白馬が別荘に滞在してから今日で丁度ひと月になる。昨夜別荘を訪れた黒馬は白馬と一つのベッドで一夜を共にした。休日の今日はいつものように二人で過ごした。連日の疲れから一人中途半端な時間に昼寝をした黒馬はリビングルームのソファの上で目覚めた。

「白馬?」

静けさに満ちた室内は黒馬の声をわずかに反響させた。再び静まり返った室内に電気はついていない。

「・・・。」

とりあえず白馬を探そうと、黒馬は家の中を彷徨った。

 室内のどこを探しても白馬は見つからなかった。黒馬は白馬を探しに外へ出ようと玄関へ向かった。玄関の靴箱の上に、車のキーと白馬のスマートフォンが捨て置かれていた。スマートフォンは不在着信を知らせようと緑色のランプを明滅させている。黒馬の心臓がにわかに鼓動を早める。靴を履き、ドアを開くと黒馬は顔をしかめた。ひどい土砂降り。凍えるような冷気は黒馬の体の熱を一瞬にして奪う。さすがに肩を強張らせ、黒馬はぶるり、と一度身震いすると玄関の傘立てに置いてあった傘を一本拝借し、山の緩やかな坂を登り始めた。白馬はきっと、競馬場跡地に居る。


*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*


 競馬場跡地の、いつも夕日を眺める丘の上に白馬は居た。白馬は足を組み、太陽礼賛よろしく遥か向こうを眺めていた。ここは小高い丘でも、山の上だからそれなりに標高は高い。眼下の街は雨にけぶり、ほとんど何も見えなかった。悪天候の中、昼間の熱さえ失われた日没間近の寒さは凍てつくようだ。白馬は寒さを無視して薄着のまま、雨に打たれ、肩を小刻みに震わせていた。両手は二の腕を握り込んでいて、さながら自分を抱きかかえるような格好をとっている。

 ほんのわずかのいとまそうした白馬の背中を見詰め、黒馬は白馬に歩み寄った。黒馬が息を吐くと真っ白にけむった。黒馬はそれに少しおののくと言葉もなく白馬の隣に並んだ。あまりにも不自然で突拍子のない白馬の行動と、異様な様子に黒馬は白馬の内面に苦悩があることを感じとった。黒馬は、ならば白馬の苦悩を否定も肯定もせず、ただ受け止めよう。例え突拍子もなく異様な様子であったとしても、白馬の行動を尊重しようと決めた。だから、黒馬は傘を差していたものの、白馬をその下に入れてやろうとはしなかった。白馬の騎士道精神に反する、そう考えたのだ。しかしながら黒馬の親切は実のところ、白馬にとっては悲しい現実だった。白馬は夢を見ていた。いつか悲痛な現実が訪れて、自分の内界を憎しみという名のけだものが牙を剥いて蝕み始めた時、そんなときこそ決して揺るぎ無い誰かの存在を肌で感じている。そういう夢を。その人は今の白馬にとって黒馬で、今、白馬はどうしてもこの丘の上から身投げして死んでしまいたかった。だから本音を言うと、たったの今、ここで、白馬は黒馬に自分の頭上に傘を差し出してこの氷のような大粒の雨から救い出してほしかったのだ。けれど正反対に、離れがたくなるような愛情はいらないと言うのも、白馬の本音だった。多分、白馬は、黒馬と出会う以前からずっと、それは今でも、熱ひとつ持たない空気のような誰かを愛していて、返答は欲しくないのだ。実際、白馬は少しだけ考えた事がある。黒馬と真正面から向き合い、人間関係をやるとして、出来ることは殺し合いだけだろうと。白馬は、黒馬と向い合う時、本気の真剣勝負しか出来ないだろう。自分の人生において、大切な何かを失わなければ、黒馬とは一緒に居られない。だから白馬は空気のような誰かしか愛せないのだ。

「今の私、何に見える?」

白馬は髪を後ろへかきあげた。滴る雫がぼたぼたと落ち、白馬は寒さで黒ずんだ薄い唇から真っ白い煙のような息を吐いた。全身が震えていて、黒馬はなんとなく、白馬はこのまま、死んでしまうのではないかと考えた。

「昔・・・」

「うん。」

「昔・・・・・・」

黒馬は再び黙し、白馬はただそれをながめていた。黒馬はしゃがみ、風で飛んできた雨粒の付いた眼鏡を外し、白馬をよくよく見てやろうと、何度かまばたきをした。

「論文書いてたの?」白馬は明らかに苛立っている。

「うん。」論文なんか書いてない。白馬が居ないから、すぐにここへ探しに来たんだ。黒馬は言葉を飲み下した。

見つめ合う二人。

「寒い?」黒馬の声は神妙だ。

「うん。とてもね。多分、あなたも寒いと思うけど。Tシャツ、前後間違えてるし。」ささるような声音。

「うん。」黒馬はただ返事を返した。何か理由が有るんだろうけれど、白馬の突然で不明な苛立ちに、少し悲しくなった黒馬は、空を見上げた。もうすぐ夜が来る。雨雲は流れず、星一つ見えない。

「昔・・・」黒馬はぽつり、と口にした。

「うん。」白馬はまだ苛立っている。

「自殺者を見た。」黒馬の声は細り、掠れていた。

「・・・悲しかった?」白馬の声が優しくなる。

「・・・分からない。」黒馬は声もなく泣いた。

黒馬は腕で涙を拭い、白馬は相変わらずボールペンのインクで真っ黒な黒馬の手と手首の側面を目で追った。黒馬が目元を拭い終えると手についた黒いインクが黒馬の顔を汚した。

 黒馬には白馬がどんな存在なのかよく分からなくなった。この世界に在って、白馬はまるで生気を失くしている。降りてくる夜の帳に今にも消え入りそうに。

 目前のこれは生き物だろうか?それとも、黒馬にとって一番奇っ怪な生き物、菌類、つまりキノコ的な存在だろうか?生きているのに生気を感じさせず、意思はないだろうにまるで夜の内に移動しているかのようにあらぬところへひょっこりと突然出現する。生き物ののような生気は無いのに、獰猛な存在感を感じさせる。これはなにで生き永らえ、どうして地へ根ざそうとするのか。まったく不思議かつ奇妙な、多分、生き物だ。今の白馬はそれに似ている。黒馬は白馬の不思議に迫ろうとじっくりとそのまなざしを眺め尽くそうとした。白馬はこれを受け止め、黒馬を見詰め返す。白馬はどんどん冷えてくる空気にいよいよがたがた震え、じっとしていることが出来なくなってきた。雨は降り止まない。

 ふいに黒馬が白馬の頬に触れ、優しい顔をした。白馬は驚いた様子も見せず、ただ黒馬の行動に従って、小首をかしげ、黒馬の手のひらに頬を擦り寄せていた。夕刻も過ぎて、街灯もなく、街の灯りも土砂降りで霞のようだ。黒馬のむき出しの腕は傘の下から飛び出して、余すことなく雨粒、と言うよりか流水を受け止めている。ここに街灯が一つでもあれば白馬の額と共につやり、と光りを放ったろう。土砂降りの雨粒は氷のように冷たかった。白馬は黒馬を見詰め、黒馬も白馬を見詰めていた。白馬は何度も黒馬の手のひらに頬を擦り寄せると「はぁーっ、」と一度大きく息を吐き、しかしその白さも暗くてなにも見えなかった。つまり二人は、おおよそ互いの目があるだろう場所に向かって視線を投げかけ続けているに過ぎない。

 黒馬の手のひらに伝わっていた白馬の感触が、にわかに止まった。雨で滑るから、細やかには分からない。突然、ドシャッ、という音がして黒馬の手のひらは白馬の頬では無く雨粒を受け止めていた。白馬が倒れたのだ。黒馬は突然のことで、静止したまま時を止めてしまった。ようやく思考が届こうかという瞬間、強烈な白い光りがサッ、と走り、少し揺れた。眩しさに黒馬が思わず顔をしかめ、灯りの方を見ると誰かが懐中電灯片手にこちらへ走って来るのが見えた。

「おーい!あんた、こんな時間になぁにしてんだぁ?お?研究所の兄ちゃんじゃねぇか・・・・・おい!」

見回りの男性は白馬の身元を良く知る人だった。


*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*


 研究所の守衛さんの連絡により救急車で病院に搬送された白馬は、インフルエンザを発症していた。


*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*


 白馬の高熱の幻に、黒馬は一度も出てこなかった。モノクロ映画の銀幕のスターたちは列を成し、白馬を見舞った。一輪の真っ赤なバラを持って白馬の眠るベッドの脇のカーテンを何度も揺らす。モノクロームなのに、バラだけが赤い。スターが一人、また一人と顔をのぞかせる様は赤提灯ののれんをくぐるシラフのお調子者に似ていたが、やはりそれぞれのキャラクターの特徴をいかんなく発揮していた。病院のカーテンは分厚いベルベットの舞台の幕に変わり、時々サーカスの犬が口にやっぱり真っ赤なバラをくわえて二本足で入ってきた。サーカスの開幕に、白馬はオルガンに向かおうと両手を天井に伸ばして上体を起こそうとした。その様子を偶然目の当たりにした遼太は白馬の回復後、笑って言った。

「お見舞い、先客が居たんだと思った。」

「え、誰のこと?」

「ベラ・ルゴシ。」

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