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―草原の天馬―
「ほんとはクラシックのピアニストじゃなくてサーカスのオルガン弾きになりたかったの。」
「クラシックが嫌いなの?」
「ううん。クラシックは大好き。コンサートホールが嫌いなの。」
昨夜の会話を思い出しながら、白馬はベッドの中で怠惰な午前中を過ごしていた。昨日の昼間に出会った男の名前を、白馬は知らない。突然の痴漢行為に男は怒りもせず、白馬に付き従うと別荘まで着いて来て、つまり白馬は彼と寝た。行きずりの男を一人で滞在中の、親の持ち物であるこの別荘に連れ込むなど礼儀知らずだし、色情魔のようである。白馬は眉間にしわを寄せると、昨日、白馬の発作的蛮行を拒絶しなかった男の神経を疑った。キスをした時点でひっぱたくべきだし、額をつけた時点ではねつけるべき、そもそも、白馬が現れた時点で逃げるべきであったと。白馬は寝室の一点を見据えた。昨日男はそこに居て、平気でするすると服を脱いだ。寝室と廊下を隔てるドアの隙間から、わずかに漏れる灯りが男の肉体の輪郭を闇の中に浮かび上がらせていた。体の凹凸が作る緩やかな影のグラデーションを、白馬はわずかに憶えていた。薄闇の中で、ぬらりと光った瞳も。抱擁、後は何も考えず欲望と行動に従順に従った。
白馬はゆっくりと起き上がるとバスルームへ向かった。湯船に湯を張り、そこへ身を沈めて膝を抱え、じっとする。そして一点だけを見据える。何も無い虚空が自分の思考回路に何か有益な思想をもたらすかも、と考えたりしたが、(大昔に、何年もただ壁を見詰め続けた僧侶がいたという話を聞いたことがある。)どうやらそんなことは無いらしい。思考はまとまらず、これといって役に立ちそうなことも思い浮かばない。ひらめきを諦めた白馬は立ち上がり、そのために湯は大きく揺れて、何度がバシャン、バシャン、と音を立てた。湯船に足をつけたまま、立ち尽くす。白馬は自分を抱きしめるように両手で両腕を掴んだ。ふいに、全身に昨夜の男の感触がまざまざと思い出される。息遣いや、まぬけな話し方。
白馬は叫んだ。あらん限り叫んだ。叫んで、叫んで、叫び尽くした。それからおいおいと泣き、勢いよく湯船に全身を沈めると湯に顔をうつ伏せた。ざぱん、ざぱん、と音を立てながら湯は白馬の髪をかき混ぜる。泣いていたために湯船はぶくぶくと泡立った。思い切り鼻から湯を吸い込んでしまった。白馬はむせ、顔を上げると天井を仰いで泣いた。
*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・
白馬は風呂から上がり、寝室に戻ってきてもまだ少し泣いていた。時々しゃくりあげ、ポロポロと涙を流し、鼻をすすり上げる。下着姿のままだったので、引き出しから一番上にしまってあったキャミソールワンピースを引きずり出し、それを着た。そしてなんとなくベッドに座った。むき出しの肩にエアコンの冷たい風が当たる。リモコンはどこかと辺りを見わすとふいに、足に柔らかな物がぶつかった。白馬はそれを拾い上げると両手で広げ、まじまじと眺めて大粒の涙をこぼした。昨日の男が着ていたシャツだ。汗臭いそれはいかにもみすぼらしく、手入れ一つなされてはいないらしかった。白馬はどうしてか自分が惨めになったような気になって、一気に脱力した。するとシャツは膝の上でくしゃくしゃになった。白馬は言葉もなく呆然とただ前を見据えた。もう昼下がりになろうかという今、締め切った寝室に灯りは点けておらず、カーテンも引いたまま。カーテンを透かし、隙間から漏る光りは、室内を淡い光りで満たし、黒い影をそこかしこに落としていた。
白馬は後ろに倒れてベッドに寝そべった。
「・・・。」
シャツに顔を埋めてみる。もう涙は止まっていた。確かに昨夜、白馬はこのシャツの持ち主の腕の中で安息を得た。名前も知らない誰かとの時間には、白馬のこれまでは何一つ存在しなかった。自分を知らない人間と居ると安心する。白馬はぼんやりと男の佇まいや表情、声の感じを思い出してみた。
〝あの人は何を考えていたのだろう?〟
昨夜の男は、まなざしの動かない人だった。現実の何か一点を集中して見ている、というよりかは、ここに無い別の何かを見ているようなまなざしだった。それは自分の内面かもしれず、白馬はなんとなく、そこに彼の世界があるのだと感じていた。彼の世界。それがどういう世界なのか、白馬には分からない。ただ男は自分固有の世界を感性として自分の内面に持っていて、恐らくそれは男の職業に関係している。昨日白馬が男と会ったのは競馬場跡地で、今は天文に関する研究所になっている場所なのだ。つまり男は研究所で働いている職員で、天文にまつわる仕事をしている。灼熱の中で一心不乱に書き物をしていたところを思い出してみるに、多分男は研究員で、かなりの変人である。昨日一日で交わした会話の中で、男は一つも自分の事を話さなかった。それは意図して行われたわけでは無く、ただ偶然そうなったのだ。男は常に受け身で、ここへ来た時と同様に、白馬にただ従って一日を過ごしていた。だから会話はほとんど、白馬の言葉に、男が答えるという形だった。ただ、それをしている時に限っては男は受け身ではなかった・・・
そこまで考えたところで白馬はシャツから顔を上げ、それを手に握ったまま立ち上がった。寝室を出て足早にキッチンに向かい、シャツをゴミ箱に放り込んだ。それから冷蔵庫に残っていた昨日男と食べた昼食と夕食の残りも捨てた。
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