第4話 社会貢献
「佐々木、あんた、まーだ独身なの?」
今日、敢刃は、皮膚炎と鼻炎の治療と、健康診断に来ている。
獣医師と看護師が三人がかりで診察台に乗った敢刃を診る間、スツールに座った北川は腕と足を組んで喋る――。
「今の時代はね、女性は仕事だけじゃなく、家庭を持って、家事して子供産んで育児して、全部できなきゃいけないわけ。な? それでこそ社会貢献。あんたは社会に生かしてもらってんだから、やりなさい。ね。あとはもっと愛想良くしなさい。人にいい気持ちさせるのも、看護師の役目でしょ。うちの家内もね、人間のだけど病院で働いてんの。でさ、そんな時代じゃなかったのに、仕事しながら、パっと妊娠して、パっと子供産んで、四人だよ、四人。人口の維持には最低二人か三人産まなきゃいけないところ、四人よ。で、パっと仕事に戻って育児して、四人ともちゃちゃっと大学行かして独立させたんだから。そんで志賀、あんたもだよ。そんな身なりして
――花岡と佐々木は、はいとかそうですねえとかうーんとか言いながら、志賀と共に、今日は少しご
「あっ、出会いがねえって、んなわけないか! ほら、佐々木がいる、佐々木が! あっははははは! 志賀、花岡先生、ここに佐々木がいるじゃねえの! 佐々木、ったくお前は化粧の一つくらいしたらどうだ? 俺、佐々木が女だって、一瞬忘れてたわ! ほら、あんたら二人とも、いや、こんなナヨナヨした女捕まえんのに二人もいらねえな。俺ぁさっさと帰るからさ、その後にでもごゆっくり――」
『夜間救急動物病院はなおか』は、いつでも、どんな患者でも受け入れて診療をする。
飼い主がどうであっても、優先すべきは動物の命と健康――。
ぱりーん!
――明らかに割れ物が割れたと分かる音に、北川は一瞬口を閉じる。
『昇ぅ、ごめーん』
診察室の職員用扉の向こうから聞こえてきた
『昇のお気に入りのソーサーを割っちゃったよー。でもさ、台のはじっこに置いてあったのに
最初から最後まで呑気だった声が聞こえなくなると、なめ子のもとへ急ぐ足音が遠ざかって、すぐに静かになった。
「まったく、あの兄貴はならんね」
新しい話題ができた北川は、わざとらしいほどに大きな溜息を
「弟はこんな立派な仕事してるってのに、そのスネ
「北川さん」
その声に、佐々木は思わず敢刃から手を離し、花岡の腕を掴んでしまった。
――佐々木にはほんの一瞬、花岡の手に、メスが握られているように見えた。
しかし、もちろんただの
それでも、花岡の背後には黒い炎が燃えているようで――。
「……結婚など、職員やその家族のプライベートに関わる話は
敢刃の首の皮膚の炎症を
「はあ? 嫌ってことねえだろ? コミュニケーションだよ、コミュニケーション。俺はただ社会のための意見を言ってるだけだし、家内のことだって喋ってるんだ。結婚の話がダメなんて言ったら、なんにも喋れなくなるよ?」
やれやれと肩を
「それだけではありません。兄を
まずい。
とは思うのに、花岡のこんな顔を見るのは佐々木も志賀も初めてで、どうしたらいいのか分からない――。
「あれ、まだ終わってなかったか」
その声と診察室に流れ込んできた強烈な悪臭に、佐々木は内心でほっと胸を
正治にこの状況を収める力があるとは思えないが、
「やあ敢刃くん、こんばんは。北川さん、こんばんは。おお敢刃くん、今日もかっこいいねえ。ん? 毎日パパとお散歩してる? 楽しい? ああそうかぁ」
――正治は一人で喋りながらすたすたと診察室に入ってくると、垢だらけの手で敢刃の顔をわしわしと撫で始める。
撫でられている敢刃はなんと、長く筋肉質な尻尾をのんびりと振っている。敢刃が北川以外の人間に尻尾を振るのを、佐々木は初めて見た。が――。
「不潔な手で敢刃に触るんじゃねえ! 病気がうつったらどうするつもりだ! この
北川に真正面から
「すみませんね、北川さん。じゃあまたね、敢刃くん。お荷物はお荷物らしく片付けられておくよ。だから昇、今さっき昇のお気に入りの花瓶も割っちゃったけど、ぼくは片付けられないよ。でも謝ってはおくね。ごめんね。はいおやすみ」
正治はぴらぴらと気楽そうに手を振ると、再び、愛するなめ子の名を呼びながら去っていった。
正治の
「……健康診断の方では大きな問題は認められませんが、年齢も上がってきていますから、より一層、食事の量と栄養バランスの管理、そして、負担の大きすぎない適切な運動を心がけてください。皮膚の炎症はだいぶ治まってきました。引き続き清潔に保って、塗り薬を塗ってください。鼻炎の方も少し良くなりました。もう少し同じ薬で様子を見ましょう。それと、毎回の話になりますが、
――北川は日常的に喫煙をするらしく、今日も、来院してからずっと、
「理想を言えば、禁煙することをお勧めします。煙草は敢刃くんの呼吸器や全身の健康、そして、今の鼻炎にも悪い影響を与える可能性があります。煙草の臭いが苦手な子には、大きなストレスにもなりかねません。敢刃くんが心身ともに健康で長生きするためには、禁煙が最善の方法です。お一人では難しいようでしたら、禁煙治療も考えてください。北川さんがお住まいの地域でも、禁煙治療には自治体からの補助金が十分に出ます。禁煙治療は、煙草を買い続けるよりも安い値段で、北川さんと敢刃くん、そして、北川さんの近くにいらっしゃる多くの皆さんの心身の健康を手に入れることができる方法の一つです」
花岡は北川に何度も、同じ助言をしているが――。
「はあ? 何だよ、
花岡は獣医師として、飼い主には厳しく感じられることでも、動物の命のためには言わなければいけないことがある。自分がどれだけ
北川はそれからも、ヤク中
「うばあああああああああああああああああん!」
――北川の姿が見えなくなった
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