第36話

「僕は、あなたとは共に進めません」

「なんだと?あれだけ言ってまだ解らんのか?」

「字実野さん。さっきあなたは僕達のせいで余計に人が亡くなった、そう仰いました。でもそれは違います」

「何が違う!お前らが余計なお節介しなければ、わざわざ苦労してバスを谷底に叩き込まんでも済んだんだぞ!?」

「そこです。字実野さんは結論から遡って僕達を批判されてる。

でも…その事実は確かに悲しい事だけれど、僕達には知りようの無かった事実です。少なくともあの段階では、未来指し示すあの糸ですら、あの老人に迫る危機しか象っていなかった。

あの時の僕達には…ああするしかなかったんです」

「それで、余計に多くの人が死んでもか」

「そこで問題になるのは僕達の行動ではなく、字実野さん、あなた自身の行動ではありませんか?」

「なんだと?」


 字実野の顔が怒りに染まり急変する。額に深い皺が縦に刻まれ、目は細く、眼光は鋭く。見る者を萎縮させるその厳つさにタイトは思わず気後れしそうになる。

 だが、その時ずっと腕に触れていたマキの手が、だんだんと下にずれて行き、タイトのてのひらとそっと触れ合う。


 細く、小さく、柔らかな指が静かに絡まって来る。

 高まる鼓動を抑えつつ、タイトはその手を握り返す。

 汗ばんだ掌を通して、マキの高い体温と、やや早い脈拍が伝わる。

 それはマキとはいえ、この緊迫した状況で緊張を隠しきれない事を示唆していたが、タイトは何故かその事に却って安堵していた。

 大丈夫。マキが側に居る。怖れるな、俺。


「根本を辿っていけば、あの老人を殺す、という行動そのものに問題があるじゃないですか。人を殺すのはその意思です、責任も手を下した人間にある。

他に誰がするからとか、そういう事ではなく、まずはあなた自身がその人道に反した行動をやめるべきだった!」

「ほざきやがったなこの野郎が」


 タイトの言葉をずっと聞いている間、字実野の表情は積み重なる怒気を孕んで更に醜く変貌していった。

 もはや、あの日彼等の危急を救ってくれた頼れる兄貴分はそこにはいない。

 今、眼前にいるのはタイトに対する憎悪を隠そうともしない、己の為ならば人の命も平気で奪う悪鬼羅刹の怪物だった。


「本当にいいんだな?俺の誘いを断っても」


 字実野は怨敵に向けるような憎しみの籠った視線を携えながらも、口調は冷静を保ち念押すように聞いて来る。

 数メートルの空間を感じさせない、悪意と憎しみの籠った空気を纏ったままの字実野の様子にふと一抹の不安と後悔が過る。

 しかし、片手に握るマキの手の感触が強まったのを感じたタイトは、そっと隣りを伺う。

 あの真摯なる眼差しのまま、静かに頷くマキ。

 何も迷う事は無い。


「はい」

「…そうか。残念だが仕方ないな」


 そう言うと字実野は小さく長く溜め息をついた。

 その後はさっきまでの鬼気迫る雰囲気から一変して、憑き物が落ちた様な穏やかな顔立ちに戻っている。その有様をみたタイトからも自然と、口から安堵の吐息が洩れる。


 先の字実野の剣幕から、事が穏やかに推移しない事も懸念していたのだが、どうやら少し過敏に考え過ぎていたようだ。

 この雰囲気なら、もしかしたら字実野に、今の身の振り方を見直す様に説得も出来るのではないか?


 結果的に決別する形になったものの、最初に出会ったあの時の感情を捨てきれないタイトが、そんな甘い考えを脳裏に思い浮かべていたその時である。


 不意に、後方から何かが彼に当たってきて体が中に浮いた。

 そのまま、姿勢を崩してチリが厚く積もった床に倒れ込む。

 同時に、それまで彼等の会話以外静寂が支配するままだった廃工場のフロアーに、耳をつんざかんばかりの高音域の金属音が響き渡る。


 もうもうと煙った埃が舞い上がる中、思い切り肩から床に突っ伏したタイトはその鈍い痛みと、容赦なく気管に入り込む粉塵に咳き込みながらも、体にのし掛かったままの暖かで柔らかい物の正体を探る。

 涙で塞がれた目蓋をなんとか開いて見てみれば、それは緊迫した顔で荒い息を吐いているマキその人であった。


(な、なんだ?)


 要は彼女に突然押し倒された訳なのだが、彼女が何故そんな行動に走ったのか全く状況把握が追い付かない。

 タイトは何が起きたのか見定める為その体制のまま首を捻って辺りを見回す。

と、彼等の後方、先程迄タイトが立っていた場所から真っ直ぐ直線を引いた先に設置されていた、剥き出しの配電盤に。何か光を反射するものが刺さっている。


 …ナイフだ。小さい、おそらくは投擲用の。

 それを視認したタイトはその軌跡を辿って視線を動かす。


「やれやれ大袈裟な奴だな。今のは威嚇だったんだぜ?

そのまま立ってりゃ何事もなかったのに、却って大事になってるじゃねぇか」


 そこには、投げナイフを手中で玩んでいる字実野がいた。

 つまりはタイトが彼との問答を終えたその、緊張から解き放たれ気の弛んでいた瞬間に。

 字実野から放たれたナイフを間一髪察知したマキが、体ごとぶち当たりその軌道からタイトを救ってくれたのだ。


「つかどうみてもドタマ直撃コースだったんですけど!」


 埃を払い除けつつ起き上がったマキがくってかかる。

 確かにマキのいう通りあのままボケっと突っ立っていたならば、今頃は配電盤の代わりにタイトへナイフが突き刺さっていたに違いない。

 その想像へ至って、タイトの全身に悪寒が走る。


 俺は、あの、字実野さんに、…殺されかけた?


「そうかぁ?こいつを投げるのも久々だったからなあ、まあ無事だったからいいじゃねぇか」

「と、とんでもない!何を、何を言ってらっしゃるんですか!何故、何故、こんな事を!?」


 マキに支えられながら自身もゆっくりと立ち上がると、タイトも字実野を糾弾する。

 心底惚れ込んだかつての恩人から直に命を狙われたという、これまでの人生で一度も味わった事のない極限の事態。

 その衝撃は、先程みせた毅然とした態度と威勢とを、タイトからすっかり奪い去ってしまい、今もなんとか絞り出した声は恐怖からかすれ、震えていた。


「ちょっときつめの冗談じゃねえか、情けねえな。…にしてもよ、お前ら二人揃って、ちょいと鈍すぎじゃねぇか?さっきの名探偵ぶりのわりにはよ。

…考えてみろ。何故、俺は早々に自分の所業を認めた?何故、わざわざこんな所で二人きりで相談をしようとしたのかを、よ」


 字実野の言葉にタイトに戦慄が走る。

 今の騒動で(本日二回目の)足下に転がったスマートフォンを拾う事も考えつかない程、タイトの脳内は混乱と恐怖に充たされていた。


 そうだ。人を平気で殺す人間が、それを第三者に知られて、それを良しとする筈がないではないか。

 タイトが自らを拒絶したら、或いは…最初からそのつもりだったのか。

 字実野は、自分を殺すつもりだったのだ。


「タイト!走る!」


 呆然自失状態のタイトの腕を強引に取ると、マキが力強くその場から駆け出す。

 刹那、二人のいた場所目掛けて再びナイフが放たれ、金属を穿つ甲高い音を立てて廃材の山に突き刺さる。


「ひっ!」

「今は何も考えずに走る!」


 恐怖から身がすくみがちなタイトを牽引し、マキはとにかく字実野から距離を取る事を優先する。それは、彼女が場馴れしているからなのか、それとも天性の直感の成せる技なのか。


 字実野は二人が立っていた場所まで歩くと、先程放ったナイフと、タイトが落としていったスマートフォンを拾い上げポケットに押し込む。

 そのまま、何ら慌てる事もなく悠然とした振る舞いで、二人が消えた後を辿って行く。


「お坊ちゃん育ちには少々刺激が強すぎるだろうが、ま、これ位スパルタでいかないとな?せいぜい頑張って逃げ回るこった」


 高校生二人と、殺しも生業とする裏社会に属する男。

 そしてこの廃工場は字実野が「城」と云うからには、その構造を委細承知している、文字通り彼の領土なのに違いない。

 勝負は、最初から着いているようなものだった。

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