第5話 自然の摂理

 K大学においての山南博士は、それまで大学内で行っていた研究が、

「大学内だけではできない」

 と言いだしたのが、約2年くらい前だっただろうか。

 その頃は、それまで研究していたことが、

「理論的には可能である」

 という、研究においての、

「ちょうど中間」

 というくらいのところに差し掛かっているということを自分でもわかっていた。

 そういえば、昔から、

「百里の道は九十九里を半ばとす」

 などという言葉があるように、進んでいく時は、

「絶えず、後ろを気にするようにする」

 ということを、山南博士は気にしていたのだ。

 もちろん、

「後ろばかりを気にしていては、前に見えるはずのものが見えてこないかも知れない」

 ということを考えるようになってはいたのだが、後ろを気にするのは、

「自分の成果を確認するうえで、欠かせないことだ」

 と思うようになり、さらに、最近は、

「百里の道は九十九里を半ばとす」

 という言葉が気になるようになると、ただ、前ばかりを見ていることが、却って、自分が進んでいる道から無意識に外れてしまいそうになることを、抑止してくれるということに気付き始めたのだった。

 それを考えると、自分の中で、急に、目を瞑ると、見えてくる光景があった。

 それが二つであることに気付いてきたのだが、一つは、

「つり橋の上にいる自分」

 だったのだ。

 その場所というのは、ちょうど、断崖絶壁の場所で、以前にも行ったことがある場所としてイメージしたのが、昔から、

「断崖絶壁といえばこの場所」

 ということで、さらには、

「自殺の名所としても言われている」

 という、

「北陸の東尋坊」

 であった。

「これこそ、大自然の営みによって育まれ、海と谷間を流れる風の影響を受け、あのような形の、断崖絶壁が出来上がったのだ」

 などという人もいるかも知れない。

 しかし、ちょっと冷静に考えれば、

「あれだけのものが、そんな波や風だけで、あのようなものをいくら長い年月がかかったとしても、できるわけがない」

 と考えるのは、当たり前のことではないだろうか?

 きっと、ここに来た人も、同じ考えではないだろうか。

 もちろん、最初は、

「ああ、自然の威力って、無限で恐ろしいんだ」

 ということであるが、それを認めてしまうと、

「これほど、恐ろしいことはない」

 といえるだろう。

 今、世界中で問題になっている、

「地球温暖化」

 をはじめとした、異常気象などによる、

「地球滅亡の青写真」

 というものである。

 地球に限らず、

「形あるものは必ず滅びる」

 という考えは、何も地球に限ったことではない。

 地球がかつて、そう、どれくらい前のことになるのか分からないが、

「恐竜」

 などがいた時代というものを考えてみよう。

 巨大生物が地球を支配していたという時代である。

 この時代になってくると、本当に怪獣が支配している時代で、ほとんどの動物は巨大である。

 そもそも、恐竜というのは、

「爬虫類」

 といっていいだろう。

 恐竜というと、今生きている生物の先祖だと考えると、二本足で立ってはいるが、種類にもよるのだろうが、見ていると、まるで、

「カメレオン」

 であったり、

「イグアナ」

 の類の先祖ではないかと思えるのだ。

 となると、今の大きさのカメレオンやイグアナの、十数倍の大きさだったといってもいいのではないか?

 もちろん、

「滅んでしまったと言われる恐竜の子孫が、今の時代にいる」

 という発想が、本当に正しいものなのだろうか?

 ということである。

 基本的に、

「恐竜は、氷河期が来たことで、滅んでしまった」

 と言われている。

 要するに、

「誰も、正損することができない状態だった」

 といえるだろう。

 もし、恐竜の中に、突然変異として、

「氷河期にも耐えることのできる身体を持った恐竜がいたとして、その恐竜が子孫を保つことができるだろうか?」

 ということである。

 まず、普通に考えれば、

「無理である」

 ということは、歴然としたことであり、なぜなら、

「自然の摂理」

 というものを考えれば分かるというものであった。

 というのも、

「動物というものは、食料がなければ生きていくことはできない」

 ということである、

 恐竜が生きることができる時代というのは、

「恐竜にとって。快適に生活ができる時代だったからこそ、繁栄していたのだ」

 と言われる。

 つまり、恐竜が生息でき、さらに、他の生き物が生息できることで、

「自然の摂理」

 といわれる、

「食物連鎖」

 というものがなければ、生きていくことはできないのであった。

 ということは、

「恐竜一匹しかいないということは、食料がない」

 ということを示していて、それは、

「すぐに餓死する」

 ということを示しているからだ。

 この時に言えることは、

「恐竜というものの最後の生存者だった」

 というだけのことである。

 ちなみに、この恐竜が生きていた時代というのは、

「今の地球よりも温かかった」

 ということであった。

 これが自然現象によるものなのであろうが、それを考えると、

「巨大生物が多かった」

 というのも分かる気がする。

 そして、その時代が、恐竜にとって、最適な時代だったということであろう。

 では、

「今の時代が、人間にとって、快適な時代だ」

 といえるだろうか?

 正直にいえば、

「命を守る行動を」

 ということを言わなければいけないほどの、

「危険な状態ではないか?」

 ということになる。

 ただ、一つ考えなければいけないこととして。

「果たして、この世は、人間が快適でなければいけない時代なのだろうか?」

 という疑問もある。

 というのは、

「今の地球上というところには、無数の動物が繁殖している。人間などの哺乳類から、恐竜の子孫と言ってもいい、爬虫類であったり、鳥類、魚類と、陸で生活するわけではない共存という言葉に疑問符がある動物もいれば、何も動物だけが生物ではないということで、植物や、プランクトンなどの微生物だっているわけである」

 といえるだろう。

 そんな世の中において、たぶんであるが、氷河期という時代に、果たしてどれだけの生物が生存できたのか?

 ということである。

 ひょっとすると、

「氷河期だからこそ、生存できる生物がいて、彼らの天下だったのかも知れない」

 と言えるのではないだろうか?

 同じ太陽系といっても、太陽からかなり遠いところは、

「太陽の恵み」

 というものをほとんど受けていないということで、

「土星の衛星」

 として有名な、

「タイタン」

 などは、

「氷で覆われた世界」

 だというではないか。

 それが、まるで、氷河期のような世界だとすると、想像を絶するものがある。

「氷河期というものを、自分の頭の中で想像してみろ」

 ということになると、

「まるで、南極大陸」

 あたりを想像するだろう。

 しかし、南極であったり、北極というものを想像するとなると、正直、

「想像を絶する」

 といってもいいのだろうが、それでも、ペンギンやアザラシ、シロクマなどという某物が住んでいるのだ。

 アラスカシベリアなどに生息する、

「エスキモーなる人種は、昔から、アザラシの肉を食らっていた」

 というではないか。

 そもそも、植物を接種することをしないと、

「人間は、生きていけない」

 と言われているが、そのかわりに、アザラシなどの生肉を食うことで、

「野菜で補わなければいけないものを、生肉で補うことで、生き残ってこれた」

 ということになるのだが、逆にいえば、

「生き残ることができる動物というのは、偶然というものを味方にしておかないと、生き残れない」

 という、シビアな現実世界なのではないだろうか?

 そう思うと、

「シビア」

 ということは、

「偶然」

 とは切っても切り離せないもので、

「偶然というのは、何も他力本願なだけではない」

 といえるのではないだろうか。

「偶然というものには力があり、その力を信じ、自分のものにできる生物こそが、生き残ってこれたのだろう」

 ともいえるだろう。

 人間の場合は、その偶然という言葉を表に出さず、何か他の者による、

「強力な力」

 ということで考えたとすると、それが、

「神の創造」

 ということになるのかも知れない。

 つまりは、

「人間という動物は、神によって作られた」

 ということである。

 だとすると、

「人間以外の生き物は、誰が作ったのか?」

 ということになるのだが、そもそも、人間社会というものは、

「人間至上主義」

 である。

「人間というものが一番偉く、他の動物や生物は、人間が生きるために、存在している」

 ということになるだろう。

 言い換えれば、

「他の生き物は、それぞれに意味があって存在している」

 と言われている。

「じゃあ、その意味って、何なんだ?」

 ということになるわけだが、

「生き物というのは、人間が生存するためだけに生存している」

 といえるのではないだろうか?

 この考えは、

「半分正しいが、半分間違っている」

 といってもいいだろう。

 それは、

「自然の摂理」

 ということから来ているのである。

 というのも、

「例えば、人間にとって、毒にも薬にも、食料にもならない生物がいた」

 としよう。

 その動物は、人間とはまったくかかわりがないように思えるが、

「自然の摂理」

 から考えると、

「人間が直接食べている動植物にとっては、食料になっているのかも知れない」

 ということである。

 つまり、その動物がいなければ、食料となる動物の食料がなくなり、必然的に、人間の食料が減ってくるということになるわけだ。

 さっきのエスキモーの話ではないが、

「人間というものは、食料になるものがあるだけでは、生存していけるわけではない」

 ということである。

 その意味がどこから来ているのかというと、

「食料を摂取する」

 ということは、生きていくための栄養を摂取するということになる。

 人間の場合は、食料が偏ってしまうと、長生きできないということになっていて、

「栄養のバランスが崩れると、すぐに病気になってしまったり、さらには、死んでしまったりするということである」

 つまりは、

「食料になるものが、バランスよく、人間を生かすだけの量、なければいけない」

 ということで、

「人間にとって、無駄なものは、この世にはない」

 ということなるのだろう。

 ただ、そのムダではないとしても、中には、

「人間に害を与えるものだって存在している」

 といえるだろう。

 病気の元になるものだって普通に存在しているわけだが、それも、人間の食料になる堂宇物にとって必要なものなのかも知れない。

 だから、地球上には、無数の動物が存在している以上、それぞえの生物の因果関係などから、

「無駄のように思える、百害あって一利なしと呼ばれるものでも存在しているということは、何か、回りまわって人間のためになるものである」

 というものに相違ないといってもいいのかも知れない。

 それを考えると、

「この世には、人間にとって、ありがたいものも、存在していれば、ありがたくないものも存在しているということになるが、もし、そのありがたくないものを、人間の力で絶滅させることができないのだとすれば、それは、絶滅させてはいけないものだ」

 ということになるだろう。

 絶滅させてしまうと、知らず知らずに、自分たちの食料を減らしている可能性がある。

「いつの間にか、今まで存在していた動物が、絶滅してしまっていた」

 ということで、理由を探そうとしても、見つからないということになるのではないだろうか?

 例えば、それが、人間にとって、恐ろしいものとして存在する、

「スズメバチ」

 などはどうだろう?

「二度刺されれば死ぬ」

 ということで、アナフィラキシーショックを与えるものなので、いなくてもいいはずのもの。

 ということになる。

 それでも、絶滅させることができないのは、ひょっとすると。

「スズメバチが滅亡することで、他の人間にとっての害のある動物が、大量発生する」

 ということになるのかも知れない。

 そういうスズメバチのような存在を、

「必要悪」

 という言葉を使っていいのかどうか分からないが、言葉をしては、

「適切」

 なのかも知れない。

 そういう意味で、必要だろうがなかろうが関係なく、

「悪」

 という言葉は、どういう意味があるのか

 ということを考えてみるが、その定義は難しい。

 そもそも、

「何にとって悪なのか?」

 ということである。

 同じ人間世界の中でも、

「かたやこっちの人には悪であるが、こっちの人には悪でもなんでもない」

 といえるだろう。

 もし、

「悪でも何でもない」

 という人にとって、

「これは善なのではないか?」

 ということになれば、その場合のことを、

「必要悪」

 というのではないか?

 と考えられるのだ。

 そもそも、

「必要悪」

 というものが、どういうところから来ているのか?

 ということを考えると、一つの問題として、

「無駄なものなどないという考え方に由来する」

 ということで、

「自然の摂理」

 という考え方が、問題になるのではないか?

 ということなのであった。

 それを考えた時、

「世の中で大切なものは何か?」

 と考える人はいても、その捉えどころの根本が間違っていると思えてくるのではないだろうか?

 そんな、

「自然の摂理」

 の中で、

「果たして、何の研究をしているのか?」

 ということは、ある程度は表に出てきているのだが、そのことについて、ハッキリとすべてを分かっている人はいないのかも知れない。

 その

「すべてをわかるということがどういうことなのか?」

 というのは、

「研究というものには、はじまりがあり、終わりがあるということであり、その始まりから終わりまでの間に、いくらかの節目があるということで、その節目と節目の間が、一つのセンテンスとなっていて、それをコンテンツと考えるかどうか?」

 ということである。

 コンテンツの集まりが、一つの大きなテーマであり、それを、

「モットー」

 であったり、

「スローガン」

 といえるのではないだろうか、

 それを宣伝という形で、この場合を表現するとすれば、それは、

「プロパガンダ」

 といえるのではないだろうか?

 それを考えると、

「それらすべてを、今の時代のネット社会の言葉」

 として表現すると考えると、

「コンセプト」

 という言葉で表現できるということになるのではないだろうか?

「自然の摂理」

 という言葉にも、

「いくつかのセンテンス」

 というものがある。

 例えば、

「人間は、牛などの家畜を食べる」

 ということから始まり、

「牛の食料として、草などの植物が必要だ」

 ということになる。

 もちろん、植物を摂取するのは、人間にも言えることだが、丑に限っていえば、

「牛の食料は植物だということになれば、その植物が育つためには、肥料が必要だ」

 ということになる。

 その肥料は、

「人間の排泄物」

 だということになると、ここで、一つの、

「輪」

 という循環機能が見えてくるというもので、前述の、

「人間にとっての無駄なものはない」

 ということに繋がっていくだろう。

 しかし、これが

「循環している」

 ということであるがら、この循環というものは、

「人間だけに限ってのことではなく、下手をすれば、排泄物にまで、無駄なものはないという理屈が通じるのではないか?」

 ということになるのかも知れない。

 それを考えると、

「世の中というものは、循環にはじまり、循環に終わる」

 という意味で、その理屈が分かるということになると、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という理屈に行き着くということになるのおではないか?

 と思うのであった。

「自然の摂理」

 というのは、そのまま、

「循環」

 ということに相違ないということであろう。


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