第4話

 タイトがまず感じたのは、視界を占有する「黒」の割合がやたらと多いという事だった。


(橙色の電車じゃなかったっけ?)


 事ここに至る迄、周囲をはっきりと見ないまま来たタイトは、電車の色がいつもと違うのを降りるホームを間違えたのだと結論付けた。だが、少なくともこの路線で黒い車両の電車なんて見た事がない。

 ホームの電光表示が示す内容はいつも通りだし、何よりも学校に遅刻しそうでやや焦っていたタイトは取り敢えず近場の車両に乗り込んでみた。


 そこでようやっと、自らの認識の甘さと。この車両を取り巻く、とてつもなく恐ろしい状況に気が付いた。あやうく悲鳴をあげそうになったのを、口を抑えてなんとかこらえる。


 黒い。

 血が乾いてこびりついた様な色の、どす黒く染まった縄。綱引きで使う縄の様にしっかりと太くて、それでいてとてもしなやかにみえる忌々しい荒縄。それが、タイトの乗り込んだ車内、目に見える全ての人に尽く撒き付いていた。


 雑談を交わすカップルに。座席で本に夢中な初老の男性の首に。スマートフォンを一心に弄る女性の身体に。傍らの乳母車にはおそらく赤ん坊が乗っているのだろうが、縄が体全体をグルグルと覆っており、表情は愚か性別すら判別出来ない。

 恐怖におののきつつ周囲を確認すると、乗客に絡まっている縄は外側に伸びてさながら廃屋を蝕む蔦の様に車両全体を覆い尽くしていた。


 全身に悪寒が走る。

 膝から下が震え抑え様にも止まらない。再び悲鳴が出かかった口を必死に押え、その車両から転がり出るように逃げ出した。

 無意味であると解っていても、全身をまさぐり「点検」せずにはいられない。そんな彼の様子に周囲の人間の訝しむ様な視線が容赦なく突き刺さるが、そんなのは些末な事柄だ。  

 それ位の衝撃が彼を包み込んでいた。


 タイトがその「縄」を視たのはこれまでに二回。

 最初は知り合いが不慮の事故で亡くなる前日に。次は天に召される直前の病床の祖母の体に。

 たった二回であるが、それでもこの知り合いと祖母の件とで、その糸が暗示する事に関して想定するには充分であった。


(黒死縄こくしじょう)


 心臓の動機高まる中、タイトは心の中で彼がそう名付けた、その忌まわしき糸の名を呟く。

 五分後か、十分後か。定かではないが、近い内にこの電車に乗る人間全てに待ち受ける残酷な運命。

 

 彼らは死ぬ。


 そして、今その事を知るのはこの世に只一人、タイトだけなのである。




 タイトは過去の体験から、「糸視いとみ」を起点とする他人との関わりの一切を断った。しかし、今目の前にある大勢の人々の、その命に係わるであろうこの局面に於いて、平静で居られる程冷酷では無かったのである。


(どうする!どうする!どうすればいい!)


 早鐘の様になる心臓。刻一刻と流れる時間。突然の事態に狼狽しながらも、彼は必死にこの場の打開策を考えていた。


(人を降ろす?どうやって⁉)

(電車を止めるか?どうやって‼)

(駅員!駅員だ!でも説明しようがねぇよ‼)


 まもなく発車しようという十両編成の電車を止めるにも、推定200人を越えるであろう乗客を降ろすにも、あまりに時間が足りていない。

 いや、仮に時間が潤沢にあっても、どちらの選択もハードルが高過ぎる。一つ手段があるとすれば、「思い切ってタイト自身が線路に降り立つ」というのがある。そうすれば、取り敢えず発車は防げる。もしかしたら、その間に彼らを待ち受ける運命に変化が現れるかもしれない。


 今の状況から推察するに、彼らが電車に乗っている間に事件が起きるのは間違いないし、乗客全員に縄があるという事は、彼らが車両に乗っているのが確かな間…即ち次の駅までの間に、なんらかの非常事態が発生する可能性が高い。

 となれば、タイトが線路に飛び込むのは意外に有効かつ確実な手段と考えて良い。  だが。


(でも、そんなことしたら。)


 それは己の人生を削る行為、と言って差支えない。命の問題では無く、平凡な人として生きて行きたいなら絶対に避けねばならぬ選択だ。

 電車も動いていない何も無い線路に、何の前触れもなく突然高校生が降り立ったとしたら。

 行為自体の問題で、只でさえ長い時間駅員室に拘束されるだろうに、理解不能説明不能なその行動は確実に事態をこじれさせる。

 最悪、黄色い救急車を呼ばれかねない。正直に事情を説明でもしたら尚の事だ。


 そもそも、電車の運行妨害という奴は途方もない賠償金を請求されるという。

 その金額は億に達するとも言われ、実際にはその問題を起こした相手の状況や、金銭的事情を会社側が考慮して、請求が行われない事例の方が多いとも聞くが、タイトがいざ飛び込んで運営側から告発が行われない保証なんてどこにもない。


 今この場で線路に飛び込んだその瞬間から、これまでひたすら他人を避けてコツコツと築き上げて来た灰色の安息日は終わりを告げる。只でさえ、ある事ない事拡散される世の中なのだ。

 そして弱者と理解出来ない物に対して容赦無く牙を剥く世間の風は、鎌鼬となってタイトの矮小な魂を切り刻む、今朝の悪夢の様に。それを解っていて、どうして今飛び込む事が出来ようか。


 だが、彼の今の精神状態とは真逆の、能天気なアナウンスがホーム一帯に鳴り響く。発車時刻が来たのだ。

 しかし、しかし。


(それでも、それでも、それしかないのなら!)


 タイトは決意した。明日からの自分と家族との生活と、数多の乗客の命をそれぞれの秤に載せた天秤から恐怖を取り除き、傾いた側を選んだのだ。

 そしてタイトが今まさに線路に向かおうとしたその瞬間である。


「邪魔」


 タイトの背後から突然不躾な言葉が浴びせられる。その冷たい言葉にタイトは驚き呆気に取られる。


「はい?」

「乗らねえんならさっさとどけよボケ」


 その言葉を発した日焼けした顎髭の男と、電車のドアとを遮る様に自身が立って居る事に。

 丁度階段から降りて直近の電車に乗ろうという人間の、多大な障害に自分がなって居るその事に今更ながらタイトは気付く。慌てて身を縮める様にその場を退く。


「すみません」

「ケッ!」


 タイトへ向かって憎しみの籠った一瞥を放つと、その顎鬚男は閉まる寸前のドアを強引に押さえ付け、無理矢理満員の車内へ滑り込んでいった。

 タイトは只でさえパニック寸前に陥っていた所に急に声を掛けられた事で、一瞬ではあるが思考停止状態に陥った。

 そしてその刹那の間に車両のドアは完全に閉まり、あの顎鬚男の首にもまるで大蛇の如く黒い縄が絡まり締まり上げていく。

 これから死出の旅に出んとする、その電車に何の疑いも無く乗って行ったその男を見て、タイトは完全に拍子抜けしてしまっていた。


 そんな彼に構うことなく地獄行きの快速電車はゆっくりと動き始める。


(もう間に合わない。でも、動き出しちゃ、止めようがないよな)


 彼は電車が動き出してしまった事の、乗客救出のタイムリミットが過ぎようとしている事への免罪符とばかりに、結局何もしなかった自分への自己弁護を開始した。


(そもそもが、あの黒い縄が死を暗示してるなんて、誰が決めたよ?誰かが俺にそう教えてくれた訳じゃないし。全然別の事柄の象徴でもおかしくはないんだ)

(俺には視えた、でもただそれだけさ。何も知らずに乗った連中と、周りにいた連中と俺と、他に何の違いがあるんだ。俺が何も出来なくたっていいんだ、ここにいるみんなだってそうじゃないか!)


 その間にも少しずつ、だが確実に加速していく車両。もう取り返しがつかない。

 その事に安堵を覚えるも、やはり自らのしでかした事の大きさに、震えの止まらない身体でタイトが立ち尽くしていた、その時だ。

階段の上からやたらと威勢の良い、それでいてガラスで出来た鈴の音の様に、凛とした声が。ホームの喧騒をかき消さんばかりの勢いで聞こえてきた。


「どいてどいたどいったあぁぁぁぁ!」

(なんだ?一体)


 辺りの空気をも一変とさせる、その声の主の方をタイトが振り向くと、一人の小柄な少女が凄まじい勢いで階段を駆け下りて来る所だった。



 真っ白のシャツに藍色のネクタイ、淡い水色のチェックのスカートは名門校として名高い、菱橋女子の制服だ。

 肩まである栗色のミディアムボブがホームの天井から零れる日差しを透かしてキラキラと輝き、野生の馬のたてがみの如くしなやかにたなびく。

 白磁の様な透き通った肌、ツンと立った小さな鼻、淡い桃色の唇からそっと覗く、綺麗に揃った純白の歯。


 そして、どこまでも澄んでいて、星の瞬きと煌めきを宿し、宇宙の深遠よりも深く黒壇よりも黒い、とてもとても大きな、真っ直ぐな瞳。

 魅力的ではある、だが決して絶世の美少女とはいえないだろう。しかし、一目見た人間を惹き付けずには於かない、圧倒的眼力を放つその瞳から、タイトは目を離せずにいた。


 朝のラッシュを切り裂いて、細い手足を一心不乱に動かして、その少女は瞬きする間にタイトの方へと近付いて来る。


(電車に乗り遅れた?それにしたってもう慌てても仕方な…)


 動き出した電車を前に全速力で走り来る彼女の様子に疑問を浮かべたタイトの脇を、その速度を落とすことなく少女がすり抜けた、まさにその瞬間である。






「意気地なし‼‼」





 彼にしか聞こえぬであろう小さな、だがしっかりとした発音の、その突き刺す様な少女の言葉に。

タイトは思わず振り向いて無理な姿勢になってしまい、そのまま無様に尻もちをつく。


(意気地なしって!それって?)


 それはタイトが先程迄何に対して怖気づいていたか、それを知るものにしか発せられない言葉だ。そして、そして。

 それを知るという事は!


(彼女にも視える⁉)


 唖然とするしかないタイトを余所に、その少女はまこと驚愕すべき俊足で先頭車両を追い越すとホームの先端まで到達、そしてその勢いのまま、我が声よ天まで響けとばかりに吠え、





「うおりゃどっせ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~い!」





跳んだ。





 薄暗いホームに眩しい夏の陽光の降り注ぐ中。

 迫りくる電車の前に飛び行く彼女の姿は、礼拝堂にある中世の天井画に描かれた天使の様でもあったし、悪ガキがトイレの壁に落書きしたいびつなヒーローの様にも見えた。


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