一服

武功薄希

一服

 赤く染まる空。歪む地平線。彼は震える手でタバコを握りしめた。

 街は既に無人だった。警報から数時間。彼は一人、勤め先のオフィスビル屋上にいた。同僚たちは皆、慌てて逃げ出していった。しかし彼は、もはや逃げ場はないと悟っていた。

 遠くで轟音が鳴り響く。地球の悲鳴のようだった。人類の過ちが積み重なり、ついに取り返しのつかない事態を招いたのだ。環境破壊、核実験、そして最後の引き金となった未知の科学実験。

 ポケットから取り出したのは、未開封のタバコ。禁煙を貫いた父の形見だ。父が禁煙を決断したときに、最後の一箱を無理やりに彼にくれたものだ。彼自身も、一度も吸ったことがなかった。形見というものも言葉も今となっては何の意味もなさなくなったのだ。

「もう、どうでもいいか」

 震える指でパッケージを開け、一本を取り出す。ライターの火が風に揺れる。

最初の一服。煙が喉を突き抜ける。 「ゴホッ、ゴホッ!」 激しく咳き込み、目に涙が浮かぶ。喉が焼けるような感覚に、彼は顔をしかめた。 「うっ...まずい」と呟きながら、それでも吸い続けた。

 二服目。また咳き込む。しかし、少しずつ落ち着いてきた。遠くで建物が崩れる音が聞こえる。街の至る所で火災が発生し、黒煙が立ち昇っている。

「こんな...ゴホッ...味か」と、苦笑する。父は何を思って吸っていたのだろう。

 三服目。まだ喉に違和感はあるが、なんとか煙を吸い込めるようになってきた。空がさらに赤みを増す。風が強くなってきた。髪が乱れる。タバコの灰が風に舞う

 最後の一服。タバコの先端が赤く光る。その小さな光が、異様に赤い空と溶け合っていく。不思議な一体感。孤独なはずなのに、どこか繋がっている感覚。

 彼は目を閉じた。喉に残る苦みと、不思議な安堵感。生まれて初めて、そして最後のタバコ。

 遠くで、地鳴りのような音が大きくなる。地球が軋むような音。人類の居場所が、もはやないことを告げているかのようだ。

 考えてみれば、親父はいい死に方をしたのかもしれない。こんな気の狂った最後なかったのだから。

 彼はゆっくりと目を開けた。驚いたことに、涙が頬を伝っていた。悲しみの涙か、解放の涙か。それとも、タバコの煙のせいか。もはやわからない。

「これで終わりか」と呟いた。後悔も恐怖も、もはやない。ただ、静かな諦観だけが残っていた。

 眩い光が地平線から迫ってくる。彼は目を閉じた。

 最後の瞬間、彼の脳裏に映ったのは、愛する人々の笑顔だった。そして、かすかに残る喉の違和感。初めて、そして最後のタバコの味。

 全てが白い光に包まれた。


 人類の歴史が終わり地球には、静寂が訪れ、新たな時代の幕が開く。人類の歴史からすれば長い一服の後に。宇宙からすれば短い一服の後に。

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一服 武功薄希 @machibura

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