5
黒馬はまだ眠たい目をこすった。春眠暁を覚えずとはよく言ったものだ。いや、まったくその通りと言うには読み損なうが、冬の最も厳しい寒さから開放された肉体は、初春の暖かさを隅々まで歓迎し、一寸気を緩めただけですぐにまどろみに委ねてしまう。
早朝の図書館は開館したばかりで、まだあまり人が居ない。図書館で資料を探すと言ったら上司に不思議そうな顔をされた。今どき、珍しいのだろうか?
探し疲れた黒馬は図書館内に有る、外を一望できる現代アートなベンチに座って大窓から外を見るともなく見ていた。新春のうららかな日差しが、花壇とその周辺の石畳に木漏れ日を踊らせている。空は雲を浮かべ、今にも手が届きそうだ。
重たくなってきたまぶたをそっと閉じると、まどろみの中で、黒馬は白馬との日々を白昼夢に見ていた。回想は長い時を越えて、初めて出会った時にまで遡る。白馬はあの日、泣いていた。白馬と過ごすようになって、しばらく経った時、黒馬は白馬にあの日の涙のわけを訊ねた。白馬は何も言わず、ただ遠くを見て、短く笑った。
「わからない。」と。けれどしばらくして、いつも自分の内面に悲しみを抱えていること、それについて考えようとすると逃げ出したくなることを教えてくれた。
「どうにかしようと思うけど、直面したくないの。」白馬は悲しげに顔をうつむけるとまた何も無い空間を見詰めていた。
「
「俺と寝て忘れた?」黒馬の声はいたって真面目だった。
「そうね。」白馬は微笑んでいた。そして同じ日、夜明け間近のベッドの中で、白馬は自分の悲しみについて一つのヒントがあることを黒馬に話した。ピアノについて。そして、それにまつわる自分の愛と、これまでの人生について。
黒馬はあの日、白馬が言っていたことを思い出し、目を見開くと立ち上がった。そしてまっすぐにCDコーナーに行くとクラシックの棚を探した。
この図書館において、贅沢なのは建物だけじゃない。システムから蔵書にいたるまで全ては至れり尽くせりだ。この図書館に無ければ近隣のどの図書館に行っても目当ての物は無いだろう。やっぱり、一枚のCDは存在した。黒馬はそれを手に取った。タイトルは「Kids Piano Hakuba Shirasu」。白馬は子供の頃、何枚かピアノのCDを出していたらしい。これはその内の一枚だろう。ジャケットは子供が描いたらしきピアノと、花と、白い馬のイラストで、左下に不器用な字で「Hakuba」とサインが書かれていた。つまりイラストは白馬の直筆ということになる。色とりどりのサインペンが鮮やかに、いかにも子供らしく踊っていた。ケースを開いてみるとライナーに小学4年生ほどの少女、白馬だ。白馬が一人の男性に笑いかけている写真が印刷されていた。黒馬は写真の少女の横顔をじっくりと眺めてからライナーを取り出しページを一枚づつめくった。白馬の写真はもう一枚あった。まだ子供だった白馬は真剣な面持ちでピアノに向かっていた。真正面からの構図で、隣にはやはりさっきも一緒に写っていた男性が居た。CDの内容は白馬のピアノ演奏が二曲ほどと、あとは子供向けのレッスン用の音源が入っているらしい。ライナーに書かれた子どものピアノ演奏についての解説はどうやら写真の男性により書かれたもので、解説の最後に白州英二と名前があった。白馬の父だ。けれど彼は白馬とは血が繋がらない。黒馬はそこまで考えるとライナーをCDケースに戻し、CDを棚に戻した。それからコーヒーを飲むために図書館に併設されているチェーンの喫茶店に向かった。
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