冬の洋館は凍えるようだ。白馬の家は古い洋館で、父方の先祖代々の遺産である。父の仕事はピアノ講師。フリーランスで、収入は中々。とはいえ先祖代々の遺産を肥やす方が大きな収入になる。つまり白馬はお金持ちのお嬢さまである。けれど産まれたときにはそうではなかった。白馬はいたって普遍的な会社員の家庭に産まれた。白馬が小学二年生のとき両親は離婚して、白馬は母親恵子に連れられて白州家の長女になったのだ。父、英二の連れ子、遼太は当時中学一年生だった。遼太は、難しい年齢にさしかかる手前で、まだ素直で純情だった。遼太は素直な純情さをいかんなく発揮し、白馬を白州家に懐かせてくれた。まだ幼い白馬が遼太には可愛かったのだ。白州父息子は野中家(これは恵子の旧姓だが)とはそもそもの事情が異なっていたから、遼太が素直な純情さを発揮するのは白馬がそれをするより難しいことではなかったのかも知れない。白州家は遼太の母親の存在を病気によって失い、おおよそ十年は経っていた。一方野中家は白馬のピアノレッスンにより白州瑛二と出会い、英二と恵子の不倫的感情により離婚して白州家の一員になった。当時の白馬が何を、どこまで理解出来ていたかは定かではないが、小児には到底想像できかねる事情による突然の環境の変化にストレスを抱えないわけはなかった。白馬は、白州家の長女になってから様々の問題を起こした。そういう白馬を、英二は自分なりに大切に扱った。それは成人した今でも変わらない。白馬はこの家族を大切に思っているし、遼太に対しては非常な友情を抱いている。

「はい。ココア。」

机に置かれた大きなマグカップに目配せするとそれを運んできてくれた恵子に白馬は微笑みかけた。

「ありがとう。」

白馬は今、次回のコンクールについて英二と話をしているところだ。譜面を開き、一つづつ要点を話し合っている。

 夏に別荘に滞在して、すぐ後にコンクールがあった。結果は白馬がだいたい予想していた通りで、前回と同じくかんばしくない。英二はこの結果を受けていつもながらの反応を示した。英二は白馬のやる気を疑ったり、実力を発揮出来なかったことを咎めたりはしない。ただ、探るような目つきで白馬の顔をじろじろと眺め、「それで次回は?」とだけ訊ねる。

 実はもう数年も前から白馬にはコンクールに対して勝ちたい気持ちはおろか、参加をそそられる気持ちが無かった。

 次回。その言葉に内心ナイフを突き立てられたような痛みを感じた白馬はいつものように微笑みでそれをとりつくろい、英二の気が済むような答えを返した。

「白馬、いい加減誰かコーチをつけないとお前勝てないぞ。」

「加藤先生は?」瑛二の言葉に返事をしたのは恵子だった。

「加藤さん?」

「いやだ、もう。白馬ったら忘れたの?」

この時分に至っては、誰も英二に白馬の講師役をすすめない。そんなこと何度も話し合ったことだし、白馬のノー。を英二も無理に打破しようとはしなかった。

「お父さん、私はね、誰かに楽しんでもらいたいの。コンクールは好きよ。昔はね。けれど今はそうではないの。疲れたの。力試しをしたり、勝つために努力することに疲れたんじゃない。コンクールのためのこのやり取りに、私は疲れたの。お父さんのように、私は自分のピアノの実力を誰かに知らしめてやりたいとは思わない。」

白馬は言いたい言葉をココアと一緒に飲み込んだ。

「白馬、向上しなくて何が芸術だ?白馬には自分のピアノがあって、まだ若いんだからどんどん上昇していかないと。もったいないぞ。」

「そうよ、白馬には相談できる人もいるし、環境は万全なんだから。」

「私は世の中に自分の実力を示すために向上したいとは思わないの。」白馬はまた一つ、言葉を飲み込んだ。言えない言葉は重みを増して白馬の胸の内に溜まっていく。重みは動き出さないように白馬の舌を喉の奥にひっぱる。白馬は舌の根に重たさとわずかな痛みを覚え、一度喉を上下させると微笑みで場を取り繕い、ココアを一口飲んだ。

〝私に優勝する才能が無いことを、お父さんはよく分かっている。これは永遠に続く負け戦のための戦いで、お父さんのための出場なんだ。〟

「お父さんの歪んだジェラシーを私で解消しないで!」

白馬は叫びたかった。言えなかった言葉は胸の内で何度もバウンドすると底へ積り、今まで飲み込んだ沢山の言葉と一緒になった。それは淀み溜まり、発酵して時々ブクブクとガスを発生する。ガスは抜けずに白馬の喉元までせり上がると呼吸を苦しくさせる。そして白馬を衝動に走らせる。そう、例えば夏に黒馬にそうしたように・・・

「自由になりたいの。おもむくまま、私のピアノを弾かせて。」

白馬は自分の気持ちと言葉を殺すように奥歯を噛み締める。例え負け戦でも英二の思惑がなければ白馬はコンクールに自分のピアノを捧げるつもりだ。けれどそれが叶わないから、コンクールに身が入らない。中途半端になるくせに、白馬はコンクールを辞退しない。白馬は英二とのコミュニケーションを求めている。英二と交わせる唯一のコミュニケーション手段が、コンクールなのだ。

 このやり取りではいつも通りになった、白馬の無言を、少し離れた所に座り、科学雑誌を呼んでいた遼太が眺めていた。遼太は助け舟を出してやろうかと思い、まず始めに誰に、何を言おうかと考えていた。

 突然、遼太のスマートフォンが鳴動した。高らかで明るい着信音に家族みんなが一斉に遼太を振り向いた。遼太は皆に苦笑してから電話に出た。

「黒馬?うん。悪い、悪い。そうだよな。いや、ちょっと用があって・・・うん。そう。あ、ちょっと待って・・・今・・・」

退室する遼太の背中を、白馬は目で追った。黒馬。その名を聞いたのは久しぶりで、夏以来だ。二人の会話の内容を気にしながら白馬は再びけしかけてくる両親の話に耳を傾けた。


 不思議なことに、これほど価値観の相違があるというのに白馬は家を出ようと思ったことが一度も無い。白馬の心は家に囚われている。家族のことを、分かりあえなくても愛していないわけではない。愛情は白馬に期待を抱かせる。次の年まで辛抱していれば、もしかして家族は白馬の心を振り向くかもしれない。真実の声に気がつくかもしれない。もしそうなったら、白馬にとってきっと好ましい関係が築ける。期待は、幸福な日常を白馬に夢想させる。白馬の心は現実には無い未来の家庭像を見詰めたまま、息苦しい家に囚われ続けている。そして同様に、白馬の両手もピアノに囚われてしまった。ただ英二と心を通わせたいがために、コンクールに出場し続けることによって。


*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・


 練習室に入り、白馬は譜面を広げた。次回のコンクールにと選んだのはとても好きな曲だ。呼吸を整え、鍵盤に両手を触れる。

 その時、白馬は覚えの無い感覚を指先に感じ、目を見開いた。とても、重たい。指先はまるで鉛をまとっているかのように重たく、関節には奇妙な脱力感があった。何かの病気だろうか?こんなことはこれまでただの一度も無い。白馬は思わず両手を引っ込めると労るようにこすり合わせた。そして自分自身をそっと包み込むように二の腕を触れて抱き、座ったままうずくまるとコンクールのための曲を口ずさんだ。子守唄のように。


*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・


 「今日、黒馬から電話があったんだけど。」

気になっていた黒馬の話を切り出したのは遼太だった。今は夜で、両親は二人で街の映画館へ行っている。結婚して十年以上、英二と恵子の仲は未だに良好だ。白馬は遼太と二人で夕飯を作り、食べた。なんだかんだで二人共忙しかった日中、食後のお茶の時間になってやっと落ち着いたところだ。

「黒馬、」白馬はただその名を復唱した。

「うん。覚えてる?夏に競馬場で紹介した・・・」

「色黒のでくのぼうさんね。」白馬は遼太に微笑みかける。

「ははは。そう。黒馬はああ見えてすごい優秀なんだよ。相変わらず表舞台からは遠いけど。多分、国内でだったら指折りなんじゃないかな。」遼太の言葉に、白馬は不思議な感情を抱いた。むしゃくしゃするような、さみしい気持ちはわずかに白馬を混乱させる。

「へぇ・・・」

「いや、大学でさ、俺今にわか先生やってるんだけど。」

「え?お兄さん、事務じゃなかったの?」

「うん。そうだよ。上の人にやってみろって言われて先月から。」

「お兄さん、生徒さんに頼られてたもんね。すごい。おめでとう。」

「いやー・・・どうかな。」

「向いてない?」白馬の言葉に、遼太は苦笑すると話を戻した。昔から、遼太は白馬に人生相談はしない。

「・・・それで、黒馬の話なんだけど、実は教授の数式が怪しいと思ってて。」

「兄さんが?」

「そう。それで、黒馬に聞いたんだよ。」

「・・・分かるの?」

「うん。黒馬はすごく変わってて、研究にしろ何にしろとにかく全部自分一人でやるんだよ。」

「研究って一人でやるんじゃないの?」

「そうだよ。まぁ、そうとは限らないけど。うーん・・・白馬ピアノ弾く時、譜面見るだろ?黒馬はその譜面を洗い直して、自分の音符に書き直してから推論していくんだよ。間違いをさらう、とかそういうんじゃないんだけど・・・必要な資料も全部自分で用意する。」

「ふぅん。じゃ、あの人、自分の音符を持ってるのね。それって意味あるの?」白馬の問に、遼太は少し遠い目をした。

「・・・時には?けどそうしないと駄目なんだろう、多分。その方がひらめきが多いのかも知れない。そう。だから問題の数式についても黒馬だけの答えというか、別のアプローチから、」

「洗い直してあると思ったのね。」

「そう。そしたらやっぱりそうで、多分教授の数式は間違ってる。」

「お兄さん、それを教授に伝えるの?」

「・・・まぁね。」遼太は一度白馬から視線を外し、コーヒーを飲んだ。

「昔さ、俺が打診して黒馬に大学で講義頼んだことがあって。まぁ、その日だけの特別講習会、というか、演説会みたいなものかな。おもしろい推論持ってたから、学生の刺激になれば、と思ったんだけど。」

「うん。それで?」

「生徒の一人がすげー喧嘩腰になっちゃって・・・けどほら、黒馬ってでくのぼう、ぼーっとしてるだろ?だからマイペースに受け答えするだけなんだよ。その正確なことときたら素晴らしくて、むかつくことこの上ないんだけど。」遼太は楽しそうに笑った。

「刺激が強すぎたのね。」

「そうそう。」遼太は一口コーヒーを飲んだ。

「だから二度目は無くなっちゃった。」

「ふぅん。」

白馬は両膝の上で両手を合わせて揉んでいた。昼間に感じたあの不調は、今はもう感じなかった。白馬は前方をなんとなく見詰め、薄く開いた唇から呼気をもらした。そうして思考をぼんやりとさせて両手を膝にきちんと置き直した。

白馬は遼太に向き直り、微笑みを浮かべてこう言った。

「ねぇ、お兄さん。私、黒馬と友達になったの。」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る