第5話
そのに
マキのこと
午前七時三十分発 央京方面御鷹行の快速電車の運転手、
幼い頃母に連れられ乗り込んだ電車の座席。そこに膝立ちになって車窓から眺めた、眩しく光る八月の海。その鮮烈な輝きに魅せられたその時から、彼は夏を愛し海に魅了され、そして自分をそこに誘ってくれた乗り物、電車の虜となったのだ。
それからは車両の図鑑を眺め、時刻表に夢を馳せ、各地の駅に足を運ぶに飽き足らず、遂には自らの職をその電車を操る事に決めた。そして
「俺は電車の申し子なのさ」
酒の席で同僚や後輩に冗談めかして言い放つ、この台詞こそが彼の自信の現れであり誇りであった。
だから、だからこそ、彼が順調にスピードの上がり始めた電車の車輪と枕木の振動が織りなす心地よいハーモニーを堪能しつつも、その皺のより始めた目尻の端に捉えた白い小さい「何か」が、よりにもよって彼の電車の進行上に移動しようとしている、その事を瞬時に察知して急ブレーキを掛けたのは勝算されるべきだろう。
金属が急激に摩耗する時発する、高音域の耳障りな音が朝のホームに響き渡る。
音の発信源と思しき方向を見た人々は、十両編成の車両が中途半端な位置で停車したのを目撃する事になり、多くの人間はこの段階で何が起きたのかを察知する。
その後、皆の頭に去来するものは性別年齢職業人生経験によって様々だ。
(また人身かい)
(誰だよどこの馬鹿だよ)
(やっべ死体は?写メ写メ)
(よっしゃー遅刻の言い訳ゲットだぜ)
そんな中、恐らく彼らとまるで違う感想に至った人物が、ここに一人。
(良かった…のか?)
無論、この人物はその急停車した車両をそれこそ如何にして止めるべくかと思案を重ねつつ、結局は行動に移せず踏み止まるに終わったタイト君その人である。
彼の胸に去来したその言葉尻がやや疑問系になっているのは、ここに至るまでの経緯とそして、今頃駅の端っこで起きているであろう修羅場を想像しての事であった。
すでに先頭車両付近には早くも大きな人だかりが出来ている。その事にやや戸惑いはしつつも、やはり彼とてあの少女の事は気になる。
タイトはこの人の山を突破する気でいた。無理矢理押し入って行けば多かれ少なかれ人の気分を害するだろうが、それでも、なんとしても確認せずにはいられないのだ。
だってそうではないか。
自分に、タイトには出来なかった事を。
それが正解という確証もないのに、己が身を顧みず他人の命を救うなんて事を、自分の目の前で颯爽とやってのけた、あの菱橋の少女を。
大量の野次馬達と彼らに絡まる「糸」の束に辟易としながらもタイトは苦心してその間をすり抜けて行き、やっと視界が晴れたと同時にタイトの耳をつんざくのは、運転士と思しき中年男性の人目憚らぬ怒号だった。
「馬鹿野郎てめぇ死にてぇのかあぁぁぁぁ!!!!」
天を震わすばかりに周囲に響き渡った、その怒りに怒りまくった発言を、論ずるまでもなく線路に下りたった側の非があるとはいえ。言ってはいけないレベルの言葉使いで乗客(おそらく)に対して言い放ってしまう位には、彼のその胸の内は複雑かつ喪失感に満ちていた。
しかし、それを聞いた本人はあまつさえ普通に、線路に仁王立ちの姿勢で笑顔満面こう言い放ったのである。
「いやぁ~ほんっとに良かった良かった!そんだけ元気なら心配いらないわ、あと少しで死ぬとこだったんだよオジサン」
「「「「お前が言うなあああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」」」」
そこに居合わせた人が全員たまたまノリの良い関西人であった、なんて事はないだろうから。荒井始め周囲の人間全てが心の底から発したツッコミが一つになったその瞬間は、ある意味奇跡とも言える光景であろう。
と同時に、それはその場に彼女の側に立つ「味方」が、一人もいない事をも意味している。
当然ではある、なにしろ彼女一人のおかげで朝のダイヤは大混乱で大迷惑だ。
それは少女が飛び込んだその事情を推し測って余りある、このタイトですらそうなのだ。
彼女が五体満足で有る事を確認したタイトは、再び人ごみを掻き分けそそくさとその場を後にしようとする。
最早遅刻は確定事項なのだが、状況に流されるままこのホームで電車を待っていてもしょうがない。
それよりも別のホームから出る草部線で2つ先の駅まで行って、歩いて向かった方が結果的には早く学校に着くだろう。そして彼と同じ決断に至った人達が早速移動を開始している、こちらの行動も早いに越した事はない。
もう一つ、一刻も早くこの場を離れたい理由があった。いや、むしろその理由の方がウェイトは大きいだろう。
あの少女から離れたいのだ。
万に一つの可能性ではあるが、この場で互いの存在に気付いたとして、彼女に声を掛けられたくはなかった、面倒に巻き込まれるのは何としても避けたかったからだ。
なによりもあの澄んだ大きな瞳が、非難や悲痛の籠った色を浮かべて自分に向けられるかもしれないというのは、タイトにはちょっとばかり耐えられそうになかった。
彼の歩みとは反対の方向から、数人の駅員が緊張した面持ちで通行人を割って進んでいく。タイトは懐からワイヤレスイヤホンを取り出すと、お気に入りの曲を音漏れも気にせず大音量で流し外界との隔絶を企む。
最後に、ちらりと電車を確認する。中から乗客達の、さも迷惑千万と言った顔が覗いている。
しかし、数分前まで纏わりついていたあの忌まわしい黒縄は、タイトが視る限りでは綺麗さっぱりなくなっていた。
その事に安堵を覚えたタイトの顔に小さな笑みが浮かぶ。そして彼は踵を返してホームの階段を数段抜かしで駆け上がって行った。
嶺京線井野駅を朝から混乱の渦に巻き込んだ「謎多き女子高生飛び込み事件」から、早くも一週間が過ぎようとしていた。
その間、タイトはと云えば以前よりかなりの早起きをして出発し、これまでよりも一駅先の電車から通学する様にしていた。
他ならぬ「彼女」との接近遭遇を避ける為だ。
かつて、タイトはそれが非現実的かつあまりに突拍子もない故に、他の誰にも相談する事の叶わない「糸」を
検索ツール、ブログやSNSの類のチェックは当然として、図書館にも入り浸ってオカルト系の書籍やらを端からつぶさに読み倒していったが、「人の近しい未来を糸の形状に視覚化する」なんてトンチキな能力に関して、僅かでも触れている物は皆無だった。
家系図まで遡ってみたが無駄だった。その事実が更に彼の心に孤独と絶望とを刻み込んでいった訳なのだが、過日ようやっとその求めし者(推定)に出会った、それだというのに。
渇望したその状況を前に、会って話をするのを尻込みしている自分がいるのだ。
会った結果想定していた事態と違うのが怖い、それもあるが彼は何よりも「死出」の電車を止めなかった事を責められるのを恐れていた。
故に念願の「同胞」かもしれない少女の事を務めて忘れる様にすらして、遭遇自体も出来得る限りの方法で避けて来ている。
その試みは功を奏したのか、今日に至るまでなんとかエンカウントせずに済んでいる。それを自らの努力の賜物だ、と人心地付いてしまう位には、彼はまだまだ世間知らずのお坊ちゃんであった。
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