第6話
その日の昼休み。タイトはいつもの様に一人静かに昼食を済ませるとイヤホンを耳に嵌め、クラスメイト達と共有する空間にありながらその彼らの侵入を阻む、見えない境界線の張ってある己の駐屯地を防衛する任に就いた。
ぼんやりと。窓の向こうに見える、真っ白で大きくそびえたつ夏の雲を眺めながらただただぼんやりする。
だがしかし、次の授業で必要になるのに手付かずのままのプリントがある事を唐突に思い出す。
こういうギリギリの気づきの方が糸より余程役に立つというのはやるせない、やるせないが慌ててイヤホンを外し、鞄を探りそのプリントを取り出す。
その時、背後から女子の誰かの甲高い声が聞こえて来た。
いつもの彼なら耳障りな雑音程度にしか認識しないのだが、その時聞こえて来た内容は、タイトが耳をそばだてて聞くに十分に値するものだった。
「だからさー、菱橋の生徒らしいの、その『謎』の飛び込みが」
あまりにもドンピシャなキーワードが揃い過ぎている。どう考えてもあの勇敢、いや無謀な少女の事だ。
(しかし。いや、思い当たる節も有るけれど謎ってなんだ?)
糸を視る能力に翻弄されて以来、周囲の人間、勿論クラスメイトとも努めて消極的な付き合いしかしてこなかったタイトである。
日頃交すべきコミュニケーションの基本である、挨拶すら回避する生活を長い事続けていると、平素なら何という事も無い「話し掛ける」という行為にすら、本来必要とする何倍ものエネルギーが必要になる。
だが、この時のタイトはその話題への好奇心が、彼がこれから負うかもしれない相手の女子からの拒絶と存在の否定という、決して軽くはないそのリスクをも上回った。
声の主を肉眼で確認すると荒井
あの少女との関わりを避けておいてその実、その後の動向が気になって仕方がないタイトであったのだが、その一番確実な情報を握ってそうな人物が、まさかこんなに近くにいたとは。
「つか飛び込みに謎も何もねぇだろ?この世に絶望しての華麗なダイブだったんじゃね?」
「だからさーちゃんと話聞いてよ?」
「それはあれだよ、その女子が可愛いかによるな!」
「なんでそれをあたしが知ってると思っちゃうかな?」
取り留めのない会話のキャッチボールをしているのは荒井と、葉山と早河の男子二人。皆そんなに苦手な人物ではない。むしろ、タイトが他者との関わりをシャットダウンする迄は、下らないおしゃべりに興じる間柄であったのだ。
だが、糸の件で周囲との溝が深まって以来、タイトは彼らとの交流すら拒絶してしまっていた。
そして今、かつて親しい関係だったその分だけ、自分から半ば一方的にそれを断ち切ってしまったその分だけ、これから会話を持ちかけるそのハードルも上がってしまった感は否めない。
が、彼らとの会話から得られる情報には、死を覚悟して虎の巣穴に入るのと同じ位の価値があるかもしれないのだ。
意を決して、出来るだけ自然になる様に装いつつ~そうしようとする段階で既に自然であるとはとても言い難いのだが~タイトは彼らとの距離をじりじりと狭めていく。
そして、息を吸ってそっと吐いて、勇気を振り絞り声も喉の奥から絞り出して、数カ月ぶりに、級友に学校行事に関係のある事以外の会話を持ちかけた。
「あの、さ。」
その瞬間まで何の気なしに会話を続けていた三人の空気が変わる。気のせいか周囲の生徒達迄も会話が途切れたかの様に感じる。
辺りが突然霧に包まれたかの様な。或いはその存在を認識していなかった小動物に今やっと気が付いたかのような。
そんな驚きや戸惑いの色濃く出た彼らの表情を前に、タイトは思わず回れ右をして席に戻りたくなるが、そこは気合を入れ直し乾いた口からなんとか言葉を絞り出す。
「その話、もっと詳しく聞かせてもらっていぃ?」
ほんの数瞬、しかし確実な思案の時の後。
「タイトじゃん、珍しいな」
「おおタイト!」
「なになに織部君、もしかしてあたしの溢れ出すこの魅力に抗えずやって来ちゃった感じ?」
「気を付けろよタイト、この女お前を溶かしちまうぞ」
「あ!魅力でトロトロって?」
「いや物理的に決まってるだろ普通」
「普通ってあたしゃスライムかっての!」
今やクラスの中でも異物的存在の、そして何よりもこちらから心を閉ざした、有体に言えば関わるのが面倒臭いであろうそんな自分に対して、三人は以前と変わらぬフランクな態度で接してくれた。
いざ飛んでみれば、意外にハードルは低い物だった。ついでに言えば目下の所気になる様な糸が彼らに見えないのも有難い。
しかし安堵してはいられない、まさにここからが本番なのだ。
「その、さっき話してた菱橋の女の事なんだけれどさ」
「おお!タイトの狙いは荒井ではなく菱橋の飛び込み女であったか!」
「当然よのう」
「外野うっさい。あたしをスルーてのは許し難く有りますがそこはそれ。久しぶりに話しかけてくれたのは嬉しかったから、特別に話してあげましょう」
「悪い」
「謝る事ないぜ?…え、なんで荒井俺を睨んでんの?流した流した。で、見たのか?その菱橋の女子。」
「現場にいたんだ、俺。」
「マジ!?」
「あぁータイト、うちじゃ珍しいけれど西奥文寺の方から通ってるんだっけ」
タイトにとって本当に暫くぶりとなる級友とのおしゃべり。
最初の緊張は何処へやら、なんでもない言葉の応酬が楽しくて仕方がなく、夢中で言葉を交わす。こうしていると、やはり人という物は一人では生きて行けない様出来ているのだなと思う。
その会話の中、件の少女に関する幾つかの重大な情報も、無事入手する事が出来た。
聞けば、あの電車の運転士はやはり荒井の父親であり、関係者達の間で疑問視されていたのは当然というか、菱橋の少女が線路に踏み込んだ動機であった。
「自殺志願だったら有り得ないタイミングだしね。駅員室で話聞いてもイマイチ論旨が噛み合わないというか、奇妙な感じだったって。最終的には線路に落とした財布を慌てて拾おうとしたって話に落ち着いたんだとか」
それはかなり無理のある理屈だ。しかし彼女はホームに至る階段から駆け下りてそのままの勢いで線路に飛び込んだ。
「
飛び込む理屈を考えている時間なんて、無いに決まっているのだ。
「でもさー、やっぱり偶然で済ますにはちょっと出来過ぎてんだよねー」
「いやいやだから狙ってやってたとか有り得ないから」
「?ごめん何の事?」
「あぁ、織部君は途中からだったものね。実はね」
そこからの話はタイトにとって、ある程度想定はしてたもののやはり衝撃的な内容だった。
あの後すぐに現場を離れたタイトは知る由も無かった事だが、あの路線の封鎖は犠牲者が存在しないにしては、かなりの長時間行われていたらしい。
と言うのも、あの先で線路に瓦礫を投下しようとしていた不届きな男がいたというのだ。明らかに電車の運行を妨害するのが目的である。
しかもご丁寧にカーブの途中で、更には除去されるのを防ぐ意味合いから、電車が通過する寸前に投入するつもりだったというからかなり悪質である。
そのろくでもない男、実は線路の側にかなり広い私有地を持っていた。
幼少時からその敷地内に住んでいたのだが当時から結構な癇癪もちで、特に電車の音と振動がいたくお気に召さなかったらしい。それもあって親から引き継げる広大な土地資産に執着せず、成人すると同時に他所へ出て行ったという。
それが、どういった経緯か知らないが最近戻って来たというのだ、よりヒートアップしやすくなって。
運行会社に無茶な要求をしたり周囲には電車に対する怨嗟を隠そうもしなかったりで、ご近所さんも「いつか何かやらかすかも?」と警戒を強めていた矢先の出来事だったらしい。
結果としてその行動は未遂に終わったものの、もし実行に移されていれば。
カーブに通行妨害の障害物が投入され、さらにこの先線路には片側が切り立った崖に差し掛かるポイントがすぐな為に、最悪の場合脱線からの横転事故。
そうなったら一体どれだけの犠牲者が出ていたか。
「ま、少しだけは同情するけどさ、電車に罪は無いんだよねぇ」
父親が同僚や警察から聞いたというその経緯を、荒井は自身の感想も交えながら知る限りを詳細に話してくれた。
「電車の通行妨害ってさ、滅茶苦茶重罪だから。あたしにはもうその行為自体が信じられないんだけれどね、特に今回のは明らかに怪我人以上の損害が出るレベルだしそれが目的だしでさ。
でももっと信じ難いのが、もしあの飛び込み騒ぎがなかったら、その犯罪行為が実行に移されて大惨事になってたかもしれないって事」
「それってどういう事だ?その瓦礫男は事前に逮捕されてた訳だろ?」
「それがね、いざ決行しようとしても当の電車が定刻通りに来なかった訳じゃない?
でかい瓦礫抱えて右往左往してるうちに、近くにいた人に通報されて御用!だってんだからまったく計画的なんだかそうじゃないんだか」
「何度聞いてもお間抜けの極みな話だな。でよタイト、荒井は例の菱橋女がこの犯罪を未然に防いだっていうんだぜ?」
「だってそうじゃん?結果論だけどね。あたしの考えじゃさ、その子の飛び込みの不自然さから鑑みるに列車の発車の阻止が目的で、理由が運行妨害の回避だったんじゃないかな?って事な訳。」
「そんなエスパー様ならそんな回りくどい事しないで、直接その瓦礫おじの所に行くのでは?」
「む…むう!そうだけど!そうかもしれないけれど!でもさ」
尚も展開される彼女達のたわいもない会話をBGMに、タイトはあの少女へと思いを馳せていた。
(言い出せないのがもどかしいけど。多分その推測は合ってると思うよ荒井さん)
かつてタイトが自身への言い訳の中で想起していた様に、あの「縄」全てが、その犯罪の事を示唆していたとは断定出来ない。
しかし、それでもこれまでの情報を分析するに、そう結論付けるのが一番理に適っている様タイトには思え、心に掛かっていたもやがすっと晴れていく。
確かに自分と同じ、視える側の人間(やっぱり未確定ではある)の、その勇気溢れる行動が未然に大事故を防いで多くの命を救った事。
自分には出来なかったし自分が誇っていい事でもないが、それでもタイトはその事を嬉しく思い、久々に清々しい気持ちになれたのであった。。
一方で、この一件に関してタイトとしては考える事を放棄したいと思いつつ、それでもやはり確かめておかなければならない、ある疑問が残っている。
「荒井さん、その、それでどうなったかは、知ってる?菱橋の女子がさ」
「タイトやっぱりそうなのか!そいつそんなにイケてたのか」
「やめとけやめとけーそんなサイコ女アブねーぞー」
「だからさ、危ない奴だからこそ知っておきたくてさ。ほら、俺、多分駅が一緒だから」
「ああ、そういう意味合いね?えーと。あたしもそれは気になってたから情報収集済みなんだけど、取り敢えずさっき話したみたく、その人のおかげで偶然とはいえ事故は回避出来た訳じゃない?
それを加味して運行側も穏便に取り計らってくれたみたい。でも菱橋自体がどう沙汰を言い渡したか、までは知らないなぁ。流石に退学にはならないと思うけど…校則厳しいからね、菱橋」
「そうか、有難う荒井さん。なんか色々すっきり出来た」
「どういたしまして。こっちも織部君と久々に駄弁るの楽しかったよ」
「そんな事よりもさータイト、お前まだゲームやってんの?こないだ出たFPSでさ」
「おい!お前ゲームしてられる状況?今度の模試大丈夫なのかよ」
そのまま途切れる気配を見せない彼らの会話を断ち切るが如く、不意に予鈴が鳴り響く。
それに端を発して、周囲の生徒の動きが午後の授業へと向けて慌ただしくなる。
葉山らも各々の席へと戻っていき、タイトもまるで彼らとのギクシャクした一時期が無かったかの如く、以前と変わりない軽い挨拶を交わして明るい面持ちで自らの席へと着く。
だが無情にもそこに鎮座していたのは、手付かずのままの綺麗な状態を顕示している宿題の小さなプリント様である。
先程と打って変わって、己が迂闊さを嘆きうなだれるタイト君であった。
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