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別荘に用があって、白馬は遼太と車に乗っていた。遼太は山道の脇の草原を横目でちら、と見た。季節柄、盛りには劣るものの、草原は健在だ。今しがた上がったばかりの雨は草原の草に雫を残している。薄暗い空の雲間から射す陽光を受けて、草原は美しい輝きを湛えていた。
遼太はそこへなんとなく、少年時代に学校の宿題で描いた絵を重ねて思い出した。あれは父、英二が初めて恵子と白馬を家へ連れて来た頃で、遼太は中学校に入ったばかりだった。恵子との結婚を聞かされて、遼太の産みの母親の面影は、英二の中で遠ざかったのだと思った。しかし大人になって久しい昨今、本当にそうだろうか?と疑問を抱く。遼太が生母を思い出さない日は一日たりとも無い。ならば英二も同じはずだ。生前の愛情とか、死の直後に抱いた感情を、今は抱かなくとも、英二も遼太と同じように何度も亡き妻を思い出しているはずだ。それはふとした拍子、例えば皆で囲む食卓のにおいだとか、恵子や白馬の笑い声の余韻の中に、面影が胸にかすめるように、思い出しているはずだ。
遼太はしんみりとした感慨にふけり、少し気持ちを持て余した。仕方なくルームミラー越しに後部座席の白馬の顔を見る。白馬は背もたれに頭をずっしりとあずけ、まなざしを動かすことなく過ぎていく山の景色を見ていた。
白馬のまなざしはあの頃と変わらず、感性の繊細さ、精神的な頼りなさを宿している。遼太はまた一段と心細くなり、さっきより少し長く車窓の景色を眺めた。
草原の天馬。中学生の時描いたあの絵は、確かに自分の心の内界を表したものだ。けれどどこかに、これから自分の妹になろうとする白馬の姿が混ざったように記憶している。当時、白馬は育ての父と別れて、数年間師事しているピアノ講師を新しい父としたばかりだった。人生における大きな別れを経験させられた白馬に、英二は間髪入れることなくCDの録音をさせていた。あの頃の白馬は明るく、優しい少女として親の懐にただ収まっていた。けれど遼太には、白馬が、頭では理解できていても、心では現状を受け入れかねているように見えた。それはもしかして遼太が自分の心を白馬に映して見た幻影かも知れない。けれど遼太にはどうしても、さみしさに震え、けれど孤高に孤独を生き抜こうとする、この世で最も清らかな生き物、天馬の性分を、白馬が持っているように思えてならなかった。もちろん、中学生の遼太にそんなことが分かるわけは無い。けれども今、あの絵を思い返してみるに、中学生の自分はどこかで、白馬のことをそう理解していたのだと、遼太はそんなふうに思う。そして恐らく、白馬は今でも変わらずその性分を持ち続けている。しかも、孤独に耐えうる力だけを強くしながら。それがどういうことで、白馬にとって良いことなのか、悪いことなのか、遼太にはイマイチ分からなかった。
ただ時折不安を煽られる。天馬は、地上で生きられるのだろうか?と。
遼太は空を眺めた。空にはまだ厚い雲がかかっている。陽光は雲間から射し、光りは地上に近づくにつれて輪郭を失っている。空の上では、蜘蛛の巣にかかる雨粒のように、薄灰色の雲の綿毛が水滴を捉え、遥かな天上に在る陽光がそのひと粒を照らしている。水滴はクリスタルガラスのようにプリズムを弾けさせる。遼太の想像する天馬の住む世界は、地上のどこよりも美しい。けれどそこには誰も居らず、何も無い。
淡い幻影の景色は遼太の胸いっぱいに広がって立ち消え、わずかな痛みを名残として残した。大学講師にして学者の端くれというにも関わらず、なんというセンチメンタリズムであろうか。遼太はむせぶような気持ちを抱え、それをごまかすために呼気のような笑いをもらした。実に皮肉たらしい笑い方に思えなくもない。
「・・・どうしたの?」白馬の問に、遼太は少し考え事をしてから話し始めた。
「黒馬はキケン人物では無い。・・・俺が知る限りでは。ただ、」まさかたった今白馬のことを悲しい存在のように思った、などとは言えなかった。
「ただ?」突然神妙なことを言い出す遼太を、白馬はルームミラー越しに思わず見詰めた。
「物事に寛容なんだと思う。」
「寛容?」白馬は首を傾げる。
「・・・たぶん?」遼太も首を傾げた。
沈黙が二人の間に訪れて、その間に白馬は何も無い目前を見詰め、一つため息をついた。それから遼太に視線を戻し、言った。
「・・・ただ呆然と目の前で起きてることを眺めているだけなんじゃないの。」
「・・・そう思う?」
「そう思う。」
遼太は盛大にため息をついた。問いただすように白馬が見詰めると遼太はちら、とルームミラー越しに白馬を見やり、口元に微笑みを浮かべた。遼太はそれきり、白馬に黒馬の話をしなかった。
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