第3話
タイトがタイトが初めて「糸視~いとみ~」の力
…先駆者不在の状況で、誰かに正式名称を教わる事も叶わなかったが故にタイトが勝手にそう呼んでいるだけである。無論、各「糸」の名称も彼の命名による。
…を自覚したのは、高校入学も間もない頃であった。
厳つい顔に黒ぶち眼鏡の初老の男性教諭の腰と、整った顔立ちと魅惑的な体型で、早くも男子生徒の話題を独占していたある一年生の女生徒の腰との間に。
一本の奇妙な紫色の紐が結ばれているのをタイトは発見したのである。
その教諭は男子にやたらと厳しい一方で、女子を見る目はあからさまで、その上肝心の授業がつまらない上に解りにくいとあって、新入生からも早々に嫌われていた問題教師だ。
そんな、誰の恨みを買っていてもおかしくない様な男であった為、その奇妙な紐に関してもどこぞの生徒の仕業に相違ないと結論付けたタイトは、気の合い始めた級友の一人にそっと耳打ちした。
「いくら屑ノン(教諭の名前が葛野である)がクズだからって、志村さん巻き込むの違くないか?」
「?何を言ってるのかよく解らん。あの二人、なんかあるの?」
「なんかって。あれ、紐」
「ヒモ?屑ノンが?志村の?」
「…いや、なんでもないわ、御免」
この一連の会話こそ、タイトと周囲の人間との「ズレ」の始まりだった。
会話が噛み合わなかった事に妙な胸騒ぎを感じたタイトは、その場は適当に話題を変えて切り抜けた。
が、後に教諭葛野と女生徒志村とが肉体関係にあった事がSNSを通じて発覚する。
この一件はそれだけでも充分にセンセーショナルだったが、一部生徒達の間で更なる問題が巻き起こっていた。
誰であろう他ならぬ、タイトの周囲でだ。
糸を視た事がきっかけとなり(後にタイトはこの糸を「不貞の紫」と名付けた)、先の級友との会話の中で図らずとも二人の関係を言い当ててしまったのが災いした。
当然、その級友はその「特ダネ」をどう知りえたのかを聞いて来る。しかし、タイトにはまだ自らが「周囲の人間と違うものが視えている」自覚が無かった。どのみち自覚があったとて、彼に納得のいく説明なぞ不可能に違いない。
悪徳教師と学園のマドンナの姦通行為を発覚前から認知して、そのスクープ元も決して明かそうとしない怪しい男。
その後のタイトは級友は勿論、教師からも、志村の友人達からも。理不尽ともいえる糾弾、詮索を受け、遂には勝手な憶測から「二人の情事を覗き見ていた変態野郎」という、風評被害も甚だしい不名誉な称号も授かるに至ってしまっのだ。
それだけでもう心穏やかでなく、人によっては登校拒否にもなっていただろう。
だが。タイトを取り巻く状況は、それらの心無い悪評すら取るに足らぬと感じる程に急速に悪化していく。
糸が、視える。
それも、沢山。
無数に、無数に視え始めた。
クラスメイトに。
教頭に。
通学バスの運転手に。
売店のおばさんに。
隣の家のよく吠える老犬に。
その傍らの女の子に。
そして、父と。母とにも。
身の回りのあらゆるものに。無造作に無尽蔵に無差別に、ありとあらゆる種類の「糸」が絡まり纏わりついている、その異様過ぎる光景にタイトは大いに困惑し、恐怖する。
だがそれだけではない。
それが視え始めて程無くしてタイトが気付いた、恐ろしい事実。
その忌々しく鬱陶しい糸は、
「他の人間の視覚には存在していない」という、あまりに残酷で、過酷な現実。
本格的に「糸」が視え始めて数日の間、タイトの所作は周りからすればさぞ滑稽に映った事だろう。
なにせ、何もない所を跨いだり、
加えて、この時期は先述の通り図らずとも力(苦笑)の片鱗を見せてしまった件で、周囲によからぬ噂が立ち始めていた頃でもある。
そんな折に散見された彼の奇異な立ち振る舞いは、タイトに良くない印象を持ち始めた人間を苛立たせるには充分な行動だった。
不幸中の幸いか。タイト自身が早々に周囲の人間と自分との環境認識の差異に気付けた事。
その事により「糸」の件を他人に理解して貰うという、徒労に終わったであろう努力を早々に放棄した事。
何より、「糸」は視覚では捉えられても触れる事は叶わないものであるのを知覚した事。
これらの事実により早々に普段通りの行動に戻れた事によって、件の奇行はあまり皆の印象には残らずに、興味の対象は他の事に移って行った。
おかげで糸の件は追求されずに済んだのだが、この一件以降、まだ新しい環境に馴染み切らぬその内に、タイトはクラスの中で浮いた存在になってしまったのである。
全く理不尽な事この上ない、タイト自身は何も悪い事をしていないのにだ。ただ、他の人間よりも「余計な」物が見えてしまった。たった、たったそれだけの事だ。
しかし、そのたったそれだけの事が、想像以上に深い溝。
絶対的な、暗い溝となって、タイトとその他全ての人間とを別ってしまったのだ。
或いは、「それだけ」で済ましておければ良かったのかもしれない。
ちょっと周囲から奇異の視線を向けられた、それをたまたま運が無かったと受け入れて。
そうして、それ以上何も望まなければ良かったのかもしれない。
しかし、高校生というのは多感な時期である。
受験、親、異性、そして将来。そうした事柄とそれに起因する周囲からの抑圧を感じ、加えて男子ならば自己顕示欲も顕れ始める、それがタイト達世代の「健全な」青少年の姿である。
だから、例えそれが扱いづらく厄介な代物であろうとも。人とは違う「何か」を得てしまったのなら。
「それ」を使って自らの渇きを癒したい。そう考えてしまうのを、誰も責める事は出来ないのではないだろうか。
タイトとて、その例外とはならなかった。
もっとも、事の経緯を考えれば意外な程真っ当な利用法をタイトは行なった。
即ち、「人助け」である。
「糸」はその人間の近しい未来を象徴するもの、ないしは結びつきし存在との関係を示唆するもの。
それをおぼろ気ながら把握した時、その力を善意で行使しようと、本当にそう考えたのである。
しかし、この力がとても不便で使いづらいのは、これまで書き記してきた通りだ。
身に降りかかるであろう危機を(タイト本人にとっても半ば奇跡的に)未然に防いであげたとて。
良き人との出会いを、人との繋がりを糸の見せる色から紡いであげたとて。
肝心の本人達にはそれが解らないし、説明が出来ない以上はそれより先の進展も有り得ない。
それだけでなく、糸が象徴するのがあまりに抽象的である故に、「読み」が外れて余計状況を悪化させてしまう事も少なくなかった。逆に当たりが良くても、それはそれで気味悪がられる。
結局「
だが、そんな中にも中学以前からの旧友等。彼の様子を心配し、気遣い、力になりたいという人達もいたのだ。
しかし、タイトはそれを拒絶した。
それは、その時にはタイトは「糸」に関する、もう一つの重大な事実に気付いてしまっていたからである。
自分の糸は自分には視えない。
この事が如何にタイトに恐怖を感じさせたか。
周りの人間には良きにつけ悪きにつけ、人との関わりが「糸」という形で繋がり合っているのがタイトには視える。
なのに、よりによってそれが視える自分には、その他人との絆ともいえる糸が、誰とも繋がって視えなかったのだ。
いや。そもそも自分には「糸そのものが無い」のではなかろうか。
この広い世界で只一人、この世の理という枷から、除外されたかの様に。
それは孤独。例えようもない、絶望的な迄の孤独だった。
誰もが繊細で傷つきやすいこの時期に、こんな悲劇に突き当たってしまったのだからこれはもう腐らない方がどうかしている。
悪夢の一つや二つ見るというものだ。自殺という手段を取らないだけ彼の精神は強靭であったかもしれない。
そしてこんな状況に陥っても、両親に関しては恨みごとを言う事もなかった。
糸が視える様になる前までは、両親のおかげで今の日常をそれなりに謳歌出来ていると思っていた。
それに、過去に一度タイトは家庭内でいざこざを起こしている。あの事に対する後ろめたさも有って、今日も彼はこうして平静を装い通学しているのである。
タイトがふと前を向くと、「忘却草」の巻き付いていたあのサラリーマンが踵を返して今来た道をひた走りに戻って来ていた。目にはうっすらと涙すら浮かんでいる。
(そんなに大事なものなら忘れんなよ、バーカ)
タイトは胸の奥で自身と何ら関係も無いその男を嘲笑った。
容赦ない夏の日差しが和らいで、人工的な冷風が体を撫でる。朝の駅は、ここまでの道程で汗ばんだ体を涼ませる位にはクーラーが効いて心地よいが、通勤通学でせわしなく行きかう人の塊と、視界に踊る膨大な糸の乱舞はやはりタイトを憂鬱にさせる。
仕方がないので、いつもしている様に雑多な思索に意識を集中しながら改札をくぐる。
(七時ジャスト。三分発の快速に乗ればギリで最後のバスに滑り込めるか)
(今日はこの陽射しの中で一時限目から体育だ。やれやれ、いっそ雨でも降らんもんかね)
タイトはそうやって、周囲を「敢えて薄ぼんやりと捉えながら」歩いていたから。階段を降りた先、駅のホームの雰囲気が~彼にのみ視える世界の話でだが~いつもと違う異様な状況なのに、すぐには気が付かなかった。
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