自分を抱き、抱えることは夜の明暗を眺めるのに似ている。

 灯りの中の小さな影は、小動物の亡骸を思わせて怖く、今しがた脱ぎ捨てられた主の消えた着衣に、人間の亡骸を垣間見るのに似てしまう。

 生きるとき、動物はみんな熱を持って小さく微動している。

 ある者にとっては震えているに相違ない。

 それはちいさなけだもののしるしだ。

 その者の、熱が消えいくさまはあまりに悲しい。

 熱をわずかのいとま 保ったまま 保ったまま

 天人の衣に悲しみは無い。

 それは いつかは空に呼ばれて天に帰るから。


 ピアノを演奏しているとき、白馬は静寂に包まれている。生命の根源、白馬を成す核からとこしえを思わせるよろこびと安息が放射状に広がっていく。白馬はそれに満たされ、時間も空間も存在しない世界を浮遊する。核から波が生まれる。波は緩やかで柔らかく、震えたり、寄せたり返したりする。自然に長く深くなる呼吸に白馬は身を委ねる。

 ストレッチ、つまり一曲の演奏を終えると白馬は姿勢を正した。譜面を広げ、わずかに眉山を歪めると少し考え事をする。何度も深呼吸をしてから再び鍵盤に手を置いた。この夏が終わったら、白馬はコンクールに出場する。


*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*


 時刻は十六時くらい。予定していた時間になると白馬は練習を一時切り上げ、街に降りるために財布と携帯を持って外に出た。なんせ昨日の残りご飯は捨ててしまったのだ。そう、白馬はスーパーマーケットに行こうとしている。

 外に出た白馬は思わず顔をしかめた。陽が傾き始めているというのにこの暑さと日差し。殺人的だなんて物騒な言葉が飛び交っているが、まさしくその通りだ。白馬は急いで車に乗り込むとドアを閉め、すぐに冷房をかけた。ラジオのスイッチを押して、レトロな洋楽のメドレーが流れるチャンネルに電波を合わせる・・・

 突然のけたたましい電子音に白馬は肩を跳ね上げた。自分の携帯電話では無いことは明らかだ。白馬は辺りを見回し、座席の下で激しく鳴動するスマートフォンを見つけた。拾い上げ、そして顔面を蒼白させる。

「・・・嘘でしょ・・・」

見慣れないスマートフォンは恐らく昨日の男の落とし物だ。他には考えられない。発信者の名前を見ないように、(男のプライベートを物語るようで見たくなかった。)白馬はスマートフォンを指先でつまむように持ち、ハンドルにうなだれた。

「・・・さいあく・・・」

しばらくそうしているとスマートフォンは鳴動を止め、車内にはラジオから流れるフォークギターの軽やかな音と英語で愛らしく歌う女性歌手の歌声が充満した。うなだれたまま動かなくなった白馬は突然足を蹴り上げると車に一撃を食らわし、再び静かになった。こうしてどうにか苛立ちを抑えるとスマートフォンを届けるために山を登り、競馬場跡地へ向かうことに決めた。男が本当に研究所の職員で、そこにいるかどうかは分からないけれど。発車する時、白馬は舌打ちをし、ラジオから流れる洋楽に歌声を合わせた。しかし白馬が歌うその歌詞は、聞くに耐えないスラングの連続だった。


*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*


 嫌々山を登り始めたものの、景色のみごとさにはまったく感嘆してしまう。街は国内でも有名な避暑地で、競馬場跡地のあるこの丘も含めた長かけれど勾配穏やかな低い山は、白馬の滞在する別荘のように誰かしらの別宅が点在している。山は多くの木が伐採され、土地はならされて遠くの景色まで見渡せるようになっている。じきに土地を売り、家屋を建てるためなのか、方々空き地ばかり。今の季節、空き地には揃って草が生い茂っていた。景観のために芝を生やしている場所も多く、そこは小さな公園のようだ。憩いの場所がそこかしこに点在するこの区域は土地の値段がとても高い。しかし利便性は最悪。下山して街まで行かなければスーパーマーケットはおろか、コンビニも自動販売機も無い。おかげさまで一帯はとても静かだ。もっとも、鳥とかセミやかえるの声だとか、人より生息数の勝る者たちの鳴き声は時にけたたましいが。それも風物詩とわりきってしまえば、都会の喧騒と暑さから逃れられるこの場所は、楽園と呼ぶにふさわしい。

 白馬は空き地の向こうにわずかに見える海を見た。手前には街があるが、それはここからは見えない。白馬は今、さながら崖縁のような道を走行している。実に緩やかな坂道だが。

 地平線では海と太陽が重なり合おうとしていた。黄昏時。白馬は前方に注意しながら何度も黄金色の景色を横目で確認した。ラジオの洋楽メドレーは丁度良いところにさしかかっていて、白馬をとてもすてきなセンチメンタルに浸らせてくれる。白馬は今日、何度も昨夜の男との情事を(いろんな感情をのせて)思い出していたが、こういう状況であればさほど傷まずに受け流せる。人の感情はある側面からみればとても容易いもので、音楽がになう役割は意外なほど大きい。もしこの気分がずっと続くなら、同じを繰り返しても後悔しない。白馬は男性歌手のたおやかな歌声に合わせて鼻歌を歌い、はちみつ色に染まっていく海を気にしながら、競馬場跡地を目指した。到着まで、あと五分。


*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*


 競馬場跡地はいささか古めかしくなったコンクリート造の四角い三階建ての建物をいくつか有しており、それは研究所になっていた。国内有数の頭脳が集うシンクタンク建築物は外観と裏腹に、内部は非常にハイテクに出来ている。粋を集めた一角はとても静かで、外で人を見かけることはほとんど無い。敷地内に研究者が宿泊するための寮もあった。入口にほど近い場所にある駐車場には守衛さんが常駐するための小さなボックスが設置されているが、昨日と同じく人影は無い。この季節をかんがみるに当然の配慮と言えばそうだろう。代わりに、監視カメラが忙しく右に左に、動く物を追っている。

 白馬は車を駐車するとダッシュボードからサングラスを出してかけた。ただなんとなく、少しでも顔を隠したかったのだ。

 車から降りてシンクタンクの受付窓口へ行こうとした白馬は突然立ち止まり、硬直した。兄の車が駐車されている。まさか。単に同じ車種だろうか?白馬はナンバープレートに視線を落とし、背筋を凍らせた。兄、遼太りょうたの車で間違いない。なぜ、ここに?白馬の兄の遼太は理科系で、大学、母校で事務の仕事をしている。だから、ここに用があるとしても、確かに不思議ではない。けれど、道の途中なのだからここに来るのなら白馬に一声かけてくれたってよいではないか。白馬は思わずたじろぎ、どうしていいか分からなくなって足早に車に戻ろうとした。

その時である。

「あれっ?白馬ー?」

兄、遼太に引き止められてしまった。なんたる偶然であろうか。白馬は肩をすぼめるとしぶしぶ振り向き、サングラスを外して笑顔を返した。引きつってはいたが。

「あら、お兄さん。こっちへ来てたの。」

「うん。ちょっと用事があって。白馬は?どうしたの、こんな所で。」

「お兄さん、私に一声かけてくれればいいのに。」それとなく話をそらそうとした白馬は再び凍りつき、目を見開いた。昨日の男だ。遼太の後から、シンクタンクからでてきたのは昨日白馬が一夜を共にしたあの男だった。白馬は全身を赤くした。恐らく遼太には、夕日が白馬を染めたようにしか思われなかったが。

「あ、黒馬。今偶然・・・」遼太が振り向くと黒馬と呼ばれた昨夜の男は白馬を一瞥した。

「妹の白馬。白馬、この人は杉村黒馬すぎむらこくばっていって、大学の元同級生。」

「初めまして。」白馬の白々しい態度を黒馬は無言で眺めていた。

「あれ?俺いつか白馬に話したよね?ほら、名前が似てるから・・・」黒馬がいつまでも無言でじろじろと白馬を眺めるので、遼太は少しどきまぎしていた。

「うん。そうね、お兄さん。」

白馬は微笑み、黒馬は軽蔑したように顔を歪め、そっぽを向いた。遼太は二人を交互に眺める。

 白馬はこの時、濃いベージュ色の、楊柳素材のキャミソールワンピースを着ていた。それには華奢なレース飾りが多分に付いている。裾は長いがどこかネグリジェだとか、下着を思わせるデザインだった。いやらしさは遼太には分からないけれど、一般的に見て、白馬は美人だ。遼太は白馬の女性性が黒馬をにさせたのだと直感した。黒馬が普段何を考えて生きているかなど知らないし、私生活のことなど想像したことが無い。しかし黒馬は感じたことをそのまま行動に表す性格なのは遼太は熟知している。例えそれが、子供じみた態度であろうと。

「黒馬、携帯見つかったら連絡くれよ。」遼太は早々にこの場を解散させることにした。

「うん。わかった。」

二人のやり取りを繕った微笑みを浮かべて眺めていた白馬は、遼太の言葉に驚愕した。黒馬のスマートフォンが鳴動した時、あれは遼太からの着信では無かったかと。

「最後にもう一回かけてみようか?」

やはりそうだ。遼太のな提案に白馬は戦慄する。黒馬のスマートフォンは今、白馬のバッグに入っているのだ。

「いや、いいよ。」黒馬はさきほどから変わらず不機嫌そうだ。

「そのかばんに入ってるとかない?」遼太は黒馬が肩にかけていたナイロンのナップサックをぺたぺたと触った。まるでおふくろさんのような仕草で。

「・・・黒馬・・・」

「なに?」

「このかばん空だけど・・・」遼太の言葉に、黒馬はナップサックを肩から外してかさかさと振った。

「あぁ、ほんとだ。」

遼太は笑うと黒馬の背中をぽんぽんと叩いた。

「相変わらずだな。」

「俺、財布取ってくる。」と、黒馬。

「待ってようか?スーパーまで送ってってやるよ。黒馬車無いだろ?」遼太の親切を尻目に、黒馬は白馬を一瞥した。

「うん。いいや。ちょっと歩きながら考え事する。」

「・・・そうか?あれ?白馬は・・・」

「うん。私はあっち。街の景色が一望できるから。お兄さん先に別荘で待っててくれるでしょ?スーパー寄ってから帰るから、少し時間かかるけど・・・」

「ううん。今日は寄れない。」

「そう、だから連絡なかったのね。」

「・・・俺、帰るけど?」肩を並べる白馬と黒馬に遼太は遠慮がちにそう言って、二人を交互に見た。

「うん。またね。お父さんとお母さんによろしく。」白馬は微笑み、手を振った。 遼太が車に乗って去っていくのを並んで見送った白馬と黒馬は顔を見合わせた。

「俺の携帯持ってる?」と、黒馬。

「うん。はい。これ。」白馬は手に持っていた小さなかごバッグからスマートフォンを取り出して黒馬に手渡した。黒馬はそれを無言で受取り、シンクタンクの方へ歩き出した。

「あ、ちょっと、ねぇ・・・」去り行こうとされると止めたくなるのが人の性だろうか?

「うん?」黒馬が振り向くと白馬はまた全身を紅潮させた。

「えっと・・・少し話せます?」お兄さんのお友達だから昨日のことを取り繕っておきたい。白馬は一人、自分に言い聞かせる。

「・・・いいよ。部屋来る?暑いだろ。」

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