11
白馬は手の不調からその年のコンクールを辞退した。白馬は誰にも本当の理由を明かさなかった。理由を問い正しても、「将来のこと、少し考え直したい。」としか答えない白馬に、英二は態度で不満をあらわにした。不満をあらわにしたからといって、コンクールの出場者、当人白馬が出ないと言うのだから、英二はどうしようもない。白馬はもちろんお小言を頂いたけれども、一応成人しているし、それ以上のことは何も言われなかった。しかしながら以前から白馬が予想していたように、ピアノの無い英二との関係は非常に冷めたもので、実母、恵子との仲にさえ水をさした。ピアノを弾くことしかしてこなかった白馬に、ピアノが無ければ家庭の中に市民権を得ることは非常に難しい。もっとも、遼太のまなざしは英二とはまるで違うものだったが。遼太は言葉や態度に示さなくても、コンクールを辞退した今の方が、ずっと白馬を応援していた。「将来のこと、少し考え直したい。」この言葉を、当然そのまま受け取った遼太は楽しみに思ったのだ。白馬がこれからどんな生き方をして、年をとって行こうとしているのかを。妹、白馬の手が、今まさに得たい知れない病魔に侵されているのを知らずに・・・
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家の中の空気はとてもまずい。白馬は夜の空気を吸いにベランダへ出た。気温は零度にほど近い。両手をすり合わせ、「はぁーっ、」と息をかけて暖をとろうとすると、息が白くけぶった。
白馬は空を仰いだ。冬の空は澄んで遠い。都会の景色でさえそうなのだから、きっと競馬場跡地から見える夜空は果ての無い銀河を思わせて少し恐ろしいくらいだろう。白馬はそう思い、すぐに黒馬のことを想った。コンクールを辞退した白馬に、別荘に行く権利は無い。来年のコンクールに出場出来るのか、白馬には分からない。手の不調を誰かに話す勇気は無いし、自分で認めることすら怖くて出来ない。手のことを誰にも打ち明けず、コンクールに出場しないのならば、一年か、それ以上は家で大人しくしていなければならないだろう。・・・英二のお許しが出るまで。
「白馬ー?何してるの。早く家に上がんなさい。風引くわよ。」背後から窓の開く音がして、恵子が白馬を呼んだ。窓から顔を出したとたん、冷気に顔をしかめた恵子を白馬は小さな声で笑った。
「さっむい。何してるのよ。」恵子から非難のまなざしを受けた白馬は苦笑し、最後にもう一度夜空を振り返ってから家の中に入った。
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「サーカスのオルガン弾きなら冬は南へ、夏は北へ行けばいい。きみは渡り鳥なんだから。」黒馬の声は白馬が創り出した幻だ。夜、ベッドの中で眠りに落ちていく道すがら、白馬は白昼夢に心を漂わせていた。
白昼夢の中で、白馬は追憶の夏に居て、黒馬とのじゃれ合いの末に、気がつくと二人で裸になっていた。早朝の朝、まどろみのベッドは柔らかく、閉め切った室内に冷房のひんやりとした空気が満ちていた。窓の外からわずかにセミの声が聞こえる。光りと影はカーテンと同じベージュ色をして、白馬を撫でる黒馬の手は熱くてしっとりとしていた。二人の声がこだまして、黒馬の腕の中で白馬は
夢の中。
青い着物を着た男は白馬に忍び寄り、低く唸るような声で、または、天空を渡る笛の音のような声で、何かを言った。陶器か象牙のような輝く白い肌をした、美しい顔の男だ。瞳は金色をしていて、切れ長の目を白いまつげがふちどっている。体は着物で厚く覆われていた。男は美麗だが、明らかな老練を物語っている。その、まなざしや、言葉の間のとり方、白馬のことを、扱いに長けた態度で促す仕草で。男は懐に手を入れると巻物を取り出した。男は無表情で巻物の飾り紐を弄び、ため息を吐く。ため息は銀色の煙になって間もなく立ち消えた。巻物にはずらり、と鍵盤が描かれている。それを見て白馬は男に何かを言いかけた。しかしどうすれば物を言えるのか、白馬はすっかり忘れてしまっていた。
男は白馬を見詰め、言葉を待っているらしい。
「もう、会えないの?」白馬がやっと口にすると、男は嬉しそうに微笑み、白馬の頬を撫でるとその手を白馬の下腹に滑らせて足の間に入れた。白馬の足の間の男の手は、いつかの誰かと同じように熱を持ち、しっとりと濡れていた。白馬は思わず目を閉じた。
場面の転調。
銀色の柵の中で、白馬と黒馬は交わっていた。その外で、幼い白馬は泣きじゃくり、父と恵子、英二と遼太を呼んでいた。誰も答えてくれない。白馬と黒馬はベッドに夢中だし、誰にも気付かれず、幼い白馬は一層大きな声を上げて泣きわめいていた。突然、黒馬と交わっていた白馬が虎に姿を変えた。身を翻し、柵の外へ飛び出すと幼い白馬をぺろり、と食べてしまった。黒馬は猿になって柵へ上がった。虎は猿を食べようと柵の周りを歩きめぐり、時々唸り声を上げる。猿は知恵を絞り、虎に喰われまいと画策する。そこへさっきの青い着物を着た美麗な男が来て、鞭をふるった。男は猛獣使いで、虎に鞭をふうると火の輪をくぐらせたり、狩りの真似事をさせたりした。
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白馬は目覚め、たったの今の夢を思い返し、思わず笑った。自分の心理状態を表したような安直な夢が、脳みその限界を代弁したような気がしたのだ。物事は単純に見えても、白馬の悩みは深かった。夢に心の真実を突きつけられても、白馬にはどうすることも出来ない。
目覚めた白馬は窓辺に寄り、そっとカーテンを開けた。冬の夜は長い。時刻は早い人であれば通勤時間帯だが、空はまだ星が名残を惜しんでいる。白馬は空と地上の境界をじっくりと眺めた。地平の果てでは今まさに夜明けを迎えようと、空が白み始めている。地平の果てとは、ここではビルディングのことだ。地平の果てから天空に向かって、美しいグラデーションが伸びている。白馬は美しい情景に鼓動が少し早くなるのを感じた。ときめきだ。
ふいに悪心は芽吹くとむくむくと育った。
白馬はこのまま家をこっそり出て、別荘に行こうと決めた。英二にとんでもなく怒られても、出て行けとまでは言われないだろう。金輪際、別荘に行けなくなってしまうかも知れないことは、今の白馬には考え及ばないことだった。衝動はいつも、白馬を行動へと駆り立てる。白馬は階下に音がしないように支度をすると家を出て、車に乗り込み間髪入れず発車した。アクセル音は家族を起こしただろうが、発車してしまえば誰も後を追えない。英二は白馬の逃亡癖を軽蔑している。・・・もしかして恵子も。
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別荘に着いた頃には正午近くになっていた。
「白馬!」車庫を閉めた瞬間、誰かが白馬を呼んだ。
黒馬だ。黒馬は駆け寄り、すぐに白馬に抱きかかった。そして白馬を抱きかかえたまま別荘のドアまで行くと、白馬に鍵を開けさせ、二人は中へ入った。
「ひさしぶり。」黒馬の声は相変わらずのんびりとしていて、とても静かだ。
「元気にしてた?」白馬に笑みがこぼれる。
黒馬は珍しくマフラーなど首に巻いていた。白馬は思わずそれを少し引っ張った。黒馬の顔が近くなる。二人は見つめ合い、沈黙する。白馬が寄り目をすると黒馬は大笑いして、白馬をまた抱き上げてぐるり、と一回転した。もみくちゃになりながら二人は再会をよろこび、疲れ果てるとリビングで眠り、起きて食事をする頃には夕方になっていた。黒馬はいまさら正月休みをとっているらしい。毎月お金を払っているのにどうして家に帰らないのか、白馬が訊ねると黒馬は黙り込み、ただ白馬をまじまじと眺めていた。冬なのに色黒でよく分からないけれど、どうやら黒馬は赤くなっているらしかった。黒馬はいつも、いつでも白馬を待っているらしい。
どうしていつも約束しないのか、白馬は考えようと思ったけれど、この関係に二人の流儀がある気がして考えるのを止めた。何かの拍子に、容易く壊れてしまいそうなこの逢瀬は、この形に留めておく方が良いのだ。でなければ本当に取り返しが付かないところまで壊れてしまうだろう。そう思った時、白馬はどうしようもない切なさと悲しみが自分の胸を打ったのを分かった。胸を打つ痛みが、どんな心の真実を白馬に訴えているか、白馬はさすがにもう気がついていた。怖くなって黒馬を寝室に誘うと、黒馬はいつものように白馬に従った。
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自分から誘ったくせに、白馬はいつまでもベッドの上でごろごろ寝転がったまま、
「くるくるぱー。」白馬は仰向けに寝転び、手を伸ばして側に座る黒馬の髪の毛を弄んだ。
「なに?白馬、どうしたの?大丈夫?」まるで腑抜けのような白馬の物言いに、黒馬は思わず笑った。
「!よくも自分だけまともなような言い草を!」白馬は飛び起き、黒馬に掴みかかると押し倒して組み敷いた。
「覚悟せい!」ふざけ極まった白馬はそう言うとワンピースを脱ぎ捨てカットソーの袖をまくり上げた。黒馬が白馬のレギンスとレッグウォーマー姿を「エアロビの人」と言って笑うので、白馬もつられて笑ってしまう。隙をつかれた白馬は逆に黒馬の下敷きになり、おなじみのくすぐり攻撃を受けた。「もう勘弁して!」はしゃぎ笑い、涙目になった白馬をなおも黒馬は優しく小突き回し、くすぐったがる白馬は身をよじって大笑いする。そうしたいつものじゃれ合いは一度始まると中々収集がつかない。
笑い疲れた白馬は上体を起こした。下敷きにされたまま起き上がったから、二人の顔はとても近くなる。白馬は微笑み、黒馬を見詰めた。黒馬は白馬にキスをすると、首元に顔をうずめた。白馬は黒馬の髪を撫で、至極まじめな声で言った。
「コンクール、辞退したの。」
白馬の突然の告白に、黒馬は驚いた。白馬の首元から顔を上げ、黒馬は白馬を見詰めた。
「・・・うん?」黒馬は努めてゆったりと構えている。
話の続きをせがむようなまなざしに耐えきれなくなった白馬は目をそらした。沈黙は長く、黒馬はようやく追いついてきた思考で白馬に何かを言おうとしたが、それを遮るように、白馬は口にした。
「黒馬、私はね、ピアノ弾いてないと息が出来ない。」言い終えた途端、白馬は突然泣き出し、黒馬と肢体を絡ませたまま膝を抱えてそこに顔を伏した。黒馬は絡んだ体を解くと白馬に身を寄せ、嫌がらないようだと分かるとそっと背中をさすった。
「・・・白馬、何か有ったの?」黒馬の声は低く、とても優しかった。白馬はしゃくりあげると首を横に振り、決して顔を上げない。黒馬は白馬の頭を抱き、頬を寄せた。
「冬はきらい・・・寒くて怖い。」白馬がやっとそう言うと黒馬は白馬を抱く腕に力を込めた。
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白馬が目覚めると黒馬はまだ寝ていた。冬の寝室は夏よりもずっと静かに感じる。白馬はうつろな気持ちを抱えたまま、しばらく黒馬の寝顔に見入ると起き上がり、ガウンを着てリビングへ向かった。
朝の庭は陽が落ちて、草花はそこかしこ枯れてはいるものの美しい。何羽か鳥が来て、また忙しく飛び立って行った。白馬が視線を落とすと、リビングテーブルに置いてあったスマートフォンが不在着信を知らせている。白馬を探しに、別荘へ来るのは恐らく恵子だろう。英二と遼太は仕事が忙しい。
昨日は夜中に何度も目が覚めてその度に泣いた。黒馬は疲れるだろうに根気よく付き合ってくれた。けれど白馬には、手のことを告白する勇気はない。コーヒーを一口すすり、腫れぼったいまぶたを指先で撫でてみる。白馬はため息をつき、しばらくの間目をつむった。恵子がここへ来るのは、恐らく今日の夕方だ。白馬はそれまでに黒馬を帰し、そのすぐ後に別荘を出てしまえばいい。そうすれば恵子に追いつかれない。黒馬に物置と化しているらしい賃貸アパートの鍵を借りようと思ったけれど、そこまで逃げ延びる気が今はなかったし、恐らく黒馬は反対するだろう。ならば実家へ向かえばいい。半日は独りでいられる。恵子には悪いが、黒馬と居ないなら、白馬は独りになりたかった。白馬は目を開き、立ち上がった。そして飲み残したコーヒーをシンクに流し、練習室へ向かった。
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練習室防音設備がなされており、とにかく静かだ。ピアノ椅子に腰掛けた白馬は自分を抱え込むように両の二の腕を掴み、何度も深呼吸した。それから鍵盤に手を置き、探り、時には感覚で、ひらめきを奏でた。即興演奏は白馬の得意科目だ。
白馬の脳裏を沢山の思い出が走っていく。小さな頃、父と過ごした休日の昼下がり、恵子の微笑みと、英二が居てくれて頼もしかったこと、遼太がふざけすぎて白馬を泣かせたことがあった。黒馬と出会って、白馬は自由を知った。そしてピアノのこと。
白馬は幸福だった。この世の中のどこに、これほど
黒馬と初めて出会った夏の日。日差しが強くて、陽炎が立ち、景色はゆらゆらと燃えていた。黒馬の髪の毛が額に当たる。あっという間に過ぎ去ってしまった夏を惜しんだ秋の夕暮れ。季節は巡る。また再会して、会う度に黒馬に孤独を教えられたような気がした。一人の時間は長く、とてもさみしい。けれどどんな時も、ピアノは側にいてくれた。
弦を断ったように、白馬の手は力を失った。
草原の天馬 花ケモノ @hanakemono
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