第26話
翌日の朝。タイトの姿はホテルのロビーにあった。
「…うん、大丈夫、とてもよくしてくれてるよ、うん、うん…じゃ、朝ごはんみたいだから切るから、じゃあね」
タイトは実家へ定期連絡を入れていた。旅行を認めてもらう上で両親とかわした取り決めだ。父は仕事で忙しいという事もあって、応対するのは専ら母親である。
もっとも、父親が電話に出ていたらやり取りの不自然さに感付いていたかもしれない。
何しろ、「綿密な」今回の旅の計画にあって、この織部家のやりとりに関してマキの対策は朴訥そのものだったからだ。
一応、「マキの実家へご挨拶に行く」設定は決めてあるが、殆んどはタイトのアドリブに委ねられている。
故に、おっとりとしている母親が電話の相手であったのは、タイトにとって幸運であった。
もしくは受話器の向こう側で、明らかに虫の居所の悪そうな息子の声に、何か察するものがあったのかもしれない。
それ程に、今朝の彼の不機嫌な様子といったらなかった。
その理由は、興奮から昨夜充分に睡眠が取れていない事だけではない。
タイトは足元に並ぶ自分の荷物を苛立たし気に蹴り飛ばした。
昨晩、タイトがようやっと眠りにつけたのは既に日が昇ろうかという時間帯であったが、そこに激しくドアをノックされた。
ピリピリしながら出てみると、果たして相手はマキである。
曰く、目が冴えてしまったのでロビーで少しばかり涼んでから自室に戻ったら、カギが抜けなくなったというのだ。
「そんなの、ホテルの人間に頼んでくれよ」
そう悪態を尽きつつもしばしカギを廻したり押したり引いたりする内に、なんとか抜けてこれで一段落と思いきや、今度はタイトの部屋のカギが上手く抜けない。
同じフロアにビジネスマンらしき客が二名程泊まっていたが、そちらも同じ状況という事で、どうも誰かの悪戯らしい。
ホテル側は客に不自由な思いをさせたのを詫びると同時に、タイト達に対しては外出する折り、手荷物を持って移動して欲しい旨を申し訳無さそうに通達してきたのだ。
「はぁ…」
タイトとしてはここを拠点として最低限の貴重品だけ携えて、嵩張る予備の着替えその他はここに置いてゆくつもりだった。
というのも、これから向かうシックザールの本部は、彼等が今居る所から一つ県を跨いだ先にあるのだ。しかも駅からもかなり歩かなければならない様である。つまり手荷物は少ないに越した事がないという訳だ。
到着が遅くなったり、道中で体力を使い切ったならばそこで泊めてもらえ、それが可能なだけの設備は整っているから。
…と字実野は言っていたが、彼の紹介があるとはいえ見ず知らずの人の所へ赴こうというのだから、不測の事態には対応出来るようにして於くべきだろう。
即ち、最悪は電車の動く間にこちらに戻る事も考えて行動しようという計算だ。
そう決めたのは昨夜のファミレスの席での事だった。
そしてその事を思い出すに付けて、あの場のマキの様子にゲンナリして来る。
それでもタイトはじっとマキの事を待っていたのだが、昨夜同様中々現れる気配がない。
(また、服を用意するのに手間取っているのか?)
あのマキの可憐な出で立ちを思い起こして、タイトの沈んでいた気分が少しばかり高揚する。
あの服装は彼女によく似合っていたし、可愛かった。だからこそ、食事の席で一悶着あったのが、余計残念であったのだが。
やがて、タイトが今いるロビーの反対側、フロントの方から何やら喧騒がするのに気付く。その言い争う声の主の片方は、タイトもよく聞き覚えのあるものだ。
彼はうんざりした様子でそちらに歩みを向ける。
すると丁度マキがフロントの人間と二言三言交わした後、こちらへ向かって来る所だった。
服装が、色が落ちてくたびれたジャージに戻っていたのも殊更タイトを失望させた。それは今朝方叩き起こされた時には、既に
これから二人が向かう先は、糸視者として面会して以降お世話になるであろう組織なのだ。
新しい服なんて我が儘は言わない、この際、昨日と同じ服装でもいいからそっちを身に付けて欲しかった。
不機嫌な様を隠さず、昨晩のマキの様子とは逆にタイトがぶっきらぼうに声をかける。
「何してたんだよ」
「カギがイカれちゃった件でちょっとさ、あの人らアタシの事疑ってやんの。
ゴメンゴメン、もう大丈夫だから行きましょー!」
そう言うが早いか、マキはタイトの手をとると、グングンホテルの出入口へと向かって行く。
「お…おい、あんま引っ張るなって」
「急いだ急いだ、なんたって今日は長旅なんだからさ」
「ったく。そうだな、先を急ごう」
「そうそう急げや急げー」
そうして慌ただしく出発したタイトとマキの姿を、陰からそっと伺っている人物が一人。
このホテルの従業員である。
彼は二人が表通りの人混みの中へ紛れていくのを見届けると、スマートフォンを取り出し何処かへと連絡を取り始めた。
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