第31話
不意に、タイトのスマートフォンに着信を告げる電子音が鳴る。
ハッとしたタイトは慌ててズボンのポケットから端末を引っ張り出す。字実野からだった。
(あぁ…!)
今、この時程この表示を渇望していた事はなかったであろう。
タイトにしてみれば、それはまさしく渡りに舟だった。
「字実野さん!」
「タイトか?…どうした何かあったのか?」
電話の向こう、タイトの上擦った声の調子にただならぬ物を感じたのか、字実野が彼の様子を伺って来る。
「な、なんでもありません!それよりどこにいらっしゃいますか?」
まさか先程迄のマキとのやりとりをそのまま伝える訳にもいかず、ただ只管にその所在を問うしかないタイト。
願わくば、近くに居て欲しい。そして彼のその想いが天に届いたのだろうか。
「今、お前のすぐ側にいる、駅前の公園だな?」
「本当ですか!」
「HERE RINKを見てたら会いにいけそうな距離だったんでな。この際だから驚かしてやろうと黙ってたんだが」
「すぐに!すぐに来てください!」
スマートフォンを両手に抱えながら懇願するタイト。
その必死な様子に、傍らで事の推移を見守っていたマキも、電話の相手が誰であるのかを悟る。
「駄目、タイト!」
二人をこれ以上接近させはすまいと、マキがタイトとの距離を詰めようとしてくる。
タイトは通話状態を維持したまま荷物をその場に置き去りに、彼女から二歩三歩と後ずさる。
「早く!早くお願いします!」
「解った、公園の北側の出入口に付ける。一分もかからん、来れるか?」
「はい!」
タイトにとって不測の事態が起きているのを察知したのだろう、字実野は迅速な対応で彼を誘導する。
気づけば、タイトはマキに対して一切の躊躇をせず踵を返すと一目散に走り出していた。
「駄目!駄目だよ!」
当然ながらそれを黙って見過ごすようなマキではない。すぐさまこちらに駆け出してくるマキに対して、タイトは身に付けていた鞄を反射的に放り投げていた。
「おわわっと!」
運動神経抜群のマキであったが、このタイトの行動は想定外であったようだ。
それとも、まだ充分にエネルギーの補給が出来ていなかったか。
飛んできた鞄を両手で受け止めたはいいが今度は視界確保がおざなりになり、タイトが地面に置き去りにしたままのリュックの肩紐に足をとられて見事に一回転してスッ転ぶ。
「あうちゃー!」
「ご…御免!」
謝りつつも、タイトの脚は止まらない。
今この時、タイトにとってマキは正視する事の出来ない、受け止める事の叶わない、
だから、それから逃げる為に字実野の元へ急ぐのだ。
幸い、この公園の敷地はそれ程広くはない。字実野の白いライトバンはすぐに見つかった。
字実野が身を乗り出して助手席のドアを開けて待っている。タイトは駆け込んだ勢いもそのまま、ほうほうのていでそこへ乗り込んだ。
「大丈夫か!一体何があった?」
「それは…!出して、出して下さい!」
息を整える間もそこそこ、タイトが助手席の窓から見やったのは、一心不乱に両手足を振り乱し鬼気迫る形相でこちらに突進してくるマキの姿だ。
「しかし、あれ嬢ちゃん…」
「だからです!お願いします、早く!」
「ベルト、ちゃんと締めろよ」
いまだ事情を量りかねるといった面持ちの字実野だが、タイトの慌てふためいたその有様を見て意を決したのか、マキをその場に残したままアクセルを吹かして車を発進させた。
さしものマキも自動車には追い付けやしないと解っているのか、早々に追撃の手をゆるめてこちらをみやりながらその場に立ち尽くしている。
緩やかに、だが確実に、路傍に一人取り残されたマキの姿は小さくなっていき、やがて深まりつつあった夜の
その段になって、ようやくタイトはほっと息を吐き出した。
「やれやれ。まさか嬢ちゃんを置いてきぼりにする羽目になるとはな。一体何があった?」
「…」
僅かな距離だったとはいえ、元々体力に自信のある方ではないタイトだ。
それが久しぶりに本気で全力疾走した事で全く息が整っていない。その時の疲労からか、それともその前の緊張からなのか、前髪を伝って汗の粒もとめどもなく滴り落ちる。
何より、マキから逃げだすのに精一杯で、転がり込んだ先にいるこの男に事情を説明するには、タイトはまだ気が動転し過ぎていた。
その慌てぶり足るや、先の一連の出来事の中でスマートフォンを地面に落としてしまった事に気が付かない程である。
荒い息を吐きながら沈黙したままのタイトを見て、字実野は一旦車を路肩に止めると真新しいタオルと、小さな水筒を差し出す。
「ほらよ、まずは落ち着け、水筒の中身はお茶だ。
安心しろよ、仕事先で飲もうかと思ってたが今日はそいつの出番がなくてな、まだ口を付けてないぜ」
「すいません…」
端々まで行き渡る字実野の心遣いに、タイトはただただ感謝するばかりだ。
だが、全幅の信頼を置いていた昨日までとは違い、タイトは今この隣でハンドルを握るこの男に、拭いきれない疑惑の念を抱いてしまってもいる。
そんな心情でありながら、その彼に依存する他ない今の自分の立場と想いとを押し流してしまおうとばかりに、タイトは勢いよく水筒のお茶を煽った。
美味い。先程、マキと喧々諤々に言い争ってからこのかた、喉がカラカラだ。 何杯も、何杯もキャップを兼ねたその小さなコップにお茶を注ぎ、只管胃に流し込む。
やがてすっかり水筒を空にしたタイトに、今日の疲れが一辺に押し寄せて来たのか猛烈な睡魔が襲ってきた。うつらうつらと、頭を垂れたり持ち直したりを繰り返すタイトに字実野が優しい調子で語りかける。
「事情は後でゆっくり聞くよ。その調子じゃ話をする訳にもいくまいし、まずは少し眠っておけ。何、目覚める頃には着いてるさ」
でも宿は、マキが引き払ってしまったんですよ…そう頭の中で呟きつつ、タイトはゆっくりと夢の世界へ入り込んでいった。
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