第4章:感情の種 (成人期: 2011-2020)

 2011年、春の陽光が差し込む講堂で、26歳の舞は自身の新理論を発表していた。感情と量子状態の相関に関する画期的な理論。舞の声は、かつての無機質な調子から、わずかに熱を帯びていた。発表が終わり、盛大な拍手が沸き起こる。その瞬間、舞の胸に温かいものが広がった。

「これが……達成感?」

 舞は初めて、自分の感情に名前をつけることができた。


 27歳の誕生日、舞は自室で静かに過ごしていた。窓の外では、桜の花びらが舞っている。ふと、舞は自問した。「私の研究は、人々の幸せにつながっているのだろうか?」この問いは、以前の舞なら考えもしなかったものだった。舞は、自身の変化に戸惑いながらも、新たな研究テーマとして「幸福」の概念に取り組み始めた。


 日本を揺るがす大地震が発生。テレビに映る被災地の映像に、舞は釘付けになった。被災者たちの悲しみや苦しみを目の当たりにし、舞の胸に激しい痛みが走る。

「これが……共感?」

 舞は初めて、他者の感情を自分のことのように感じた。この経験は、舞の研究に新たな方向性を与えた。彼女は、感情が人間の回復力と社会の結束に果たす役割について深く考えるようになった。


 29歳の時、舞とジョンの関係が深まっていった。二人の共同研究は成果を上げ、互いへの信頼と尊敬が増していった。ある夜、実験室で遅くまで作業をしていた二人は、ふと目が合った。舞の心臓が、これまで経験したことのないスピードで鼓動を打ち始めた。舞は、胸の高鳴りを感じ、初めて「愛情」の可能性に触れた。その夜、舞は初めて「恋」について考えた。


 30歳で、舞は感情と意思決定の関係に関する大規模な研究プロジェクトを立ち上げる。この研究では、舞自身も被験者となり、自身の感情の変化を詳細に記録し分析した。様々な感情を誘発する実験を重ねる中で、舞は徐々に多様な感情を理解し、時には表現できるようになっていった。喜び、悲しみ、怒り、恐れ……それぞれの感情が舞の内面に色彩を加えていく。


 32歳の時、舞とジョンは結婚を決意する。プロポーズの瞬間、舞の目から涙があふれ出た。感情の全てを理解しているわけではなかったが、舞は「一緒にいたい」という強い思いを認識していた。結婚式で、舞は人生で初めて満面の笑みを浮かべた。それは喜びの涙と笑顔だった。列席者たちは、舞の変化に驚きと感動を覚えた。


 34歳で、舞は妊娠する。超音波検査で胎児の心音を聞いた瞬間、舞の中に新たな感情が芽生えた。お腹の中の生命に、舞は言葉では表現できない「愛おしさ」を感じた。同時に、「不安」という新たな感情も経験した。「良い母親になれるだろうか?」という思いが、舞の心を占めるようになった。舞は、これらの感情を科学的に分析しつつも、その神秘性に心を打たれた。


 出産の日、激しい痛みと共に我が子を抱きしめた瞬間、舞は圧倒的な「幸福感」に包まれた。赤ちゃんの小さな手が舞の指を握りしめる。その瞬間、舞は全身で「愛」という感情を体験した。科学者としての冷静さを失うことなく、舞は母となった自分を客観的に観察しつつ、その変化を心から受け入れていった。


章末、35歳の舞の研究ノート:

「感情を持つことは、私の人生と研究に予想以上の変化をもたらしている。喜び、悲しみ、愛、不安……これらの感情は、時に論理的思考を妨げるが、同時に新たな洞察をもたらす。感情と理性のバランスこそが、真の知性の本質なのかもしれない。今後の研究では、この仮説を深く掘り下げていきたい。そして、私自身のさらなる成長と変化を、科学者として、そして一人の人間として見守っていきたい。母となった今、感情の研究はより深い意味を持つようになった。我が子の成長と共に、私自身も成長を続けていきたい」

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