付け根の金具から、火花と金属の削れる音がする。
糸握で現実に掴んだこの糸が、どれ程の強度を持っているかはわからない。
それより先に、クレーン自体が持たないかもしれない。
何よりもタイト自身、己とマキと字実野の体重のかかった糸を握り続けながら落下しているのだから掌にも、支える肩にも、激しい痛みが走っている。だが、それは些細な事だ。
とにかくこの場を。
マキを救う事が最優先だ。
「ぐええええ!!!」
鈍い音を立てて字実野が猛烈な勢いで鉄球にぶち当たる。糸が張り詰め、それでもなお勢いを殺しきれずタイトは糸の先で何も出来ぬままバンジージャンプの如く踊る。
字実野の方も鉄球にまともに体当たりをしては敵わない、彼の意識はそこで飛んだ。
それが、契機となった。
三人を結んでいた糸は、消えた。
いや、再び視えなくなったのだ。
字実野は勿論、マキを抱えたタイトもそのまま一直線に地面に向けて落下する。
咄嗟の判断が効を奏し多少の高さを相殺したものの、依然として建物二階分以上の高さはある。
(マキ…マキ…!)
タイトはマキを庇う様に、しっかとその腕の中に手繰り寄せる。
丁度上手い具合に自身の体が下になって彼女を包み込む形だ。
(いいぞ!)
瀕死のマキを包む肉の衣となったタイトは、その落下時における衝撃の全てを一身に受ける形になった。
崩れかかった足場が、はみ出た鉄骨が、汚れた硝子の破片が、容赦なくその背中と云わず足と云わず突き刺さってくる。
だが、今彼の頭の中にあるのは。
(俺はどうなってもいい、こいつは、マキだけは!)
やがて、そうした廃材との衝突が少しずつだが確実に、殺しきれていなかった落下の勢いを相殺していく。そして。
「っあぐ!」
一際大きい衝撃の後。
更にもう一回バウンドして、タイトはようやっと、焦がれていた大地とのランデブーに成功した。
朦々と煙る、瓦礫の山の上でだが。
「あ…ぐ」
如何に落下の勢いを削いで来たとて、それで地上十メートル以上の高さから落ちて、無事な訳がない。
強かに背中を打ったタイトは、呻きながらしばしの間もんどりうつ。胸にかき抱いた物に気を使いながら。
その間に新たに何かが落下した様で、轟音と共に再び粉塵が舞い散る。それは受け身をとる事もままならない字実野が落着した証なのだが、この時のタイトにはそれを気にする余裕等ない。何よりも、
「う…マキ!マキ?」
己の状態の把握もそこそこに、腕の中のマキの安否を確認するのが、この時の彼の最優先事項だったからだ。
「…」
酷い、本当に酷い有様だ。
こうしてすぐ目の前で直接視認すると、あまりの凄惨さに目を背けたくもなる。だが、それはタイトに許される事ではない。
ぼこぼこに腫れ上がった瞼。ねじ曲がってしまった鼻。数本しか残っていない前歯。
年頃の娘が負うには、あまりにも惨い仕打ち。
しかし、直接の下手人では無いだけで、この彼女の惨状を招いたのは他でもない、タイト自身だ。
身体だって相当な損傷を負っている。あれだけ強烈な蹴りを食らったのだ、年頃の女の子が、だ。内臓に深刻なダメージを受けていてもおかしくはない。
字実野にしがみついたのが最期の力を振り絞っての抵抗で、今力尽きて死を待つばかりなのかもしれない。
事実、そのマキはさっきからピクリとも動かないのだ。
「マキィ!マキィ…!頼むよ、返事してくれよ…」
必死に問いかけを続ける。いやだ、こんな形で別れるなんて。
折角、折角糸を見つけたんだぞ?
見つけたんだよ、マキ。俺達がこの夏、ずっと追い掛け続けて来たあの糸の行方を。
それを報告したい、させて欲しい。だから。
「マキ…頼む、お願いします、目を開けてくれ…」
「…お」
「!!」
乾いた血と土埃がこびりついた唇が、
微かに動く。小さな、か細いが確かな声が、聞こえる。
タイトは耳を近づけて、その小さな声を聞き漏らすまいと懸命に耳を澄ませる。
「りゃ…ふみぇん、はべ、たひ…」
歯が抜けている上に口の中まで腫れているのだから、声を出すのがやっとで、普通なら聞き取れる内容ではない。
だが、タイトにはわかった。
ラーメン食べたい。
マキだ。いつもの、始めて出会った時以来の、あのマキだ。
ふいに、タイトの胸中が形容しがたい感情で一杯になる。
熱いものが込み上げて来て、それはそのまま滝の様に双眸から流れ落ちる。
「う…!うぅ、うわああああああああああああ!」
タイトは泣いた。無心に、男泣きに泣いた。
瞳からとめどもなく零れるそれは、さっきまでの己の不甲斐なさと恐怖からの涙ではない。
自分が本当に、本当に失いたくなかった物。それが無事だった事。決断は遅れたけれど、ギリギリで護り通せた事。
あの恐怖の建物からついに開放された感慨。背中に走る強烈な痛み。
それらが渾然一体となって、タイトは泣いた、滂沱した。いつまでも泣いた。
薄目を開いたマキが、震える右手でその涙を拭っているのをそのままに、泣いた。
深い藍色と鮮烈な赤の入り雑じる昇りかけの太陽に照らされながら、タイトの慟哭は夏の朝の空に響き渡った。やがて、それに入り雑じる様に、遠くからサイレンの音が近づいて来ても…。
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