第40話

 だが、何故今字実野はそれを言うのか。

 本当に黒死縄が付いている可能性は否定出来ないが、むしろこの状況で更にタイトを混乱させようと企んでのブラフなのではないだろうか。

 事実、タイトは更に思考能力が低下して、「その糸がどこに繋がっているのか」という、糸視の基本的な法則性から相手の発言の真偽を探る所迄判断が及んでいない。


(もう一息だな。手間はかかったし存外腰抜けではあるが、いないよかマシだろう)

 

 年若い糸視能力者、それも他人の運命に意図的に干渉出来るタイプのは、かなり貴重なのだ。

 だが、そうしてじっくりとタイトを追い込んでいた矢先。視界の端に、信じられないものが写りさしもの字実野も思わず歩みを止めてしまう。


「…おい」


 静かに、重く沈んだ低い呟きを漏らしながら字実野はゆっくりと振り返る。

 そこには、血をボタボタとこぼしながら、今にも膝から崩れ落ちそうになりながら、ぼこぼこに腫れ上がった顔で、

 それでもなお気丈に、しっかと字実野を睨み付けるマキがいた。


「止めてくれ!マキ、もう止めてくれー!」


 堪らずにタイトが絶叫する。

 もう充分だ。もう沢山だ。字実野を倒す作戦は失敗したんだ。

 もう、もうそれ以上傷付く事はないのに!

 

 だが。

 タイトは見てしまう。

 髪の毛はぐしゃぐしゃになりいびつに腫れ上がった顔の、その痛々しい風貌の中にあって、一箇所だけ以前と変わらぬ部分がある事を。


「あ…」


 タイトは醜怪な血肉の塊と化した「それ」から思わず目をそらしたくなるが、依然光を失っていない、マキの瞳の輝きがそれを許さない。


 血と共に滴り落ちるそれは汗なのか、涙なのか、それ以外の体液なのか。

 痣だらけ擦り傷だらけ、埃まみれに血塗れの少女の、鬼気迫る姿の中で目だけがギラギラと光っている様は、何も知らぬ者がみれば大層不気味に写るに違いない。

 だが、タイトは知っている。

 少女の、マキの瞳の、その気高く強い輝きを。

 彼女の瞳にそれが宿っている間は、マキは決して諦めてはいないのだ。


 何を?


 勝利をだ。

 この場を切り抜け、字実野の魔の手から逃れる、その未来図からだ。


「…」


 腫れ上がった唇の端が上がり真赤に染まった歯が隙間から見える。

 異様かつ不気味な有様だが、その瞬間、マキは確かにタイトに向かって微笑んだのだ。


 大丈夫。タイトなら出来るよ。


 そう、語りかけられたような気がした。

 しかし。


(マキ…まだ、まだ俺にっていうのか?無理だ、無理だよ…)


 満身創痍のマキからのホラーテイストなアイコンタクトを受けながらも、 タイトはクレーンのワイヤーをしっかりと握り締めいまだ微動だに出来ずにいる。

 それでも、歪んだ肉の隙間から、マキはそっと見つめてくる。


(止めろ、止めろったら、そんな目で見られたって、無理だって…見ないでくれ)


「ぐげ!!」


 タイトの懇願を叶えてくれたのは、皮肉にもマキに放たれた字実野の拳打だった。


「…うぎぃ…」

「オラ、もうおねんねの時間は終わりだろうが!」


 猛烈なストレートを顔面に受けて再び虚空を舞いそうになるマキだが、その頭髪を字実野に無造作に掴まれてその勢いを殺す事も出来ない。

 そのまま、薄ら笑いを浮かべながら既にぐしゃぐしゃのマキの顔面めがけて二発、三発と繰返し拳打を情け容赦なく打ち込んでいく。


「ぐべぇ!あがあ!」


 ピクピクと痙攣を起こしながらもなんとか字実野に抵抗を試みるマキ。

 だが、その腕はあまりにか細く、貧弱だ。

 加えて殴打のダメージが深く残っている今のマキでは、 野太い字実野の腕にすがる事すらままならない。


「ははははは!痛快だなあこりゃあ!」

「うわあああああああああ!!」


 いつの間にかタイトは滂沱の涙を流しつつ絶叫していた。


「あ…字実野さん!!止めて、止めて下さい!分かりました言う通りにします言う通りにします、だからもう止めて下さい!」


 とうとう字実野に全て委ねると口にしてしまうタイト。

 もう、止めてくれ。これ以上、俺の大事な人をボロボロにしないでくれ。

 そんな思いからの懇願である。

 だが、


「…う…ぎぃ」

「…へ。聞いたかタイトさんよ。このズダ袋がそれは許しませんです…だとよ!」


 ぐしゃぐしゃの髪の毛をしっかと握り締めたまま、

 字実野はこれまでで一番の勢いで拳を放った。


「ぎいぃぇぇぇぇ…」


 言葉にならない呻き声を発しながら豪快にふっとんでいくマキ。

 着弾点に再び猛煙が上がり、古びた足場がぎしりと唸る。

 やがて拳をうち放ったままだった字実野がゆっくりと姿勢を正す。

 その左手にはマキの細い髪の毛が、血の滴る頭皮ごと絡み付いていた。


「ひいぃぃぃぃ!」


 恐怖の頂点に達したタイトが絶叫をあげる。

 それを全く意に介する事なく、痙攣したまま立てずにいるマキへ歩み寄ると、そのまま頭を掴んで持ち上げる。


「…」

「ははははは!ほらどうした、笑え、笑え!」


 もはや呻き声をあげる力すら残っていないのか、されるがままのマキ。

 そこへ字実野はさも愉快そうに笑いながら、容赦ない暴力の嵐を過剰なまでに叩き込んでゆく。


 ひたすらに殴り続けられたその顔はすっかり腫れ上がって、もはや誰なのか、の区別もつかない。

 足もとには血飛沫とともに光を反射する小さな何かが硬い音を反響させながら一つ、また一つと床に散らばってゆく。歯だ。


「うわあああああああああ!止めて下さい!止めて下さい!止めて下さい!お願いします!

字実野さん!止めて下さあああいいい!!!」


 タイト本人は気付いていないが、極限の恐怖に至ったタイトはこの時失禁していた。

 だが下着を通し着衣まで濡れて肌にまとわりつくその不快感を忘れてしまうほどに、タイトは今眼前で起こっている事に気をとられていた。その惨劇から目を離せずにいたのだ。

 一歩も動けず、凝視したまま喉が枯れる程に叫びながら。


 しかし、その悲痛な叫びは字実野の耳には聞こえていても、心には届いていない。


 折角の久方ぶりの「獲物」なのだ。とことん、いたぶり尽くしてから「処理」しよう。


 この猟奇的な一面は、仕事プライベートに関わらず字実野が常に内に押し込めている渇望だ。

 それは日常的にも勿論だが、仕事の上でも必要性のない欲求である。

 なればこそ、一旦解放されてしまえば、犠牲者を完膚なき迄に嬲り殺しにする。それが字実野なのだ。


 頼れる大人を装っていても、一皮むけば弱者をいたぶり血に歓喜する下劣な本性を隠せない。

 社会の暗部の底辺で蠢くだけの、首輪の無い、いや誰もつけようすらしない血に飢えた野犬。これが字実野という男の正体、そして限界であった。

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