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白馬は黒馬の寮を訪れた。訪れるのは黒馬と出会った日以来、二度目だ。今はお盆休みで、寮には誰も居ない。皆家族に会いに帰ったり、旅行に出かけている。連休シーズン、いつも寮に寝泊まりするのは黒馬だけだ。冷房の効いた涼しい廊下を抜けて、黒馬の部屋に入った白馬が目にしたのは青い縁取りがなされた昔ながらの金魚鉢だった。
「え!黒馬、金魚さんなんか飼ってるの?」
聞いてないよ〜。白馬の言葉に黒馬は「うん。」と短く答えた。
金魚鉢に見入る白馬に黒馬は「何飲む?」と訊ね、「なんでもいいよ。」と答える白馬に冷蔵庫から缶ジュースを取り出し、手渡した。炭酸飲料を受け取りながら、白馬は「ありがとう。」と言った。
「ね、この
「はちまき。」
「はちまき〜?」白馬の疑問を受けて、黒馬は人差し指で白馬の額を横にスッ、となぞった。
「見てみ。」黒馬の言葉に、白馬は金魚鉢を覗き込んだ。
「あ、ほんとうだ。はちまきさん、こんにちは。」はちまきと呼ばれた金魚はおよそ額と思われる極小のスペースに紅い線を走らせていた。コメット種と呼ばれるはちまきはまだ幼いらしく、とても小さい。酸素を供給するポンプの水流に煽られまいと懸命に胸びれと尾ひれを動かしていた。尾ひれはいびつに裂けている。忙しく口をぱくぱくと開閉するはちまきと白馬はどうにかコミュニケーションを図ろうとした。そんな白馬の背中を黒馬は見詰めながら、炭酸飲料を一口飲み、「上司に渡されて・・・」と言った。その言葉に白馬は振り向き、黒馬を見詰めた。
「子供が金魚すくいでとったらしいんだけど、奥さんが魚は嫌いだから、どこかへやってくれって言ったらしい。本来ここは金魚なんか飼っちゃいけないんだけど・・・」
「黒馬ったら、えらい人に気に入られてるのね。」白馬の意地悪い微笑みに黒馬は赤面した。
「面倒押し付けられただけだろ。はちまきっていうのは俺が付けたんじゃない。」
「その子どもが付けたのね。へんな模様、あなた全部が中途半端ね。はちまきさん。あらあら、そこはポンプの真上よ。」白馬ははちまきに微笑みかける。黒馬は炭酸飲料を一口飲んで、息を吐きながらそれを見詰めていた。
「白馬、」
「ん?」
黒馬は炭酸飲料の缶を事務机に置くと白馬に近づいた。
「なぁに?」
白馬の顔を、黒馬はじっくりと凝視する。
「・・・どうしたの?」白馬は不安そうに訊ねる。
突然赤面した黒馬はそれでもたじろがず、白馬を見詰め続けた。黒馬は、人間の美について理解しようとしたのだ。黒馬と見つめ合っていると、白馬のいたずら心は突然芽を吹いてむくむくと育ち、即座に行動に走らせた。白馬は炭酸飲料の缶をはちまきの住まいの傍らに置くと噛みつくように黒馬の唇にキスをした。すぐにもみ合いになって、黒馬がベッドに白馬を放り投げるといつものじゃれ合いが始まった。誰も居なくても、ここは研究所の寮だから、二人は懸命に笑い声を抑えている。夢中になって遊ぶ最中、ひどい音を立てて軋むベッドの音にやっと気がついた白馬は黒馬に阻まれながら何度も人差し指を唇の前に立てた。可笑しさは絶え間なく白馬のお腹から突き上がってくる。笑い声を懸命に抑えながら、「黒馬!黒馬!ベッド、ベッドがやばい!」と言うと、黒馬は白馬にじゃれつくのを止め、二人はベッドから降りた。すると白馬が床に一本のネジが転がっているのを見つけ、黒馬に差し出してお腹を抱えて笑った。黒馬は白馬の手からネジをつまみ上げ、非常に驚くと白馬と同じように笑った。
「あ、ちょっと待って。」これから二人で別荘に向かおうと、ドアノブに手をかけた白馬を黒馬が止めた。
「なに?」
「白馬もはちまきになってる。」
白馬の額に黒馬の手にこびりついた黒いボールペンのインクが移っていた。黒馬は着ていたシャツの裾で白馬の額をゴシゴシとこすった。
*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*
夏でも別荘は快適だ。白馬はソファに、黒馬はそのすぐ側の床の上に座って、アイスを食べながら庭を眺めている。
黒馬はふいに、窓ガラスに映る室内の景色の中に自分を見つけた。白馬の側に座り、アイスを片手に持つ自分の姿を、黒馬はまじまじと眺めた。
なんと久しぶりの自分との対面だろうか。黒馬はそれまで、今、自分が、どんな姿をしているかまるで気にも留めていなかったのだ。そして永らく自分の姿を見ていなかったことすら忘れていた。
自分を見失う。
この言葉はたやすく使われるが、実に深刻な心理状態を言い現している場合がある。
黒馬は永らく複雑な心理的迷路に自分を追い込んできた。身も凍るような記憶と対峙しないために。
アイスを食べる手を止めて、呆然と窓ガラスを眺める黒馬を、白馬はそれとなく見詰め、「黒馬、アイス、溶けてるよ。」と声をかけた。慌てて舌を出す黒馬のことを、白馬は少し心配そうな面持ちで見ていた。なんとなく、黒馬の頭をなでてみる。黒馬はじゃれつくこともせず、大人しくアイスを食べていた。「髪切ったら?」白馬の言葉に、黒馬は振り向き、食べ終わったアイスの棒片手に白馬を眺めていた。白馬はさっきからアイスの棒を持て余していたので、まとめて捨てようと黒馬のアイスの棒に手を伸ばした。すると黒馬がすかさずソファに乗り出してきて、白馬の上に馬乗りになった。もう、白馬のはしゃいだ笑い声は止まらない。会えば日に何度もこうしてべったりとじゃれ合うのに、何度そうしても白馬は楽しくて仕方ないのだ。きっとくすぐってくるに違いない、そう思った白馬は力を込めて脇を固く締めた。けれども、黒馬の行動は白馬にとって、あまりに予想を裏切るものだった。
「コンクール見に行っていい?」黒馬は真剣な顔をして、白馬にそう聞いた。
「だめ。ごめんね。」白馬は即答する。
「・・・どうしても?」黒馬はほんの少し、悲しげに眉を歪めた。
「どうしても。」
「理由を聞いてもいい?」黒馬は体を引き、白馬のお腹の辺りに白馬の体を足で挟む格好で膝立ちになった。白馬は体をすべらせてソファの肘掛けに肩をあずけると上体を起こし、真面目な顔をして言った。
「黒馬が居ると思うと、本番中に笑ってしまうから。」
見つめ合う二人。沈黙が訪れる。
やっぱり黒馬は白馬に襲いかかった。髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜると耳に噛みつき、首筋に顔をうずめて脇腹をくすぐった。黒馬の鼻息はわざとらしく荒い。白馬の叫ぶようなはしゃいだ笑い声が一室に響き渡る。白馬は両手を拳にして黒馬との体の間に割り入れると、力を込めて黒馬を引き離した。見つめ合い、沈黙が訪れる。白馬を見つめる黒馬がにわかに赤面する。絡み合った足がもどかしい。白馬は突然まともそうな顔をすると黒馬を押しのけ、ソファに座り直した。
「ピアノ、聞きたい?」黒馬を見つめるまなざしはどこか冷たい。
「うん。」黒馬は何も気がついていなかった。
「なら、今聞かせてあげる。練習室、行こ?」
「うん。」
白馬は黒馬の手を取り、二人は練習室に向かうために立ち上がった。
*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*
白馬は黒馬の手を引いた。狭けれど開放的な短い廊下を一列になって歩く。黒馬はこの白州家の別荘には足繁く通っているし、ピアノの練習室はいつも白馬と寝ている寝室の隣なのでドアは見慣れている。しかしながら防音設備が完備された
廊下を歩きながら、黒馬はなんとなく白馬と繋いだ手を左右にぶらん、ぶらん、と揺らした。次第に激しくなっていく揺れに白馬は思わず立ち止まって振り返ると、黒馬が一歩二歩と歩み寄ってくる。白馬はどんどんドアの方に押しやられ、慌てて練習室に逃げ込もうとドアノブを回そうとした。しかし背中にぴったりと寄りかかってくる黒馬のせいで上手くドアノブが回せない。小さな叫び声を上げながらドアに押し付けられる白馬。なんとかしゃがみ込み、黒馬の足の間から脱出すると、また黒馬がふざけて白馬ににじり寄って来る。白馬は思わず後ずさった。だが急に歩みを止め、白馬は口元に不敵な笑みを浮かべた。何事かと思って黒馬が立ち止まると白馬は黒馬の手を取って思い切り自分に引き寄せ、そのままぐるり、と一回転した後、練習室のドアに黒馬を押し付けて体重をかけ、動きを封じた。
「いってぇ・・・」はずみで頭を打った黒馬に、「ごめんね。二度としない。」と芝居じみた声で言いながら白馬は逃げ出そうとする黒馬の体にもっと体を押し付けて体重をかけた。
「ねぇ、私のピアノに興味ないの?」白馬は黒馬をじっと見詰めた。
白馬は黒馬から離れ、後ずさるとワンピースを脱ぎ、下着を外した。
白馬は黒馬のシャツのボタンを上からいくつか外した。すぐに黒馬が白馬の裸の脇腹をくすぐり始める。こうなると白馬も何かお返しをしなければならないから、シャツのボタンを外すのを止めて、黒馬の髪をぐしゃぐしゃと執拗にかき混ぜてやった。二人はいよいよ笑いだし、黒馬はシャツの裾を勢いよく広げると白馬を中に入れた。白馬は「最低。汗臭い!」と言いながら襟元から顔を出し、シャツの中で黒馬の胸に手をついた。黒馬は白馬の裸の脇腹をなおもくすぐり、耳を噛んだ。黒馬は白馬のお返しを期待していたが、期待に反して、白馬は急に大人しくなると黒馬に体をぴったりと沿わせて赤くなった。「・・・。」黒馬も大人しくなった。
黒馬はシャツのボタンを全て外すと白馬を解放してやり、背中を向けた。白馬はこれに従って黒馬の背に乗り、おんぶされると両方の乳房をぴったりと黒馬の背中につけた。そして黒馬の首を抱きすくめて耳を噛んだ。黒馬の耳が赤くなる。黒馬はずり落ちそうになった白馬を腕に力を込めて引き上げると寝室のドアノブをひねり、後ろ手にドアを閉めた。
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