第37話
タイトとマキは字実野から逃れようと、得体の知れぬ廃工場の中を四方八方走り回った。
だが、この命懸けともいえる「鬼ごっこ」は、二人にとって圧倒的に不利な条件で行われていた。
建物の構造を把握する暇もなかった事は勿論、この建物自体が改装、或いは解体途中で放棄されているのか、侵入出来ない部所や半壊して進めない区画が点在している。
更に悪いのは、この段階で時刻は未だ午前三時を回った辺りであった事だ。
いくら日照時間の長い夏期とはいえども、流石に日の出までには幾ばくか早い。
結果、宵闇に支配された空間で、おぼろげながらにでも足場を確認出来る様な場所を探そうとするならば、僅かな窓か、壊れた外装の隙間から外の照明か月明かりが差し込む様な所しかない。
しかしそういった地点を確保して一時しのぎをしようとしても。いつの間にか間近に迄迫って来ていた字実野からナイフが飛んで来るので、おちおち息を整えてもいられない。
そうやって右往左往手当たり次第に駆け回っている内に、建物の外へはおろか、徐々に徐々に上の階へと追い上げられていっているのをマキは感付いていた。
(こりゃ、知らん内にオッサンの思い通りに誘導されてたパターンだな)
実際マキの考えた通り、字実野は二人をより逃げ場の無い場所へと追い込んでいっていた。
(…なんで…なんで、どうして…!)
頭から大量の埃をかむってむせながら、暗がりに足を取られて転倒し膝小僧を擦りむきながら、そこをマキに助け起こされつつも今度は古い蜘蛛の巣をまともに顔面に食らいながら、タイトはひたすらに疑問を投げ掛けていた。
それは、自分にこんな状況を強いている字実野の所業に対してではない。
その点は納得こそ出来かねぬものの、理解が出来ぬほどタイトは分からず屋ではない。
ただ、ただ、おのが不幸を恨めいての疑問符だったのだ。
(なんでだよ。なんで、なんで、俺が、俺だけがこんな目に会うんだよ)
それは、糸視能力を望まずとも獲得してこのかた、誰にでもなく幾度も問うて来た疑問だ。そして、誰一人として答えてくれた事のない問いでもある。
「タイト!転けてる場合じゃないっしょ!」
「マキ…」
唯一、それへの回答に近い物を提示してくれたのがこのマキだ。
たとえロマンチズムの固まりと笑われようとも、全ては彼女と会うその為に糸が見えたという事ならば、タイトとしてもある意味納得も出来よう。
それ位、彼女との日々は衝撃的だった。
だが、その事も今ここで死んでしまっては全く意味を成さない。
「ごめんね、タイト」
「え?」
不意に、全くの不意に、マキの口から謝罪の言葉が出る。
「なんの話だ?」
「あれさ、ホテルの件。勝手にチェックアウトしてさ。柄にもなく焦っちゃってたんだよねあの時」
「あ…いや、俺こそ済まない。お前の話、本当だったしその…酷い事言っちゃって」
正直、何故今なのだろうとは思った。
それでも、二人が決定的に不和となったあの一件を謝罪してくれたのは素直に嬉しかった。なればこそ、自分もマキの話を信じず、そればかりか罵倒した事を謝りたかったのだ。
事実、マキの直感は正しかったのだから。
「ふふ。んじゃ、お互い様って事でひとつ!」
「ああ、そうだな…なあマキ、字実野さん、諦めてくれた…のかな?」
「どうだろうね。そんな甘い人だとは思えないけど」
タイトがついそんな基本的観測を洩らしてしまったのには、それなりの根拠がある。
というのも、ここまで絶え間無く苛烈に施行されて来た字実野の追撃が、ぱたりと止んでしまったのだ。
なればこそ、二人が互いに歩み寄る余裕も生まれたのだが、だからといって字実野が見逃してくれた等という甘い考えはもたない方がいいだろう。
むしろ、マキが危惧する様に次の一手への布石と考えておいた方が良さそうだ。
「…だよな。むしろ、追い詰める必要がなくなった、て事は」
「ここがおいかけっこの終着点、なんだろーね」
そこまで考えてタイトは思わずぞっとする。
果たして、このまま字実野の手から逃れる事など出来るのだろうか。
こんな時、この場で何か糸でも視えればいいかと思ったが、やっぱりこういう時に限って一本だって見当たらない。マキにも相変わらず何も付いていない。
一応、それだけ付近に人はいないのだろうなという推測はついたが、それは現状打破が困難であると否が応にも認識させられただけだ。
(…ほんと、肝心な時に使えねぇ)
「う~ん、こういう局面こそなんぞ糸でも視えたらと思ったけど、凧糸一本見当たりませんな」
マキも同じ事を考えていた様で、これも同じくめぼしい糸を見つけられず嘆息をついていた。
「ま、視えないもんは仕方ねぇ!それよかあたしゃお腹がペコペコで御座るよタイト氏」
「おいおい…」
事ここに及んで、自らの空きっ腹の事を持ち出してくるマキだ。
タイトとしては最早苦笑するしかないのだが、しかし逆に考えればこれはいつもの、普段のマキそのままだという事でもある。
タイトを惹き付けたあの瞳の煌めきもそのままに、大袈裟に薄い腹をなでるマキにタイトも少し前向きな気分になってくる。
確かに、今二人は残忍な男に追われている。
ただ、すぐに命を奪ってこなかったという事は、捕まってすぐ殺されるという事もないだろう。やはり字実野はタイトを、その力を諦めていない。
ならば、そこに活路を見いだす事も可能ではなかろうか。
「お前、この状況下でよく腹の心配出来るな」
「むむん、聞き捨てなりませんなタイト君。ぼかあね、夕方車で置いてきぼりにされてこのかた、ついさっきまで走りに走りに走りまくって来たのだよ?
もうお腹と背中の皮がくっついてあまつさえ反転しそうな勢いだよ!」
マキが言うには、この廃工場は奥深い山林の中にあるという。
飛び切りの食いしん坊であるマキが、そこに至るまで満足に食事も採らずに東奔西走していたというのなら、確かに今目の前で昏倒されてもおかしくない非常事態だ。
同時に、そこまで自分を心配してくれたのかと思うと、嬉しく思う反面気恥ずかしく、申し訳なくもある。
マキの忠告は全て正しかった。なのに自分はそのマキの言い分に耳を貸さないばかりか、あまつさえ酷い言葉で罵ったのだ。
それでも、マキはここまで追っかけて来てくれた。
「マキ。ありがとう、そしてごめんな酷いこと言って。
そうだな、ここでしょげててもなんにもなんねーし、ここ出たらまたラーメン食いに行こうぜ、奢るからさ」
「うおおおまじっすか!こりゃさっさとせねばなりますまい」
そうだ。俺もしっかりしなければ、そして二人でここから脱出するんだ。
マキの体から溢れる力、そしてあの変わらぬ瞳の輝きを見てタイトにも内なる力が沸き上がってくるのを感じる。
マキは大きく伸びをすると、今いる辺りを伺い出す。ちょっと休憩のつもりが思わず長話になってしまった、もう字実野が追い付いてきていてもおかしくはない。だが今の所彼の気配は感じない。
「ふむ」
マキは二人の居た所から更に奥、僅かに光りの漏れる所を見つけると慎重に歩み寄って行く。
「何してんだ?」
「いやさ、この先通れるみたいなのよ…どうも外に繋がっているっぽ」
「!なんだって?」
二人が追い込まれたのは恐らくこの建物の三階のフロアのどこか。
現実的に考えれば、外に出れたとして容易に脱出出来るとは考え辛い。
この手の工場には、機材を搬入搬出する為の扉があるものだ。
だが、二階以上となると当然重機などの使用が前提で、人間が移動する為の設備ではない。もしも、この先がその搬入口だったら?。
しかし、そうではなくこの先が非常階段などの可能性もまだある。
この状況下、僅かな奇跡にでも縋りたくなるのは当然の心理だろう。
「タイト。ちょっと扉がキツイ。一緒に押してよ」
「お、おお!」
重々しく耳障りな金属の擦れる音、剥がれた錆びが舞い落ちながら閉ざされていた扉が開く。
縦に一本、儚げに見えていた光状がその幅を増していき、同時に工場内に蔓延していた、淀んで濁った空気とは明らかに違う、外の息吹と言って差し支えない風が吹き込んでくる。
「おーえす!おーえす!」
「おおおお」
二人は残された気力と体力を総動員して、希望へと繋がる扉を開け放つのに全力を注いだ。と、不意にそれまで感じられた頑強な抵抗がなくなり、金属の軋みを響かせながら錆びまみれの扉が一気に開く。
それまで全身全霊全体重をかけて扉と押しくらまんじゅうをしていた二人は、図らずも勢いづいて眩い光りに包まれたそこへ、前のめりに飛び込んで行く。
「うおん!」
「わあっ!」
そのまま打ちっ放しのコンクリートの床へ突っ伏していくタイト。
僅かな希望にかけてマキよりも懸命に扉と格闘していた分だけ、先にタイトが転んでしまい、上からマキが載っかっていった形だ。
「ありゃごめん」
「…謝罪はいいからさっさとどいてくれ」
ようやくこれでこの悪魔の城から脱出する糸口が掴めた。
そう思っていたタイトは先に目が慣れたのであろう、辺りを睥睨するマキの表情に、瞬時に不安に苛まれた。
やがて、タイトも周囲の環境を確認出来る位には視力が回復すると、マキのそんな表情の理由に合点がいってしまう。
まず、辺りはまだそんなに明るくはない。それでも、薄暗い工場内と比べれば遥かに光りに溢れているが、それでも東の空にようやく朝日の天辺が視え隠れする、そんな状態だ。
そして、二人が立つ場所は機材用の搬入口でなければ、地上に繋がる非常階段の前でもない。
そこは、この廃工場でも崩壊が一段と進んでいる箇所だと思われた。
壁の一面はすっかり無くなり、眼下の地面に瓦礫の山となって積み上がっている。
タイトと朝日の間を遮るように威容を誇るのは、風雨に晒されくたびれた印象の、ワイヤーの先端部に鉄球の備わったタイプのクレーン車だ。
ドロップハンマー。モンケンなんて呼ばれてもいたらしい。だが、その侘しさすら漂う異様な佇まいと風に軋むワイヤーの音は、それを見たものの不安を悪戯に煽る。
頬をなでる早朝の風。差込み始めた朝日。三階分の高さから覗ける遥か下で、嘲笑うかのように歪に積みあがった、生い茂る雑草に鉄筋の視え隠れする瓦礫の山。足元はひび割れ、崩れかかった立っているのも危うい床。
流石のタイトにも解る。これは詰みだと。
決死で開いた扉の先に待っていたのは、希望ではなく絶望だった。
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