第3話 元闘犬・敢刃

「お待たせして申し訳ありません」

 連絡の通り十九時半には待合室に来ていた敢刃と北川だが、十九時の開院直後に、酷い低血糖を起こした仔猫と足を骨折した文鳥の救急の対応が入り、他の定期通院患者の診療もあったため、敢刃の診療を始められる頃には、時計の針はもうすぐ二十一時を指すところとなっていた。

「まったく、こっちは片道三時間かけて来てやってるんだけど。動物病院なら患者が第一優先だろ? 高い金払ってんだし」

 待合室のベンチに座った北川は背後の窓ガラスに寄り掛かり、敢刃の、皮膚のたるんだ太い首を叩く。

「すみません」

 救急の対応があったとはいえ、今から敢刃の診療をすると、敢刃と北川が自宅に到着するのは午前一時を過ぎることになる。これはこちらの少人数体制が原因でもあるので、佐々木は頭を下げる。

「頭下げられてもどうにもなんないわ。早くして」

「はい」

 これに関しては北川の言うことももっともである。佐々木は頭を上げ、敢刃と北川を案内する。

 診察室に入ると、敢刃のリードは花岡に預けられる。

 土佐闘犬は大きく、とても力の強い犬であり、何かがあった場合に佐々木では押さえきれないためだ。また、スタッフの中で最も力があるのは志賀なのであるが、北川はそれを信じていない。

 土佐闘犬は全てが闘犬として育てられるわけではないが、敢刃はかつて闘犬として、地方 の大会に出場していたこともあるという。

 といっても、土佐闘犬は基本的に忠実で大人しい性格であり、闘犬として育てられた場合でも、土俵の外で闘争心を出すことはないし、土俵の中でも、人間の管理のもとで、互いに殺し合うようなことはない。

 敢刃の場合も、敢刃の元々の資質に加え、ストレスの無い環境でしっかりと飼育・訓練をされているらしいからか、人間や、闘いの相手ではない犬に対して攻撃をすることはない。一方で敢刃は、初めて会う人間には強い警戒心を持つ性格で、少しえたりうなったりすることもあるが、『夜間救急動物病院はなおか』のスタッフたちにはもう慣れて、尻尾を振りはせずとも、撫でさせてくれたり、手からおやつを食べてくれたりする。皺だらけの大きな顔がおやつの美味しさにほころぶさまは、とても可愛らしいものである。

 佐々木としては、犬を闘わせるのは可哀かわいそうだと思うが、敢刃が参加していた闘犬の大会は地域の伝統的なもので、大会の主催者によれば、自分たちは厳しいルールと安全管理のもと、獣医師も必ず会場に待機させて、賭博やデスマッチの無い、あくまで純正な格闘技としての闘犬を行っている、という意見である。

 そうと知ってもやはり可哀そうだと思ってしまうが、闘犬に参加する犬の飼い主たちの多くは長い時間をかけて犬との信頼関係を築き、強い情熱を持って競技に参加している。自治体によっては闘犬を禁止しているところもあり、この病院がある地域でもそうだが、佐々木は、ただ可哀そうだというだけで闘犬に反対することはできない、難しい話題だと感じている。

 犬の話を聞くことができれば答えが出るのかもしれないが、犬は人間とは多くの部分で異なるのだから、どれだけ話をしても互いを完全に理解することはできないのだろう。

 だって、同じ人間同士であっても全く違って、理解し合えないのだから。

 ――今、佐々木にできることは、目の前の敢刃の治療にたずさわることだけだ。

 しかし。

「佐々木、あんた、まーだ独身なの?」

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