第4話 アナフィラキシ―ショック

 最近よく聞く言葉に、

「アナフィラキシーショック」

 というのがある。

 それは、数年前にあった、

「世界的なパンデミック」

 というものから、言われるようになった。

 その時は、過去の歴史の中で、戦前くらいというから、

「80年以上前」

 という時代に、

「スペイン風邪」

 というものが流行ってからは、それほど、日本では、

「世界で発生した伝染病の脅威」

 というものの影響を受けているわけではなかった。

 しかし、今回の伝染病では、

「都市封鎖」

 と呼ばれる、

「ロックダウン」

 までが必要ではないか?

 という議論があった。

 しかし、日本は、戦争放棄をしたことで、

「有事」

 というものがなくなり、さらに、憲法で、

「基本的人権の尊重」

 ということで、個人の権利を、いくら伝染病が流行ったからといって、日本の憲法では、

「個人の権利を制限してはいけない」

 ということになるのだ。

 つまりは、昔の。

「大日本帝国憲法には存在した、戒厳令というものを敷くことはできない」

 ということである。

 戒厳令というのは、

「有事、つまり、戦争、クーデター、あるいは、都市の機能がマヒするくらいの大災害が発生した場合は、司令部を設け、その司令部が治安を守る」

 というものである。

 しかし、本来であれば、

「自然災害」

 というものは、平和憲法の下でも普通にあることで、かつての、

「関東大震災」

 の時のような、情報の錯そうによって引き起こされた、

「朝鮮人虐殺人」

 というものがあったのだから、少なくとも、

「治安を守る司令部くらいがなければいけないのではないか?」

 といえるだろう。

 それに、数十年前に起こった、

「新興宗教による、テロ事件」

 というものもあったではないか。

 そんな状態で、

「治安を守る」

 ということで、引き起こされるパニックによって、二次災害が起こらないようにいしないといけないだろうから、

「戒厳令」

 というものが、必要だと言えないだろうか?

 ほとんど、

「伝染病の脅威」

 というものを知らず、今の世の中において、

「パンデミック」

 という言葉、

「ロックダウン」

「クラスター」

 などという、それまでに聞いたことがないような横文字を、政府は簡単に使うようになったのは、やはり、専門家と呼ばれる、

「有識者」

 という人たちの影響であろうか。

 そもそも、

「まったく未知のウイルス」

 ということで、最初はとにかく、

「どうすればいいのか?」

 ということも分からずに、

「学校閉鎖」

 というものを行ったり、

「法的な拘束力はないが、日本において、一番厳しいものとして、数年前にできた、緊急事態宣言というもので、店舗への閉店、時短要請。会社へのリモートワークなどの要請」

 というものをやるだけだったが、少しは効果があったといえるだろう。

 しかし、何と言っても、

「正体不明」

 ということで、

「とにかくできるだけの対策を打つしかない」

 ということであった。

 そんな中において、一番の急務は、

「ワクチンの開発」

 であった、

 実際に、2年目くらいになり、ワクチンを海外の企業が開発し、

「摂取が始まった」

 ということであったが、それをいくらなんでも、強制的に摂取させることはできない。

 ということで、

「摂取するしないは、自由」

 ということであった。

 しかし、実際に、摂取する場合において、証明書を発行し、

「未接種の人には、できないことを設ける」

 ということを行った。

 もちろん、表では、マスク着用は義務ではないが、

「着用していない人を拒否できる」

 ということになった。

 例えば、交通機関への乗り込みを拒否できるという法律ができたりして、いわゆる、

「強制ではないが、強制に近い差別化」

 ということが行われたのだ。

 つまりは、

「ほぼ、強制であり、ワクチンも摂取件を見せれば、映画館に入れたり、アトラクションに参加できたりという、差別化をされたことで、ワクチンを打つ人を募る形になったのだ」

 しかし、実際にワクチンを打つ時、

「もし、何かあったらどうする?」

 という国に対しての質問に、

「国が補償する」

 と言ったのに、実際にワクチンが原因で死亡したということが明らかなのに、国は、

「因果関係が認められない」

 などといって、最初に言ってワクチンを打たせたくせに、

「どの口がいう」

 という状態であった。

 それ以降、ワクチンに対しては、

「陰謀論などが蔓延っていて、国を二分するというより、世界を二分している」

 といってもいいくらいであった。

 そんなワクチンで、

「どんな問題があるのか?」

 というと、何と言っても、

「本来であれば、ワクチンを作ってから、数年は、臨床試験を繰り返さないといけない」

 といっているのに、できてからすぐに、打つということになり、国内で、

「打つ打たない」

 で問題になったのだ。

 前述の保障問題もそうだが、そもそも、

「完全でないものを、国民に強要するようなものだ」

 ということで、

「賛成派」

 と、

「反対派」

 がもめていた。

 何といっても、ワクチンを打てない人もいる。身体に、

「液体」

 を入れてはいけないという人もいれば、

「アレルギーを持っている人もいる」

 という。

 少なくとも、発熱と腕の痛みという副作用は、

「限りなく全員に近いくらいにある」

 ということで、逆に、

「熱が出ても、それは、副反応なので、大丈夫」

 という始末。

 そもそも、副反応が出ないようにして打たせるならまだしも、とにかく、どこに対しての発表なのか分からないが、

「ワクチンの効果に対してというよりも、接種率を競っているという、一体何がしたいのか?」

 ということである。

 そして、副反応の中に、

「アナフィラキシーショック」

 というものがある。

 これは、

「ごく一部の人に発症する可能性がある」

 と、パンフレットには書かれていたが、これは、

「アレルギー性のショック」

 というもので、

「身体の中にある抗体と、ワクチンが反応し、アレルギー性のショック状態を起こす」

 というものである。

 分かりやすい例でいえば、

「ハチに刺された時」

 だと言えばいいだろう。

 よく言われることとして、

「ハチに二度刺されると死ぬ」

 ということで、対象はスズメバチだという。

 というのは、

「一度目に刺された時は、毒性はあるが、死ぬことはない。その時に、侵入したハチの毒で、人間は、その抗体を作るのだという。そして、二度目に刺された場合には、どうなるか? というと、侵入してきたハチの毒に対して、抗体が反応し、毒と戦おうとするのだ。その時、毒と抗体は反応を起こし、アレルギー性のショック状態になるということである。そして、血清を打たないと、死んでしまう」

 というのが、穴フィラクシーショックというものである。

 つまり、

「ハチの毒で死ぬというわけではなく、ハチの毒素と、人間の身体にある、本来であれば、ハチの毒と戦ってくれている抗体とが反応を起こしてショック死するということなので、死因とすれば、アレルギー性のショック死ということで、アナフィラキシーショックによる、ショック死」

 ということになるのだ。

「それなら、抗体など作らない方がいい」

 と言いたいが、そういうわけにもいかないのが、人間の身体であった。

 そんなアナフィラキシーショックというものが、

「何か科学的な効果をもたらす」

 ということは、常々考えられるようになっていた、

 その中で、

「W大学の、黒川博士」

 という人物が、このことを提唱したのだが、他の学者は、この発想に消極的だった。

 だが、それを推奨する人たちが、政治家に何人かいたのだ。

 ただ、与党というわけではないので、大っぴらに国家の予算を使うわけにはいかない。とりあえず、金銭的には、大学や、その支援者で賄うことにしていたが、そこで、一つの新興宗教が、この研究に協力してきたことで、次第に、研究内容が、形になってくるのが、見えてきたのだ。

 そのおかげで、この研究を行うのに、W大学の研究室が使えるようになった。

 この新興宗教は、政府内部と、結構密接に結び付いていた。

 実際に、一部のマスゴミや、国家公安あたりでは、

「このままでは、まずいのではないか?」

 ということで、いずれは、政府と新興宗教における、ズブズブの関係を、

「どこかでたださないといけない」

 と考えるようになっていた。

 しかし、今の政府に逆らうということはできなかった。

 時は、ちょうど、

「世界的なパンデミック」

 が、まだまだ猛威をふるっていて、政府もその善後策に、苦慮していた時だったのだ。

 政治は混沌とし、ロクなソーリは出てこない。

「最初こそ、やることなすこと。後手後手にまわる政策しか取れないソーリ」

 であり、次のソーリは、

「とにかく力がなく、そのくせ、オリンピックを、ソーリの差という権力だけで、国民のほとんどが反対しているのに、強硬に押し通したことで、支持率が最悪となり、内部悲観を受けて、自分を余儀なくされた」

 というソーリだった。

 そして、もっと最悪なソーリが出てきたのだが、

「この男は、公約をいきなり破る男で、しかも、世界で戦闘状態になった国があったのだが、片方に肩入れし、世界各国同様に、経済制裁に名乗りを上げ、今、世界的なパンデミックのせいで、国内では、どんどん、苦しむ人が増えているというのに、そんな人を無視するかたちで、戦争をしている贔屓の国に、大枚をはたいて、支援する」

 という、

「どこまで、国民を苦しめればいいんだ」

 というとんでもない男だったのだ。

「そもそも、日本という国は、戦争放棄の憲法の国であるのだから、外国で、戦争が起これば、本来なら、いち早く、中立を示さなければいけない国なのに、かたや、経済制裁、かたや、経済援助と暴挙も甚だしい」

 という状態であった。

 要するに、

「自国民が苦しんでいようと、自分が世界に顔を売るために、血税を使う」

 という、

「今までで、最低最悪のソーリ」

 といってもいいだろう。

 ここまで、

「これ以上最悪のソーリはいない」

 といって、そのソーリが他の人に変わり、

「あれ以上のひどいソーリはいないだろうから、これからは、もう少しましな時代になるだろう」

 という思いが、実は、

「もっと最悪」

 ということになるのであった。

 だからこそ、

「政府はもうあてにならない」

 ということで、政府に敵対している野党としては、

「政府に対して、正攻法で戦いに挑んでいるような時間はない」

 と思うようになっていた。

「このまま、政府の言いなりになっていると、、目に見える最悪を防ぐことはできない」

 ということであった。

 まず、一つの大きな問題は、

「地球環境問題」

 であった。

「地球温暖化」

 いや、

「地球沸騰化」

 と言われる現状としては、最初に考えていた、

「青写真」

 から、想定以上に早く、

「地球滅亡のシナリオ」

 が進んでいるようだった。

 実際に、そのことは、政府もわかっていたようだ、

 有識者の研究、さらには、海外からの情報によって、

「このままでは、地球が生き残ることはできない。何といっても、最初の計画よりも、進行がかなり早い状況だ」

 ということは、すでにわかっていたのだ。

 国民もそうであろう。

「毎年夏になると、体温よりも、はるかに高い気温が、襲い掛かってくる」

 というのである。

 ここ数十年で、最高気温の高さが、5度くらい上昇しているといってもいいくらいなので、それだけでも、大変なことであった。

 さらに、その影響による、

「異常気象の数々」

 マスゴミや政府の呼びかけで、昔、こんなことを言われたことなどなかったのに、今では率先して言わないといけない事態になったことだろう。

 というのは、

「命を守る行動をしてください」

 という言葉であった。

 今までなら、

「気を付けて行動してください」

 だったものが、今では、

「決して表には出ないでください」

 と、今までのような、

「危険な場所には近寄らないでください」

 という言い方だったものが、その程度であれば、国民はまともに話を聞いてくれない。

 その心がどこにあるかというと、

「注意喚起が何であろうと、自分の思った行動をする」

 ということで、逆をいえば、

「それだけ、国家やマスゴミのいうことは、信用できない」

 ということになるのである。

 それを果たして、そのように解釈すればいいというのだろうか?

 さすがに、日本は、

「戦争放棄の平和な国」

 という建前があるので、言い方を変えれば、

「平和ボケ」

 の国である。

 だから、国民は、

「どういうことが、本当に危険な行動なのか。身に沁みないと分からないのだ」

 そのため、簡単に無謀な行動をして、結局嵐に巻き込まれ、命を落とすということになるのだ。

 一つは、

「国民をいい方に導くはずの政府が、私利私欲に塗れ、自分たちさえいいとうことを考えるようになった」

 ということがあるからだろう。

 だから、考え方としては、

「自分たちが、政権にいる間。さらには、生きている間に、地球滅亡などということが起こるわけはないだろうから、「未来の人間のことなど知るか」と思っていることだろう。そうなると、国家を憂うることなどない」

 というものだ。

 かつての大日本帝国というのは、軍国っ主義で、天皇中心の中央集権国家だったといってもいいのだろうが、少なくとも政府も軍部も、

「日本の将来を見据えて、行動していたのだ」

 といえるだろう。

「226事件」

 などに代表される

「軍事クーデター」

 などというものも、あくまでも、

「国の将来を愁いてのことだった」

 といってもいいだろう。

 だから、クーデターに失敗し、天皇から、

「反乱軍」

 の烙印を押された青年将校が、軍を原隊に返すという時に、

「諸君たちの行動が正しかったことは、歴史が答えを出してくれる」

 という演説になったのだ。

 つまり、

「あくまでも、自分たちは、信念をもって行動しているのであり、その証明は、未来がしてくれる」

 ということで、いい悪いはべつにして、

「信じた道を突き進む」

 ということで、

「行動は国を愁いてのこと」

 であったのだ。

 少なくとも、今の政府のような、

「自分たちのことだけしか考えていない」

 という、

「腰抜け政府」

 とは違っていた。

 今回の野党による、

「W大学を使っても研究が、どのようなものになるか」

 おいうことは、今の段階では、

「神のみぞ知る」

 ということであろうが、

「国家を憂うる気持ちは、かつての大日本帝国の、軍人や政府の人間に追いついている」

 といってもいいだろう。

 彼らが提唱する、

「アナフィラキシーショック」

 への注目は、

「有識者」

 による助言からではなかった。

 野党の政治家が提唱したもので。それを有識者が、

「追認した」

 ということである。

 そもそも、国会議員に立候補して、政治家になる人というのは、それまでやっていた職業が、

「学者」

 であったり、

「医者」

 であったりという人も多い。

 中には、

「実業家」

 であったり、もっといえば、

「タレント議員」

 などと言われる輩も多いことであろう。

 前者は、本当の有識医者であり、後者は、

「選挙において、いかに、知名度の高い人を集めるか?」

 ということで、その人たちは、当選してからの政治要因ではなく、党としての、得票のための、

「人数合わせでしかない」

 ということになるのだろう。

「選挙において、金と名声は不可欠だ」

 ということでの、

「宣伝」

 というところを担うという意味で、

「こちらも不可欠だ」

 ということになるのだろう。

 だから、表に出てくるのは、そんな

「宣伝部隊」

 ということなので、そもそも、

「政治家の先生」

 というものが、

「国家を動かすことになる」

 ということが分かっていないので、

「政府は行き当たりばったりで。信用できない」

 と思えてくるのだろうが、

「実際には、そんなことはない」

 ということであった。

 だから、

「アナフィラキシーショック」

 というものが、今の世の中において、

「きっと何かの役に立つに違いない」

 ということを信じて、日夜研究を重ねているのであった。

 同じ時間を、

「自分たちの私利私欲のためだけに、接待や営業めいたことしか考えていない。実際に表に出てきている政治家などとは、まったく違っている」

 といっていいだろう。

 最初、

「アナフィラキシーショック」

 というものに着目した時、感じていたのは、

「アナフィラキシーショックというのは、悪いことばかりではなく、今最悪な結果にもたらされている原因は、電気を発生させるところにある」

 ということを提唱している学者がいたのだ。

 しかし、その研究は、今のところ、信憑性があるものではなく

「電気を起こすから、まずいんだ」

 とかんがえられていたのだが、この黒川博士の考えることとしては、

「その電気を分離させることで、今は悪い方にしか向いていないが、いい方に二つに分離させる」

 と考えていたのだ、

 その研究が今、W大学で行われていることであるが、そのうちの一つとして、

「超能力が生まれるのではないか?」

 と考えられることであった。

 超能力というのは、

「人間の脳の中で、使われていないという、いまだにまっさらな部分を刺激して、そこから潜在している力を引き出す」

 というものであった。

 それには、一つ考えることとして、

「電気を発生させ、そのショックを与えることで、人間の脳を活性化させる」

 という考えであったが、ちょっと考えると、

「それはまるで、フランケンシュタインのようではないか?」

 と思えたとしても、それは無理もないということである。

 フラン系シュタインのように、雷などの力で、命が吹き込まれただけではなく、さらに、

「ロボットを狂わせる」

 ということで、せっかく入っている人工知能を電気で破壊され、その活性化の行き過ぎから、

「人間のような」

 いや、

「人間らしい」

 というような頭脳を持ってしまったことが、大きなショックとなって、今でも、

「フランケンシュタイン症候群」

 ということで、大きな問題になっているのだ。

 だから、今回目の前にあるものは、それこそ、

「いかに、怪物化させないか?」

 ということであった。

 しかし、今の時代にこそ、ロボットであったり、フランケンシュタインのようなサイボーグが必要なのかも知れない。

 それは、

「人間を凌駕するような頭脳の持ち主でなければいけない。しかも、その頭脳は、間違っても人間を傷つけてはいけない」

 ということになるのだ。

 そんなことを考えていると、

「今の人間には、地球滅亡という大きな阿テーマあがああり、それを何とかしないといけない」

 と、真剣に考えている人もいるだろう、

 そういう思いで、取り組んでいる人には、真摯な気持ちで、

「見えなかったものが見えてきた」

 といってもいいだろう。

 その時に、黒川博士が考えたのが、

「フラン系シュタインほどのやりすぎにならないような電気を発生させることは、今までのような、発電を使うと、結局、そこから生まれるものは、怪物でしかない」

 ということであった。

 そこで、博士が注目したのが、

「アナフィラキシーショック」

 なのであった。

「人間を死に至らしめるような毒と戦う抗体、これほど、人間にとって恐ろしいものはない」

 といえるだろう。

 しかし、これを、

「限りなく、限界に近い」

 というところでの、

「寸止め」

 というものを行うことで、

「いかに、世の中をうまく回していけるか」

 ということしか考えていない連中の目も覚まさせることができるかも知れない。

 という、一種の、

「いい方での副作用」

 をもたらすのではないかと思えた。

 しかし、この、

「アナフィラキシーショック」

 というものに対して、手放しで歓迎できるものではないということを少し考えるようになったのだ。

 何といっても、そのショックは、

「ハチに二度刺された時の、致死率」

 というものに匹敵するのだから、

「一歩間違えると、死と背中合わせだ」

 ということになる。

 そこで博士は、

「死んでしまった人が蘇生できるという何かがなければいけない」

 とも考えるようになった。

 その蘇生というのは、

「一度死んで、生き返る」

 ということで、

「死ぬ時のエネルギーを蓄えておいて、その貯えたエネルギーで、今度は蘇生させる」

 ということである。

 しかし、それは時間との闘いということで、

「死後硬直が終わってしまうと、もう、戻すことはできない」

 ということで、できるとすれば、

「数時間しかない」

 ということであり、

 これも、

「ハチの毒の血清」

 と同じくらいの期間なのではないかということであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る