第24話

 タイトは字実野に声をかけようとも思ったが、件のウェイトレスがまごしつつもとうとう大学生達の席に到達しそうとあって、この場は彼に委ねる事にした。

 しかし、マキが再び席を立とうとするのを見てタイトは血相を変える。


「マキ!まさかお前」


 字実野がああ言ってくれたのを、無下にするつもりか。

タイトがそう口にしようとしたのを、マキが手を此方に向けて制しながら


「ちょっと近くによるだけ!」


 そう告げると自分のグラスを持って字実野とは反対側、ドリンクバーの方へ歩みを進める。

 さしものマキもこれ以上むやみに首を突っ込むつもりはないらしい。

 タイトはほっと息を吐いて、字実野の方へ向き直る。ここから先、何事も見逃す訳にいかない。


 彼は大学生の集団とウェイトレスとを遮る位置に立っていた。

 と、これまで上着のポケットに収まっていた彼の右手がゆっくりと動きだす。

 その指はじゃんけんの「チョキ」の形になっていた。


「!」


 タイトはあまりの驚きにしばし息をする事すら忘れる。


 字実野は、そのチョキの形の手をそっと糸に近付けると、あたかも実際のハサミがそうするように、「糸を断ち切って」しまったのだ。


 断ち切られた糸は暫く所在なさげに漂っていたが、やがて空気に紛れるかの様に、霞んで見えなくなっていった。

 これが、タイトが自分以外の人間によって、直接「糸」に干渉する様を初めて目撃した瞬間であった。


「凄い…!」


 余りの光景にタイトは興奮を隠せない。血が湧きたち、恋する乙女の様に動悸が激しくなる。

 字実野は、糸を使ってあのウェイトレスに迫る危機を、鮮やかに退けてみせたのだ。

 しかし。


「なんだこのオッサン?」


 糸が視える人間からすれば賞賛に値する行動でも、それが視えない側から見れば、何もない所でチョキを振り回した字実野の動きは不自然かつ、滑稽なものでしかない。


 自分達に属する者には甘く、それ以外の人間には容赦のない人種であろうそのグループの中心人物と思われる金髪の男が、不躾な声を辺りに聞こえる大きさで張り上げる。

 明らかに字実野に対しての威嚇だ。


(まずい!)


 屈強な体躯に見える字実野ではあるが、流石に四体一でやりあうなんて事になったら果たして無事で済むものだろうか。

 何よりもタイト自身は生まれてこの方ケンカなんてした事がないので、加勢したところで頭数に入るかどうか。


「おう悪い、仕事の件でちょっと考え事しててな、体に出ちまう性分なんだ」


 字実野はその男に対してこう返していたものの、お世辞にも上手い理屈とは言えない。もしかしたら、余計に彼等の勘定を逆なでするのではないか。

 現に、男の反応に同調する形で、他の連中も字実野を取り囲み始めている。


 マキの方はどうしているかと思いそちらにも視線を走らせてみれば、これが意外にも静観を決め込んでいる模様。しかし、その表情が何やら普段見せた事がない位険しいのが気になる。

 マキは、字実野の行動をどう捉えているのだろう。

 だが、タイトがそう思案していた、その僅かな時間の間に状況は一変していた。


「ま、まぁそういう事なら…」


 ついさっきの威勢剣幕はどこへやら、妙に殊勝になったその集団に


「邪魔して悪かったな」


 字実野はそう軽く告げると、何事もなかったかのようにそのままトイレへと入っていった。

 そして件のウェイトレスの側には、先程お盆をひっくり返されたあのウェイトレスが近付いてゆく。二言三言、言葉を交わすと眼鏡のウェイトレスは軽く会釈をして厨房の方へ歩いて行った。

 彼女の仕事を引き継いだウェイトレスの方には不審な糸は見受けられない。どうやら、無事に危機は退けられた様だ。

 

 途中少しばかりヒヤヒヤしたが、結果としては見事なものだった。

 周囲の客も特別こちらを不審がる様子はない。むしろ、字実野があの大学生達に話しかけて以降、すっかり喧騒が聞こえなくなっていたので、その事に感謝している雰囲気さえ感じられた。

 無論、その誰もが字実野が何をしたかは把握していないだろうが。


(凄い!糸視の力って、使いこなせればこんなスマートに人の役に立たせられるんだ)


 それはタイトにとって、正に自分が理想とした姿を顕現したものに見えた。


(この人なら、俺を導いてくれるかも…)


 ようやっと、渇望していた未来が手の届く所に来た気がする。

 もう一人でくよくよせずとも、頼れる先輩の字実野がいて、側にはマキが居てくれる。


 それはなんと輝かしい未来であろうか!

 タイトはその喜びを共有したくて、字実野より一足早く席に戻って来たマキに対して一方的に捲し立てる。


「見たかよマキ!あの手際の良さ!そしてあの能力!すげーよ、凄い人だよ字実野さんは。あの人と出会えて良かったな、それもマキと」

「使ったね、糸の力」

「え?」

「あれ、明らかにそうでしょ?糸、切ってた。

さっき、糸の力をみだりに使うのは嫌だーみたいに言ってたのに。

舌の根も乾かぬ内にあっさりと」


 タイトの胸中とは真逆の、冷静…いや、辛辣と言ってよいその評価に呆気にとられる。

続けて、えもいわれぬ怒りが沸々と湧き上がってくる。


 ここに来てからというもの、マキの態度は一貫して字実野に対して失礼だった。

 個人として彼をどう思っているかはともかく、彼が二人の恩人なのは確かなのにだ。


 その上、糸視の力に暗中模索する他なかった自分達の、新たな希望となる人間だというのに。マキときたら一体何が気に食わないというのか。

 まるで、虫の居所が悪くて駄々を捏ねる子供ではないか。

 タイトはいよいよ堪忍袋の緒が切れそうになったが、当の字実野が席に戻って来たので喉元迄込み上げて来たものを一生懸命押さえ付ける。


「どうだい、中々なもんだったろう?」

「はい!でもびっくりしました。あの…糸、を」

「あれな。あれは『糸切しきり』と云うんだ。人の繋がり、運命を断ち切っちまうものだから、やたらめったら使うもんじゃないが。

今日は特別。お前らと出会った記念、御祝儀みたいなもんさ」

「すみません。こんなに気を使って頂いて」


 字実野に頭を下げながら、マキを横目で見据える。それみたことか。

 しかし、マキの方は何事も無かったかの様に涼しい顔をしている。

 またしても怒りがこみ上げるものの、今ここで言い争いをしても字実野に迷惑を掛けるだけだと、己を殺し冷静を装い続ける。


「それにしてもあれだな、こう…『斑』もそうだが特に『黒』や『灰』はほんと、視えない様にしたいもんだぜ」

「ん?『デビルクロ縄ー』と『グレーゾーン』でしょ?」

「さっき教わったばっかだろ。シックザールの人達は単純に色のみで糸を区分してるんだ。ですよね字実野さん」

「まあそういうこった。それこそ、みんな大抵最初は視える人間は自分だけって環境からスタートだからな。そりゃ好き勝手に名前を付けるからそのままじゃ混乱するぜ。嬢ちゃんのセンスは、中々に個性的だとは思うがな」

「やっぱり、みんなそうなんですね」

「えータイトだってなんかセンス最悪よー?言ってみ、タイト」


 マキからすれば自身のネーミングセンスに絶対の自信があるのだろう。しかし、タイトとしては自分の糸の命名はマキの感性よりはイケてる、そう考えている。

 だが、それをこの場で第三者の評価に委ねるのは不安で、何より恥ずかしい。

 とはいえここで退いたら逆にマキに対して敗北を認めたも同然だ。ええい、ままよ。


「僕は、『黒』を『黒死縄』と、『灰』を『灰色病棟』と、呼んでました」


 改めて口にすると、やっぱり顔から火が出る程恥ずかしい。そんなタイトの告白に字実野は豪快に声を上げて笑う。やはり、ちょっとカッコつけすぎたかな。


「いや、こっちも中々のネーミングセンスだな。やっぱみんな勝手に色々考えるもんだ」


 羞恥心から顔を真っ赤にして頭をかくタイトとは対照的に、マキの方は怒りから頬を紅潮させて、口角から沫をとばしながら字実野を糾弾にかかる。


「さっきから人の感性に好き勝手言ってくれやがりますですが、そういう字実野さんはどーなんすか?さっきの話なら、あなたも他の糸視者に会うまではさぞかしクールなネーミングで呼称されてた訳でしょー?」


 そんなマキの反撃に、今度は字実野の方が頬を赤らめ、頭をかく。


「俺か?いやーまあ改めてここでお披露目する様なもんではないぜ?今は使ってないし」

「ずるいぞー聞かせろ聞かせろー」

「字実野さん、僕も知りたいです」


 二人からせがまれ仕方がないという風に、誰も聞き耳を立てている訳でないのにこっそりとか細い声で呟く。


「『死の闇』と『病の灰』だよ」

「「…」」

「ぷっくくく」

「ぶははははは!センスねー!」

「マキ…ふふふ」


 相変わらず遠慮のないマキを嗜めるも、タイトの方も込み上げてくる笑いを堪える事が出来ない。


「確かに、まあ俺のが一番カッコつけてるわな」


 照れ隠しの為か、字実野が再び大きく口を開けて笑う。吊られて、タイトも、マキ迄も笑い出す。

 タイトはようやっと三人が一つになれた様な気がして、安堵もあってそのままひとしきりに笑い転げた。


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