第38話
その部屋は、元は広い間取りだったかもしれないが今やおよそ半分位がハンマーで粉砕され、二人の足元は無数のヒビの走った七、八メートル程の長さしかない。
床があったであろうあとの残りは虚空へ向けて開け放たれている。
翻って入り口の方をみてみれば、中途に終わった解体作業の残滓であろう瓦礫や木片の小山が出来ており、この残骸も二人の侵入するのを妨げていた要因の様だった。
「あぁ…」
タイトはここに入って来た時の つんのめった姿勢のまま、絶望にうちひしがれていた。
もうおしまいだ。ここから逃げるなんて、無理に決まっている。
可能性があるとすれば、外に佇む重機に猿の様に飛び付いて、そのアームを伝っていけば地上迄降る事は出来る。
だが、タイトはそんな曲芸師じみた軽業も、それを成し遂げられるだけの胆力も持ち合わせていない。
…マキは?マキはどうだろう?人並み外れた行動力と度胸を持つ彼女なら或いは…そして、ここから脱出してくれれば誰かに救助を申請する事だって可能に違いない!
タイトはすがる思いで隣に佇むマキを見上げる。
そのタイトにとっての最後の希望は、胸の前で組んだ両手から右手を細い顎の下にあてがい、真剣なまなざしで昇る朝日を二分する重機のシルエットをみつめていた。
薄桃色の鮮やかな朝焼けが、彼女の顔の陰影にそって光と影のコントラストを彩っている。
(もしかしたら、彼女もあれを伝っての脱出を考えているのかもしれない。)
淡い期待を抱くタイトだったが、マキから放たれた一言はそんな想いを完膚なきまで粉微塵に打ち砕いた。
「うん、決めたぞタイト君。ここを我らの決戦の場にしよう!」
「は?…は…?」
予想外の言葉に思考が追い付かずしばし唖然となる。
彼女は、あくまでこの廃工場の中で字実野との決着を付ける算段なのだ。
例え、それがどんなに無謀な事であったとしても。
字実野は二人が必死にこじ開けたあの扉迄辿り着いた。
マキの考えた通り、字実野は最初から二人をここへ追い込む算段でいた。
今頃二人は追い詰められた精神的ストレスと肉体的疲労とで、極限状態にある筈だ。
ならば、先程よりは御しやすいだろう。そう考えながら字実野は苦も無くあの扉を押し開いてゆく。
「…おいおい、タイトそりゃ何の真似だ?」
半ば呆れたていで字実野が目の前のタイトに声をかける。
そのタイトは生まれたての子鹿の様に小刻みに震えながら、クレーン先端の鉄球の上にへっぴり腰で乗っかっていた。
想定外であろう加重に、放置され汚れたワイヤーが軋みをあげる。
乗り移った時の弾みが抜けきらないのか、ゆっくりと、僅かな振子運動で目の前の鉄球が揺れる。
両手をしっかりとワイヤーにしがみつかせたタイトは顔面蒼白になり膝から下がひっきり無しにガクガク揺れている有り様だった。
「サーカスにでも入るつもりか?それとも童心に却って…
いや悪かった、お前がガキの時分には既にその手の遊具は児童公園には無かったかもな。いずれにせよ足でも滑らせたら一貫の終わりだぞ?」
そう語りかけながら字実野はタイトを救おうと歩み寄る。
「来ないで下さい!」
「ん?」
「それ以上…それ以上近付いたら…ここ、から、飛び降ります」
タイトは明確に字実野を拒絶すると、あまつさえ自殺を仄めかしてきたのだ。
「ふん、そうきたか」
ここまで追い詰めた相手が取る行動は大きく二つ、命乞いをするか、決死の覚悟で向かって来るか。
タイトの様に最後まで悪足掻きする奴もいるが、いずれにせよ大抵は上のパターンに落ち着く。
「やれやれ。俺を脅そうったって無駄だぞ?」
そう言って、字実野は緩慢だがしっかりとした足取りで、タイトとの距離を更に詰めてゆく。
「甘ったれ坊主の駄々に…」
字実野がそう呟いた、まさにその時だった。
その後方、瓦礫の小山に掛かったブルーシートが大きく翻ると
「どっせえぇぇぇい!」
大量の埃を撒き散らしながら、角材を携えたマキが鬨の声と共に踊り出して来たではないか!
その飛び出した勢いそのままに、一目散脇目も降らず字実野目掛けて突進してゆく。
その様はタイトに二人が初めて出逢ったあのホームで、貯水池で老人を救う為に見せた、あの全力疾走を思い起こさせる。
対する字実野の方はこちらに気を取られているのか、マキを背にしたままだ。
「今だ、いけっ…!」
乾坤一擲、反逆の狼煙、逆転の一打。
タイトがマキに対して期待していた全てが今この瞬間に凝縮していく。
マキなら出来る、やってくれる!
鉄球の上で屁っ放り腰のタイトの目に希望の灯が点る。
だが、忘れてはいやしないだろうか。
いかに年齢性別以上にアグレッシブな性格でも。
例え常識外れの胃袋の持主でも。
いくら並外れたスタミナを持っていたとしても。
それでも、やっぱり、
マキは高校二年生の、一人のか細い女の子なのだという事を。
タイトが久しく忘却の彼方に置いていたそれを。
マキが、彼が描き重ねるようなヒーローでも救世主でもなんでもない事を思い知ったのは。
丸太の様に強靭な、字実野の腕から振るわれた強烈なストレートを、顔面にまともに食らってもと来た方向へ吹っ飛んでいく、そんなマキの姿を見た時だった。
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