一章 最悪な出会い
episode 1 忘れていた誕生日
間宮良介視点
あれは俺が29歳になる誕生日である5月27日の出来事だ。
その日は土曜日で本来なら休日のはずだったんだけど、取引先とのトラブルが発生してしまったのが原因で、俺は1日対応に追われる羽目になった。
先方と話がついて疲れ切った体を引きずって一旦帰社したあとの事。
ようやく仕事から解放された俺は会社からの最寄り駅であるO駅のホームに設置されてあるベンチにグッタリと体を預けて、もうすぐ到着するであろう電車を待っていた。
「しっかし難儀なトラブルだったな。だからあそことの取引は反対したんだ、ったく」
理不尽しかないクレーム対応をこなした俺は、この駅で一番人通りの少ないベンチで1人愚痴を零す。
ここは余程の事がない限り殆ど乗客が来ない。その理由は簡単で、ここから電車に乗ると大体の駅で降りると、改札までの距離や乗り換えする違うホームへ向かうにしても距離がかなりあるからだ。 だからここから乗る乗客は大抵そんな事情を知らない奴らばかりで、そいつらも次からは場所を変えるという具合だ。
かくいう俺も仕事で移動する際は迷わず効率の良い場所から乗り降りする。
だけど、仕事終わりは別に家で誰かが待ってるわけでもないし、時間に追われてるわけじゃないし、疲れてる時まで人混みに揉まれるのは勘弁願いたくて、この場所から電車に乗る事にしてる。
「帰ったらなにすっかな……ってあれ? 確か今日って俺の誕生日じゃなかったか?」
俺はだらんと伸ばしていた腕を上げて時計から日にちを確認する。
「……あぁやっぱり今日じゃん」
社会人になって歳を重ねていく度に、生活リズムに日にちをいう概念が薄まってしまうのか、俺は今日が自分の誕生日だという事を忘れていた事に苦笑いを浮かべるしかなかった。
「これであと1年で20代ともおさらば……か」
なんてちょっとセンチな事を言ってみるが、だからなんだと足を放り出した時、革靴の先に何か当たった感覚とチリンという小さな音が聞こえた。
「これって、自転車の鍵か?」
軽く蹴ってしまった物を手に取ってみると、小さなガラス細工が施された薄い青色の玉と一緒に繋がっている物を見て、形状からして自転車の鍵だと判断する。
どこにでもあるようなキーホルダーにぶら下がっている物が本当に自転車の鍵だとしたら、今頃落とし主が探してるのではないかと辺りを見渡してみる。
だが、俺が見渡せる範囲には落とし物を探してるような人間はいないようだったから、それなら駅員に届けようとベンチから立ち上がった時、ポケットに突っ込んでいた携帯が着信を知らせようと震え出した。
「んだよっ」
この携帯が鳴るのは殆ど仕事関係の場合しかなく、無視する事も考えたが、日頃の習慣から苛立った本心に逆らって体は自然と着信を受けていた。
「あ、お疲れ様です。はい、はい。先ほど処理を終えました。はい、はい――」
電話の相手は直属の上司で、今日クレーム対応に走れと命じた本人であった。
(――駅員いないなあ)
俺は電話の向こうから聞こえてくる先方に対しての愚痴に適当に相槌を打ちながら近くに駅員がいないかと探してみたが、乗客が何人かいるだけで職員の姿はなかった。
やがて待っていた電車がホームに滑り込んできた。もうかなり遅い時間ではあったけど、終電というわけではないから1本乗り過ごして次を待っている間に、駅員に落とし物を渡すのがベストだろうと考えた。
「部長。話し中すみませんが、これから電車に乗りますのでこれで失礼します」
だが、俺は一刻も早く上司の電話を切りたかった為乗り過ごす選択を捨てて、多少強引にではあったが電車に乗り込む雑多な音を聞かせつつ電話を切った。
(ったく、元はと言えばアンタがあそことの契約に拘ったからせいだろうがっての!)
内心愚痴を零して飛び乗った電車に揺られながら切った携帯をポケットに突っ込むと、チリンと小さな音が聞こえた。
ひょっとしたら今でもこれを誰かが探してるかもしれないと思うと、電話を切りたかったという理由で駅員に落とし物を預けられなかった事が気になった。
やがて電車は自宅の最寄り駅であるA駅に到着した。この辺りは所謂ベッドタウンと呼ばれるエリアで、東京とはいえ観光できる場所なんて何一つない大勢の人間が生活を営むエリアだ。
そんな駅に今日も労働を終えて疲れた顔をした人達が下車していく。俺もその中に混じって電車を降りる頃には疲労からかポケットに突っ込んでいたキーホルダーの存在を忘れてしまっていた。
日中に雨が降ったからか、駅を出ると湿気を帯びた空気に思わずネクタイを緩めながら契約してる駐輪場へと足を進めていると、偶に立ち寄るコンビニが目に入った。
「誰も祝ってくれる奴なんていないけど、せめて自分で祝ってややるかな……全然めでたくなんてないけど」
1人自虐を漏らしてコンビニのスイーツコーナーへ向かったが、時間が遅かったからか偶々タイミング悪かったのかスイーツが並んでいるはずの棚はガラガラの状態で、まるで今の俺みたいだなと思わず苦笑いを浮かべた。
俺は申し訳なさそうに売れ残っていたイチゴのショートケーキと缶コーヒーを手にレジに向かうと、そこになんとなく無気力な店員がダルそうに商品のバーコードを端末に当てていく。
折角に休日に1日中トラブルの対応に追われて、元凶である上司の愚痴に付き合わされた挙句、売れ残りのコンビニケーキの代金を無気力な店員に支払う事になるなんて、侘しい誕生日だとビニール袋を下げてコンビニを出た。
そんなことがあって更に重くなった体を駐輪場へと向ける。
契約している駐輪場は2階建てになっていて1階は通常の時間決めの駐輪スペースになっていて、2階が契約者専用のフロアになっている。
こういう疲れ切っている時、何故に契約スペースが2階になるのかと恨めしく思いつつ、俺は建物に入ってすぐ脇にある緩やかな勾配になっているスロープを上がっていく。
スロープを上がりきった所で腕時計で時間を確認しようとした時、時計から23時になった事を告げる小さき電子音が鳴った。
(本当に1日仕事になったな……はぁ)
さっさと帰って体を休めようと自分の自転車を停めてある場所に足を進める。俺が契約してるスペースは一番奥にあっていつも煩わしい思いをしている為、現在スロープ近くのスペースが空いたらそちらに移りたいと管理者に申し出ているところだ。
そんな一番奥に向かっていると、静かな空間で自分の足音しか聞こえなかったはずの場所からガサゴソと物音が聞こえてきたのだが、正面に柱が立っていて今の立ち位置からでは何の音なのかは分からない。
その音が妙に気になって柱の裏側から聞こえてくる物音の正体をこっそりと覗いてみると、そこには真っ青な顔をした女子高生が必死に鞄を漁っている姿だった。
こんな時間にこんな場所で女子高生が何をとは思ったのは一瞬の事で、どこから見ても何かを探しているのがすぐに分かった。
こんな場所で探し物をするとなれば、すぐに想う浮かぶのは自転車の鍵かもしれないと思った。それは自身もやらかした事からくる経験則である為、その予測が合っているのかは分からない。
だけど、すぐにそうかもと予想したのは少し前にO駅のホームで自転車の鍵を拾ったからだ。
(っ、そういえばポケットに突っ込んだままだった)
俺は結局駅員に届けるつもりだった自転車の鍵を持ち帰ってしまっている事に、必死になっている女子高生を見て思い出した。
(……もしかして……いや、流石にそれはないだろう。拾ったのがこの駅ならともかくO駅のホームで拾ったんだし)
拾った鍵がもしかして今必死に探している女子高生の物かもと考えたが、いくらなんでもそれはないかとその仮説を放棄する。
(しかし、これはなんというか、出にくい状況になってしまっ)たぞ)
こんな時間に
とはいえ探し物が終わるまでここに隠れているわけにもいかず、どうしたものかと思案しようと無意識にポケットに手を入れたはずみで拾った鍵の鈴からチリンと音が鳴った。
鈴は何かに触れていると、本来の響きがなくただの小さな金属音しか鳴らさない物のはずなのに、何故かポケットに仕舞ってある鈴が小さいながらも音を響かせて鳴った事に俺はギョッとした。
(――しまっ)
「そこに誰かいんの?」
「っ!?」
僅かな鈴の音で女子高生に隠れている事に気付かれてしまい諦めの溜息が漏れたが、すでに怪しさ満点なのを承知の上でそれでもあくまで自然を装うように隠れていた柱の陰から姿を見せる。
「あー、えっと」
まったく自然さの欠片もない登場の仕方になってしまったけど、こればかりは俺が悪いとは思わない。
そんな不自然な登場に泣きそうだった女子高生の顔つきが変わって、警戒心しかない鋭い目が俺を睨んでくる。
「なに?」
「いや……別に」
何を言っても怪しさが増すだけだと訊かれた事に濁した返答を返して、俺はしゃがみ込んでいる女子高生の横を無言ですり抜けて自分の自転車の元へ向かう。
常識的な事を言わせてもらえば、まったく面識のない相手に対してあんな目で見られれば不快な気持ちしかわかないだろうが、ついさっきまで泣きそうな顔で必死に何かを探している姿を見ていた俺には、その行動はただ虚勢を張っているだけなのが分かってるだけに気にしないように努める。
だけど、どうしてもポケットの中にある極小の可能性が気になってしかたがなかったわけで……。
(……でもなぁ)
こんな遅い時間にこんな場所で気の強そうな女子高生に声なんてかけたら、質の悪いナンパだと勘違いされてしまうかもしれない。それどころか展開次第では通報案件に発展してしまう恐れだってある。
そんな事が頭をよぎって俺はだんまりを決め込む選択をした。
コンビニの袋を少し形が歪んだ籠に入れつつ自転車の鍵を開錠してスタンドを蹴り上げると、錆び付いたガシャンという金属音がフロアに響く。
そんな音も気にする事なく未だに鞄の中に手を突っ込んで探し物を継続している女子高生の横を自転車を押して通り過ぎて、1階に繋がっているスロープに足を進める。
だけど、「どうして……」という小さく震えた声を背中に受けた途端、俺の足が止まってしまった。
(絶対に違うのは分かってるけど、このまま知らん顔したまま何もしないのは後味が悪い、か)
探してる物が自転車の鍵だったとして、なんでそこまで必死になっているのかという疑問もあるけど、俺は自身の自己満足の為にポケットの中にある物を女子高生に見せる決意をした。
俺は自転車のスタンドを立てて未だにしゃがみ込んでいる女子高生の元へ戻って「あの」と声をかけたのだった。
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