第4話 社会貢献

「佐々木、あんた、まーだ独身なの?」

 今日、敢刃は、皮膚炎と鼻炎の治療と、健康診断に来ている。

 獣医師と看護師が三人がかりで診察台に乗った敢刃を診る間、スツールに座った北川は腕と足を組んで喋る――。

「今の時代はね、女性は仕事だけじゃなく、家庭を持って、家事して子供産んで育児して、全部できなきゃいけないわけ。な? それでこそ社会貢献。あんたは社会に生かしてもらってんだから、やりなさい。ね。あとはもっと愛想良くしなさい。人にいい気持ちさせるのも、看護師の役目でしょ。うちの家内もね、人間のだけど病院で働いてんの。でさ、そんな時代じゃなかったのに、仕事しながら、パっと妊娠して、パっと子供産んで、四人だよ、四人。人口の維持には最低二人か三人産まなきゃいけないところ、四人よ。で、パっと仕事に戻って育児して、四人ともちゃちゃっと大学行かして独立させたんだから。そんで志賀、あんたもだよ。そんな身なりして意気地いくじなしで、どうせ夜の方はダメなんだろ? 女の子みたいな顔で。なあ? 早く治療して、いっぱい子供作りな。つってもあんたの子供じゃあ貧弱だろうねえ。ま、可哀かわいそうだけど仕方ないわ。その分いっぱい作りな。小粒でも数がいりゃあどうにかなるよ。いないよりマシ。んで先生もさ。あんた立派な仕事してんだから、早く結婚して、この国にいい遺伝子残しなさい。頭も体も立派だし、金もあるんだから、子供もみんないい大学行かせられるでしょうよ。な? そういう人こそ、どんどん子供残さなきゃ。でも何? モテないの? 出会いがないの? じゃあほら、あるでしょうよ、アプリ? 出会い系ってやつ? なんでもいいから女捕まえて子供作りな? パっとやるだけでしょ?」

 ――花岡と佐々木は、はいとかそうですねえとかうーんとか言いながら、志賀と共に、今日は少しご機嫌きげんななめな敢刃の体を押さえ、体温や体重を測ったり、採血をしたり、たるんだ皮膚をめくったりする。

「あっ、出会いがねえって、んなわけないか! ほら、佐々木がいる、佐々木が! あっははははは! 志賀、花岡先生、ここに佐々木がいるじゃねえの! 佐々木、ったくお前は化粧の一つくらいしたらどうだ? 俺、佐々木が女だって、一瞬忘れてたわ! ほら、あんたら二人とも、いや、こんなナヨナヨした女捕まえんのに二人もいらねえな。俺ぁさっさと帰るからさ、その後にでもごゆっくり――」

『夜間救急動物病院はなおか』は、いつでも、どんな患者でも受け入れて診療をする。

 飼い主がどうであっても、優先すべきは動物の命と健康――。

 ぱりーん!

 ――明らかに割れ物が割れたと分かる音に、北川は一瞬口を閉じる。

『昇ぅ、ごめーん』

 診察室の職員用扉の向こうから聞こえてきた呑気のんきな声は、正治のものである。

『昇のお気に入りのソーサーを割っちゃったよー。でもさ、台のはじっこに置いてあったのにひじが当たって落ちたんだ。そんな所に置いておいた昇も悪いよ。さあみんな、キッチンの床に破片が落ちているから、通るときには気を付けてね。じゃあぼくは眠いから寝るよ。おやすみ。ああんなめ子ぉ、今行くよぉ。待っててねぇーっ』

 最初から最後まで呑気だった声が聞こえなくなると、なめ子のもとへ急ぐ足音が遠ざかって、すぐに静かになった。

「まったく、あの兄貴はならんね」

 新しい話題ができた北川は、わざとらしいほどに大きな溜息をいて再び喋りだす。

「弟はこんな立派な仕事してるってのに、そのスネかじって、毎日毎日ダラダラダラダラして、気持ち悪い外来種のトカゲなんかに餌やって。ああいうのが国を滅ぼすんだよ。分かる? つまり税金の無駄遣い。俺たちが必死こいて稼いだ金を吸い上げてるだけの無駄な存在。な? 最近の教育は虐待防止だのなんだの言って子供を甘やかすから、ああいうのができるんだ。まあ、あいつはいくら叩こうが治らねえだろうけどな。まったく、なんで就職せんかね? 心の底から理解できんね。あの兄貴は、俺たちには全く理解できない頭だからさ、もう更生なんかできねえのさ。何をしたって、更生に使われる金と労力の無駄。だから早くどっかの施設にでも入れて、死ぬまで社会に出られないようにすべきだ。そうだろ? そうしたら俺たちに迷惑をかけるようなことはできないし、先生、あんたも楽になる。な? 施設に入ったらもう、税金も最低限しか使わないしね。いやもう、それすらももったいないね。殺してしまえばいい。でも死刑にも金がかかるってもんだ。だから俺たちで殺せばいい。な? あいつは社会的に無価値どころか、立派にやってる人間の足を引っ張ってるんだ。迷惑こうむってる俺たちがあいつを殺して何が悪い? あいつは国のために、世界のために死ぬべきだ。あいつは死ぬことでしか社会貢献ができないんだよ。ほら先生、あんた医者なんだから、毒でも作って飲ませりゃいいだろ? な? あいつは気違いのバカざるだからすぐ飲むさ。ま、贅沢ぜいたくを言うとすれば、できるだけ苦しんで死ぬ毒で頼むよ。死ぬときくらい、これまでの報いを受けなくちゃね。それでも考えは改めないだろうけど。だってあいつは意味不明な社会的価値がマイナスの人間だから」

「北川さん」

 その声に、佐々木は思わず敢刃から手を離し、花岡の腕を掴んでしまった。

 ――佐々木にはほんの一瞬、花岡の手に、メスが握られているように見えた。

 しかし、もちろんただの錯覚さっかくだ。佐々木はもごもごと謝り、敢刃の保定に戻る。

 それでも、花岡の背後には黒い炎が燃えているようで――。

「……結婚など、職員やその家族のプライベートに関わる話はひかえていただけますか。嫌な思いをする者もいますので」

 敢刃の首の皮膚の炎症をていた花岡の手は、止まっている。

「はあ? 嫌ってことねえだろ? コミュニケーションだよ、コミュニケーション。俺はただ社会のための意見を言ってるだけだし、家内のことだって喋ってるんだ。結婚の話がダメなんて言ったら、なんにも喋れなくなるよ?」

 やれやれと肩をすくめる北川の前、診察台に乗った敢刃を挟んで立つ花岡の黒い炎は、黒さを増して診察室の天井を焼く。

「それだけではありません。兄を侮辱ぶじょくするような発言に、妊娠、出産、子育てのリスクや苦労を軽視するような発言――」

 まずい。

 とは思うのに、花岡のこんな顔を見るのは佐々木も志賀も初めてで、どうしたらいいのか分からない――。

「あれ、まだ終わってなかったか」

 その声と診察室に流れ込んできた強烈な悪臭に、佐々木は内心でほっと胸をろす。

 正治にこの状況を収める力があるとは思えないが、比喩ひゆ的にも現実的にも、診察室の空気は変わった。

「やあ敢刃くん、こんばんは。北川さん、こんばんは。おお敢刃くん、今日もかっこいいねえ。ん? 毎日パパとお散歩してる? 楽しい? ああそうかぁ」

 ――正治は一人で喋りながらすたすたと診察室に入ってくると、垢だらけの手で敢刃の顔をわしわしと撫で始める。

 撫でられている敢刃はなんと、長く筋肉質な尻尾をのんびりと振っている。敢刃が北川以外の人間に尻尾を振るのを、佐々木は初めて見た。が――。

「不潔な手で敢刃に触るんじゃねえ! 病気がうつったらどうするつもりだ! この乞食こじきが! 社会のお荷物が!」

 北川に真正面から怒鳴どなられた正治はしかし、ふむ、と息を漏らしただけで、素直に敢刃から手を離す。

「すみませんね、北川さん。じゃあまたね、敢刃くん。お荷物はお荷物らしく片付けられておくよ。だから昇、今さっき昇のお気に入りの花瓶も割っちゃったけど、ぼくは片付けられないよ。でも謝ってはおくね。ごめんね。はいおやすみ」

 正治はぴらぴらと気楽そうに手を振ると、再び、愛するなめ子の名を呼びながら去っていった。

 正治ののこが揺れる室内で、花岡はふ、と冷えた息をいてから、北川に説明を始める――。

「……健康診断の方では大きな問題は認められませんが、年齢も上がってきていますから、より一層、食事の量と栄養バランスの管理、そして、負担の大きすぎない適切な運動を心がけてください。皮膚の炎症はだいぶ治まってきました。引き続き清潔に保って、塗り薬を塗ってください。鼻炎の方も少し良くなりました。もう少し同じ薬で様子を見ましょう。それと、毎回の話になりますが、煙草たばこは敢刃くんが入らない部屋で、またはできれば、一人で公共の喫煙所に行って吸うようにしてください」

 ――北川は日常的に喫煙をするらしく、今日も、来院してからずっと、煙草たばこにおいがしている。

「理想を言えば、禁煙することをお勧めします。煙草は敢刃くんの呼吸器や全身の健康、そして、今の鼻炎にも悪い影響を与える可能性があります。煙草の臭いが苦手な子には、大きなストレスにもなりかねません。敢刃くんが心身ともに健康で長生きするためには、禁煙が最善の方法です。お一人では難しいようでしたら、禁煙治療も考えてください。北川さんがお住まいの地域でも、禁煙治療には自治体からの補助金が十分に出ます。禁煙治療は、煙草を買い続けるよりも安い値段で、北川さんと敢刃くん、そして、北川さんの近くにいらっしゃる多くの皆さんの心身の健康を手に入れることができる方法の一つです」

 花岡は北川に何度も、同じ助言をしているが――。

「はあ? 何だよ、くせえって言いたいのか? え? 最後に吸ったのは一時間半も前だぞ? しかも外で、一本だけ。気にしすぎだ、気にしすぎ。臭いで死ぬ奴なんかいねえよ。俺の自由に口出すな。黙ってろ」

 花岡は獣医師として、飼い主には厳しく感じられることでも、動物の命のためには言わなければいけないことがある。自分がどれだけののしられようと――。

 北川はそれからも、ヤク中あつかいしやがって、この人権侵害がなどと思う存分に文句をれてから、敢刃のリードを取って診察室を後にした。

「うばあああああああああああああああああん!」

 ――北川の姿が見えなくなった途端とたんに、今まで黙っていた志賀が大泣きを始める。

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