第2話 ポルターガイスト

「ポルターガイスト」

 というものを聞いたことがあるだろうか?

 これは、いわゆる、

「一つの現象」

 というものであり、

「自分が触れたわけでもなく。何もしていないのに、物体が移動したり、モノを叩くような音がしたり、いきなり発火する」

 という現象のことをいう。

 これも、科学でも自然現象としても、説明のつかないことであり、

「超自然的な発想」

 として考えられることもあれば、

「超心理学的なことが起こっている」

 という解釈もある。

 この場合は、いわゆる。

「超能力」

 であったり、

「念力」

 と言われるものの類であるともいわれるだろう。

 だから、超能力として言われる、

「サイコキネシス」

 などというものも、

「超常現象」

 であり、

「ポルターガイストというものだ」

 ということも言われているのであろう。

 実際に、心理学者の中には、超能力であったり、超常現象と呼ばれるものの原理を解き明かそうとしている人も少なくはないだろう。

 大学で、研究している人もいれば、ひょっとすると、国家機密として、

「軍事」

 や、

「兵器」

 としての開発のための研究ということで、水面下で進められているのかも知れない。

 ただ、どうしても、超常現象であったり、超能力の類は、これを兵器として利用する場合は、

「人間の限界」

 というものも考えないといけないだろう。

 昔から、

「超能力を持っている人は、その力を発揮しようとする場合においては、神経をかなり使うので、難しい」

 と言われている。

 そもそも、超能力という考え方は、

「人間には、誰もが持っているが、脳のほとんどが使われていないということで、その部分に、超能力と言われるものがあり、選ばれたものしか、それを発揮することはできないのだ」

 ということを言われている。

 しかも、その場合に、

「普段使っていないところを使う」

 ということで、相当なエネルギーを消費するだろうから、

「その分、その人の寿命を削っていることになるのではないか?」

 と言われている。

 それを考えると、

「むやみやたらに使用することは、倫理上、許されることではない」

 ということで、兵器として開発されても、すぐに、国際法で、禁止ということになるのではないだろうか?

 そんな兵器開発を行う場所として、その白羽の矢が立ったのが、例のあの街の湖畔というあの場所だった。

 あそこで、兵器開発としての、ポルターガイストを開発しようとしていたのが、国家だった。

 しかも、その国家の中でも、ある科学者の一派で、その科学者というのが、山南博士という人だった。

 彼は、この近くにある、K大学の教授で、その専攻分野は、心理学ということであった。

 心理学において、最初は、

「最近増えてきた、双極性障害からのいろいろな病気の発症であったり、さらに、他の精神疾患から、双極性障害を産む出したりと、

「いろいろな病気の原点は、双極性障害医にある」

 という、精神疾患の発症原因について考えていたのだ。

 そして、精神疾患の下になり、それが不可思議な要因を積み重ねることで、いろいろな疾患が生まれる要因を作っていると考えていた。

 さらに、山南博士は、その精神機能を、

「兵器開発に使えるのではないか」

 と考えるようになっていた。

 山南博士は、その研究を、ポルターガイストのようなものとして、

「躁鬱症における。その混同状態において、発生させることができるのではないか?」

 と考えるようになった。

 双極性相がいというのは、いわゆる、

「躁鬱症」

 と呼ばれていたような病気で、

「躁と鬱という相対する両面が、周期的にやってくる」

 という病気で、開発された薬を飲まなければ、精神が安定せず、どんどん悪化していくというものであった。

 だから、本来であれば、双極性障害の人をどこかに隔離して。そこで、研究をしながら、その正体を突き止められれば、

「あるいは、治すということも可能なのかも知れない」

 と考えていた。

 そもそも、この双極性障害という病気は、

「その状態を、どう考えるのか?」

 ということであり、一つの問題は、

「先天性のものではなく、後天性ということが問題であった」

 ということである。

「後天性」

 つまりは、

「もって生まれたものというわけではなく、何かの原因がきっかけで、発症し、それが、精神を蝕んでしまう」

 ということだったのだ。

 しかも、その原因は、さまざまであり、人それぞれだというのは、生まれてからの育つ環境が問題あからだ。

 特に今の時代は、

「学校における苛め」

 であったり、家庭内においての、

「家族による、DV」

 などというものもあるだろう。

「親による、子供へのしつけというものが、虐待になっていることを、家族は誰も分かっていないという状態で、例えば旦那が、暴力をふるっていたとすれば、その原因も様々である」

 会社での、

「ハラスメント」

 などという行為においての、ストレスの滞留が、家庭に帰るといきなり爆発するのではないか。

 その相手が、奥さんだというのは、当然のことだろう。

 さすがに、いきなり子供に行くことはないかも知れないので、暴行、虐待が奥さんの向かうと、母親は、最初は耐えるかも知れないが、どこかでそれに耐えられなくなると、その恐ろしさから、中には、

「子供をおいて、家を出てくる」

 という母親も多いだろう。

 もちろん、中には、

「子供を置いていくのは、忍びない」

 と思う人も多いことだろう。

 しかし、実際には、子供というものを考えた時、

「そもそも、父親のあの残虐な血が流れている」

 ということを考えると

「一緒に連れていくことは、恐ろしい」

 と考えるだろう。

 もし、奥さんが逃げ出すとなった場合に、どこに行くかというと、まずは、

「実家」

 と考えるだろう。

 もし、実家が難しいのであれば、友達のところということになる。

 実家だったりして、もし、そこに、

「跡取りとしての長男が、夫婦生活をしていると、そんなところに、出戻りのごとくの自分が、単独で帰って来るということは難しいのではないか?」

 と考える。

 自分が帰るだけでも、お荷物を抱えることになるのに、子供まで一緒だと、それこそ肩身の狭い思いをしてしまう。

 実家には、すでに2世帯が生活をしていれば、自分だけでも大変なのに、子供までは難しいということになるだろう。

 しかし、奥さんは、さらに、恐ろしいことを考える。

「もし、父親と同じ性格だったら?」

 と感じるのだ、

 たぶん、家族は、

「まだ子供だから」

 ということで、息子のことを許すという感覚になるだろうが、実際にはそうはいかない。

 恐ろしい性格が潜在しているとすると、せっかく非難した家で、今度は息子による禍が襲ってこないとも限らない。

 それが奥さんには恐ろしいのだ。

 子供だからという理由は、今の時代では、通用しないといってもいいだろう。

 自分が、父親の暴力から離れると、母親は、その恐ろしさに、

「家族恐怖症に陥ってしまう」

 そして、単身、実家に帰ってきたので、本当であれば、安心なはずなのに、どうもそうではないようだ。

「息子のことが気になるのか?」

 と思ったが、どうもそうではないようだ。

「自分が捨ててきた子供」

 という意識が強く、

「なるべく子供のことは考えないようにしないといけない」

 と考えるのだった。

 そう思えてくると、どんどん、家族への遠慮が、またしてもストレスに感じられ、

「なるべく、家族から孤立しよう」

 と思うようになる。

 その時初めて、

「ああ、旦那が感じたストレスというのは、こういうことなのかな?」

 と感じるのだ。

 そして、

「あの人が、暴力をふるいたくなる理由もわかってきたような気がする」

 と感じる。

 だからといって、暴力が許されるわけはない。

 それは当たり前のことであり。ただ、このままなら、自分が家族に対して何をするか分からない。

 と感じるのだった。

 一番怖いのは、

「何をするか分からない」

 という、

「限界を設けない」

 ということであった。

「あの旦那も、限界というものがなかったな」

 と感じたのは、

「あの人が暴力をふるう時のあの目だった」

 ということであった。

 その目というのが、完全に、病気の人の目であった。

 まったくのうつろな目であり、その視線が定まっておらず、

「本人も、自分が病気であるということも、下手をすれば、虐待をしているという意識もないのかも知れない」

 という意識がありながら、自分も、今同じような状況に陥りかけているのではないか?

 と感じるのだった。

 というのも、

「自分というのが、あの時の旦那の状況になっているのかも知れない」

 と思った時、ちょっと気になるのを思い出した。

 それが何かというと、

「吸血鬼ドラキュラ」

 という話であった。

 これは、ドラキュラ伯爵という人物が、若い女性の血が好物な化け物であり、自分が女たちから血を吸うと、吸われた女たちも、吸血鬼となり、最後には、

「村全体が、吸血鬼になってしまう」

 ということである。

 これが、

「一緒の伝染病」

 のようなものなのか、それとも、

「吸血鬼の持って生まれた能力なのか?」

 ということは分からない。

 しかし、血を吸われた人が吸血鬼になり、また他の人を襲うという、

「ねずみ算的な発想」

 というのは、考えただけでも恐ろしいというものだ。

 ドラキュラ伯爵が、

「最後にどうなったか?」

 ということまでは知らないが、この奥さんは、少し考えてみた。

「ドラキュラが、街で若い女の血を吸って、その女がドラキュラ化する」

 ということが最初であるが、一つ言えることといては、

「ドラキュラが一人の女の血を吸った時点で、その女はもう、自分の食料としては使えない」

 ということだ。

 それは、吸血鬼になってもならなくても同じことで、もし、吸血鬼にならなかったら、

「出血多量で死んでいるだろう」

 ということになるだろう。

 吸血鬼になるから、他の人を襲うわけで、

「ただ、そうなると、ドラキュラにとって、この現象はいいことなのか、悪いことなのか?」

 ということだ。

 そこで考えられることとして、

「女が死んでしまった方が、ドラキュラにはありがたいはずなのにな」

 と考える。

 それはどういうことかというと、

「吸血鬼がどんどん増えていく」

 ということは、

「ドラキュラにとって、ライバルがどんどん増えていく」

 ということである。

 自分が血を吸った女が、そのまま死んでくれたら、街から一人ターゲットがいなくなるだけだが、その人間が、また吸血鬼になるということは、人間にとっても、怖いことであり。

「自分を襲う相手がどんどん増えてくる」

 ということで、この発想は、ドラキュラに限ったことではなく、香港や中国などで、一時期流行ったホラーの、

「キョンシー」

 というのもそうではなかっただろうか?

「化け物に襲われると、襲われた人間も化け物になる」

 というのは、ゾンビなどでもいわれていることであろう。

 何も、

「吸血鬼ドラキュラ」

 という話だけが、

「ねずみ算」

 というわけではなさそうだ。

 ただ、どれかが元祖なのだろうが、一番引き合いに出される印象深い話というのが、

「吸血鬼ドラキュラ」

 という話なのだろう。

 そう考えた時、山南博士は、この

「ねすみ算」

 という考え方に着目した。

 人から人に伝染しているのか、それとも、人間の中に元々潜んでいる何かの本性が飛び出してくるというものなのか。

 それらを考えると、

「一種の超能力のようなもの」

 というのが、博士の脳裏をよぎるのだ。

 つまり、

「人間の脳というのは、その能力の一部しか使っていない」

 と言われていて、

 その使っていないという部分が、

「超能力」

 と言われる部分で、それが、

「サイコキネシス」

 であったり、

「テレパシー」

 のような、

「人間であれば、使うことのできる能力」

 として潜在しているものではないか?

 と考えるのであった。

 山南博士は、そのことに気付くと、大学に対して、

「研究の許可と、場所の提供を依頼した」

 のであった。

 山南博士は、大学きっての名誉教授であり、

「今の時代」

 というだけではなく、

「今までの歴史を鑑みても、山南博士ほどのレジェンドはいない」

 と言われている。

 そう、

「大学始まって以来の、頭脳」

 といってもよかった。

 学会でも、博士は、

「誰が見ても、一目置く」

 といっても過言ではない人だった。

「次回のノーベル賞だって夢ではない」

 と言われていたが、なかなか、候補には上がっても、受賞するというところまではいかなかった。

 それは、博士の研究が、

「微妙なところにある」

 ということだったからだ。

 その研究というのは、博士というのが、

「どうも、国家と何か、関係があるようだ」

 ということを、ノーベル賞審査委員会のようなところが感じているのであって、それは、事実だとしても、最高国家機密であった。

 しかし、そんな山南博士は、それまでは、

「ノーベル賞受賞」

 ということに関わるようなまずいことを、政府と絡んでいるわけではなかった。

 しかし、今回の、この

「ドラキュラ化」

 ということへの研究に関しては、実際に、

「国家が関与している」

 ということは、ノーベル賞の方でも分かっていなかった。

 というのは、これが国家の発想であり、

「オオカミ少年」

 の発想だったといってもいいだろう。

「オオカミ少年」

 という発想は、

「ある悪戯好きな少年が、村人に対して、オオカミが来たといって、騒ぎまくる」

 というところから始まる。

「村人は、驚いで逃げ出すが、それが間違いだったということで、事なきを得て、安心するのだった。しかし、それを何度も繰り返すうちに、村人も学習し、あんお子が騒いだ時は、デマなんだということで、誰も騒がないようになった」

 という話であるが、

「そのうちに、本当にオオカミが現れ、皆村人は食べられてしまった」

 ということであるが、この話の教訓はなんであろうか?

 まず考えられることとして、

「最後まで警戒心を忘れないようにしないといけない」

 ということは、当たり前のこととしてあるだろう。

 ただ、もう一つは、

「たとえ、子供であっても、悪戯をしてしまうと、誰も信用してくれないということで、自分も食べられるということになる、もし、ターゲットが自分だけであっても、村人は、助けようとはしないかも知れない」

 ということでもあるだろう。

 そしてなんといっても、

「慣れというものが恐ろしい」

 ということで、

「学習するということが、悲劇を産んだのか」

 それとも、

「慣れになっていることで、誰もが信じない」

 ということが、教訓なのだろうか?

 と考えれば慣れの恐ろしさも含まれた話で、

「一つの教訓が、いくつもの派生型の教訓を産む」

 といっても過言ではないだろう。

 そして、

「オオカミ少年」

 というのが、

「本当に、悪戯目的だったのか?」

 ということである。

 実は、オオカミは本当にいて、オオカミが確実に村人を食べるための策略、つまり、計画の一端だったとすれば、こんな恐ろしいことはない。

 それが、

「国家が秘密を守るために、山南博士との間にあった話ではないか」

 とも考えられる。

 つまり、その秘密というのが、

「吸血鬼ドラキュラ」

 の話を想像してしまうと、その先にある、

「たくらみ」

 というものを誰にも分からないという、それこそ、

「オオカミ少年」

 の話の教訓の一つでもあるかというような発想が、国家や山南博士にあったとするならば、

「こんなに恐ろしいことはない」

 といえるだろう。

 特に、今の時代の政治家にそんなたくらみがあるほどのことなどあるわけはない。

 ということは、

「秘密結社」

 という国家のウラに潜んだ、

「表の国家すら、まったく分かっていない」

 というような、まるで、

「カプグラ症候群」

 というものを彷彿させるものではないか?

 と考えるのであった。

「カプグラ症候群」

 というのは、最近の都市伝説のようなもので、一種の、

「妄想」

 といってもいい。

 というのは、

「自分の近しい人物。家族や恋人、親友などが、何かの秘密結社の策謀によって、悪の手先と入れ替わっている」

 という妄想である。

 妄想という意味では、

「中二病」

 のようなものと似ているのかも知れないが、

「カプグラ症候群」

 というのは、ほとんどが、妄想なのだろうが、本当に、

「妄想」

 で片付けていいのだろうか?

 というのは、やはり、

「オオカミ少年」

 という考え方と絡んでいるからなのかも知れない。

 そんな中で、気が付けば、いつの間にか、この湖畔への立ち入りが禁止になった。

 名目としては、湖水の点検ということであったが、どうもおかしい様子でもあった。

 約一年という年月を費やして、中に入ると、そこは、景色が一変していた。

 湖畔から、少しの距離の木々は完全に伐採されていて、かなり整備がされている。

 その中に、いくつかの別荘のようなものが建てられていて、仕切られているようにも見えている。

 その中で見ていると、さらにその奥に、

「このキレイな雰囲気には似ても似つかない、ボロいコンクリートの建物があったのだ」

 最初は、

「廃墟かな?」

 と思うほどであったが、実はそうではなく、遠くから見ると汚くて、今にも倒れそうな建物であったが、そのわりに、近づくと、綺麗にできるところはしているようで。

「できるだけのことはした」

 という跡があるのであった。

「ここが使えるんだ」

 と思っていたようだが、その建物に、近くのK大学の先生が来ているのを、誰が知っているというのか。

 もちろん、気にして見ていれば、駐車場に、

「K大学」

 と書かれているのだから、当然、そこを大学関係者が使用しているということは分かって当然だった。

 その建物の中で何を研究しているのかということを知っているのは、ごく一部の人であることは明白であろう。

 出入りしている人は、

「臨床心理学者」

 というような人が多く、そして、どうも、その中で収容されている人もいるようだ。

 見るからに。

「昔のサナトリウム」

 という感じで、

 昔のサナトリウムというと、同意語として、

「結核病棟」

 ということである。

 今でこそ、

「結核というのは、手術なしで治る」

 と言われていて、

「ストレプトマイシンから始まっての、

「特効薬」

 というものが数多く開発されたのが、その成果であっただろう。

 何と言っても、戦時中くらいまでは、

「結核というと、不治の病だ」

 と言われていたではないか。

 今でいえば、

「がん」

 のようなものであろうか。

 そういう意味で、

「がんというのも、そのうちに特効薬が開発され、投薬で治る病気」

 と言われるようになるかも知れない。

 ただ、今は、戦時中に比べれば、病気というのは、数多く存在している。

 特に、近代病といっていいのか。

「近代において、その特徴が現れるような病気」

 ということで、

「高度成長時期」

 から、こっちの、

「公害病」

 というのもそうであろう。

 もっといえば、

「核兵器や、核実験。さらには、原発事故」

 などの、

「人災」

 と呼ばれる、放射能によるものなどがそうである。

 自然現象という意味では、これも

「限りなく人災に近い」

 といえるのではないかと思えるのだが、今言われている、

「地球温暖化」

 さらには、最近では、

「地球沸騰化」

 などという状況も、新たな病気を発生させるものである。

 特に、昔は、

「日射病」

 ということばがあるが、それだけでは言い表せない症状が、出てきて、その内容が、多岐にわたっていることから、

「熱中症」

 と呼ばれるようになってきた。

 日本の夏でも昔であれば、

「33度もあれば、暑くてたまらない」

 といっていたものが、数十年の間に、

「40度」

 と言われるくらいまで上がってしまうようだ、

 だから、

「我慢することなく、クーラーを使って」

 と、政府が呼びかけるほどで、

「命の危険がある気温」

 と言われている。

 何といっても、

「体温よりも高い」

 のである。

 数十年前だったら、

「クーラーがなくても、何とかなった時代というのは、今は昔」

 と言われるようになったのだろう。

 そんな時代を考えてみれば、灼熱の状態の時にだけ、熱中症というのは、罹るわけではなく、

「夜中に、クーラーをつけずに寝ると、熱中症の症状を起こす人が多い」

 というのだ。

 何といっても、一日の最低気温というのが、

「30度以上だ」

 というではないか。

 当然、熱中症に罹るというのも、当たり前だ」

 というものだ。

 そんな時代において、どうやら、このあたりというのは、どんなに暑くても、33度くらいという気温が、ここでは保たれているという。

「ちょうど、数十年前に戻ったかのようだ」

 という感じなのだが、ここでの別荘のようになっているのは、すでに、すべてが埋まっているようで、所有者は、

「どこぞの金持ち」

 ということであるが、実際に住んでいるのは、若い連中のようであった。

 一軒の家に、二人くらいでシェアをしているところもあるという。

 というのは、彼らは、どうやら、このサナトリウムで行動しているようだ。

「俺たちは、あそこの研究所が勤務地だからな」

 ということまでは話をしてくれるが、もちろん、それ以上のことは、一切言わないという。

 しかし、実際には、そこで研究されているものは、

「ポルターガイスト」

 の研究だというのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る