第41話
眼の前で繰り広げられる血の惨劇を前に、タイトはマキの言った事を蔑ろにした己を責めていた。
タイトには全く見抜けなかったが。マキはもしかしたら、こういった字実野の本質まで看破していたのではないか。
それでいて、いやだからこそ、マキは危険を顧みず自分を追っかけに来てくれたのではないか。
その結果が、かつてマキだった血の滴る「何か」だ。
「ごめん…マキ、ごめん」
「おらあ!」
字実野が再びマキを持ち上げて、顔と言わず腹と言わず無情に拳を叩き込む。
もはやされるがままのマキは、殴られる度に風に吹かれる風鈴の様に揺れる。やがて、字実野が一瞬大きな貯めを作ったと見えたその瞬間、
ゾウを連想させる太い足が轟音を伴うかの如く速度で繰り出され、マキは今日何度目かの滑空を見せた。
「マキ!」
今日、何度目だろう、彼女の名を叫んだのは。
血潮の軌跡を残しながら空を翔んだマキは、ろくに受け身も取れぬまま顔面から汚れたコンクリートの床に叩き付けられた。
先刻より自らがまき散らかした血の海の中でもがきつつ、マキがゆっくりと頭を上げる。
その顔は圧倒的な暴力で力任せに破壊された結果、快活で愛嬌のあったかつてのマキの面影は微塵もなかった。
そうさせたのは間違いなくこの自分だ、という逃れようのない事実がタイトに重くのしかかってゆく。
彼女は今なんとか首をもたげて自分の方をじっと見据えている。だが見れない。
その顔は今度こそ自分を責めているに違いない。見るのが怖い。
目の前で起こっている全てから目を反らしてしまえば、何も無かった事になるのではないか。いや、そうなって欲しい。
だが、タイトのそんな願いは無下にも覆される。
尿で濡れた足元が、不安定なクレーンに乗っているタイトのバランスを崩させ、姿勢を立て直す動きの中でタイトはマキの顔を直視してしまう。
衝撃だった。
無惨な有様になってしまったマキの表情に、深い怨嗟と憎悪が浮かんでいたからではない。
逆だった。
確かにマキの顔の造形は尽く潰され、鼻は曲がり歯は折られ、目蓋は何倍にも腫れ上がり、その下の瞳を確認するのも困難だ。
だが、その僅かな隙間から覗くその瞳。
充血し、血とも涙ともとれる液体が目尻から流れるそこは。
あの日、二人が初めて出会ったあのホームですれ違った時。
タイトの心を一瞬で虜にした、あの星辰の耀きを変わらずに放っていた。
そこには負の感情は一切感じられない。
あの時と変わらず、ただひたすらに真っ直ぐに。
星々の彼方、無限に広がる
(マキ…!)
マキは、事ここに至って、尚諦めていないのだ。
ズタボロになり息も絶え絶えになりつつも、まだ信じているのだ。
自分の事を。タイトが、「計画通りに」行動を起こす事を。
(アイツは、あんなになりながらもずっと俺との作戦を実行していたんだ。
なのに俺は…今の今迄自分可愛さにここで震えて、小便を漏らしてただけじゃないか!)
手の平に、汗で濡れ体温で温かくなったワイヤーの感触が伝わってくる。
錆と土埃と、アンモニアの臭いが鼻腔をくすぐる。
晩夏の朝の風に吹かれ、失禁し濡れたズボンの冷たい不快な感覚が、今更ながらに伝わってくる。
「気に喰わねえな」
「!」
不意に放たれたぶっきらぼうな声の方へタイトが向き直ると、字実野が口の端を歪め苛ついた顔付きで、死に体のマキに迫りつつあった。
「気に喰わねえなあ。その、『目』がよ。暗がりの猫の目じゃあるまいし、やたらめったらピッカピカさせやがって気持ち悪いんだよ!
そんな往生際の悪い目ン玉はなあ」
そう言うがいなや、字実野が懐から取り出した物を見て、タイトは心臓が止まりそうになる。
ナイフ。それも、これまで二人を玩ぶかの様に幾度も投じられて来たのとは形も大きさもまるで違う。
折り畳み式のそれを、字実野は手慣れた仕草で器用に片手で開いてみせる。
切っ先から根元まで、ギラリと朝焼けの光が反射する。その刃渡りは人の命を絶つのに何の過不足も無いだろう。
「こいつでチョイチョイッ!と抉り出してやろうな?
ボッコリ腫れたその
なーに、ちょいと辛抱してりゃあ目障りなものがなんにも見えなくなってスッキリさっぱり、終わった頃にはむしろ俺に感謝してるだろうぜ」
やめろ。
それだけは。
俺は守れなかった。マキを。
傷付くままに任せていた。
でも、でも
字実野はマキへにじり寄ると、血で絡まった髪を無造作にひっつかみ持ち上げる。
と、そのまま乱雑に引っくり返して仰向けにさせる。
抵抗するだけの力も残っていないのだろう、マキの方はされるがままだ。
それだけは。
その、俺のこれまでの短い、つまらない人生の中でたったひとつ見つけた
「おらよ!」
「ぐぎいぃぇ…」
逃げられない様にマキの上にどっかと字実野が座り込む。
そして流れるような所作で、その大きな掌で少女の顔を固定する。
巨体にのし掛かられたのと、酷く腫れ上がった顔面を容赦なく掴まれたのとで、堪らずマキが苦悶の声をあげる。
何にも変えられない。
代わるものなんてない。
「目ぇつぶってる方がしんどいぞ?まあ俺はその方が楽しいが…な!」
字実野がナイフを構えその狙いを定めるとゆっくりと、
焦らす様にその切先を眼球へと近づけていく。
その耀きは。
「うわあああああああああああああああ!!!」
タイトは吼えた。
これまで発した事のない声量で、閑散とした山中に響かんばかりに吼えた。
今まさにマキの目蓋に刃を射し込もうとしていた字実野も、その尋常ならざる咆哮を耳にすると手を止めて、暴力の虜になりすっかり放置していたタイトを見やる。
「うおおおああああああああああ!!!!!」
タイトはそのまま吼え続けながら、鉄球の上で身体をしならせ前後に揺さぶると、ワイヤーが不快な音を立てて軋みながら先端部ごと揺れ始める。
やがて重心の移動に従って、僅かずつ、しかし確実にワイヤーの揺れ幅が大きくなっていく。
「今になって何を始めてやがる?」
足下から垂れる尿の滴を陽光に煌めかせながら、へっぴり腰で懸命に揺れている有様を見るに、あの鉄球の上にいられなくなったのでこちらに飛び移ろうというのだろう。
クレーンと建物の間にある空間は約1.5メートル。
成人男性なら跳び移れない事もない距離ではあるから、現役高校生ならば雑作もないだろうが、先程までの醜態を見るに腰ぬけのタイトの事だ、ギリギリまで距離を詰めるつもりに違いない。
「うわあああああああ!」
更にタイトが鉄球の上で身体を揺らす。
そうして今や鉄球は大きく180°に近い弧を描き、一番近い時には建物のへりに当たろうかという様相を呈して来る。
こうなると字実野としても放置してはいられない。只でさえ経年劣化と解体途中で脆くなっている建物を、これ以上傷付けられては堪らないのだ。
「おい、てめえもう止めねえか…」
彼が
「うおおわあああああああ!!」
衝撃。
大きな岩が砕け散るかの様な轟音。足場に響き渡る振動。顔に当たるモルタルの破片と舞い上がる粉塵。
不意の事態にさしもの字実野も対処しきれず、姿勢を崩してつんのめる。
「な…!」
タイトは振り子の様に揺れるその勢いのままに、自らの乗った鉄球ごと建物へ体当たりを敢行したのだ。
しかし一旦勢いのついた鉄球はそれでは止まらず、弾かれる様に元来た方向へ飛んでいくと、半径の最大地点で止まり、またこちら目掛けて突貫してくる。
その上に跨がったタイトは歯が折れんばかりに食いしばり、血走しったその目には些かの迷いも感じられない。
「うおおおおあああ!!!」
再度の衝突。
「…まずい、な」
字実野がひざまつき両手で踏ん張っているその床に、歪なひびが走っている。
それは彼の知る限り以前からそこにあったものでない。見れば今も鉄球の衝突部位を起点として多くのひびが入り、傷みの激しかった端の方から小さな破片が剥がれ落ちている。崩落している。
中で多少暴れる位ならこの廃墟も問題無いが、「解体が再開されては」話が別だ。
いまや、建物の崩壊が始まっているのだ。
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