非日常へ緩やかに

白崎桜との相合い傘の翌日。

僕はいつも通り遅刻寸前で教室に入る、僕に気づく者はいても挨拶を交わすのはいつも翔1人。席は窓側の最後列、席だけで言えば最上級の位置取りだと自信を持って言える。


「おはよう、藤宮くん」

声の主は白崎だ。

慣れない挨拶に戸惑ってしまう。気付くと周囲の視線は僕に集まっていた。

攻撃的な視線だ、針山が僕の身体に直接刺さってるみたいに刺々しく、大人用プールに入った時みたいに満ち溢れた悪意は僕の喉元まで水位を上げる。悪い注目を浴びるのは嫌いで怖かった。昔のことを思い出すから。

「お、はようございます、白崎さん」

嫌な視線は止まらない、だが取れる手段は無い。冷や汗が止まらない、悪意の水面はもう下唇に触れていた。

「ねぇ藤宮く…」

キーンコーンカーンコーン

その時、前方上部から救いの鐘が鳴る。全身を圧迫する悪意は蒸発したようだ。チャイムに皆が気を取られた隙に僕はそそくさと自分の席へ移動した。


小学生時代、僕はいじめに遭っていた。何がきっかけかは覚えていない。覚えているのは、僕と同じようにいじめられた生徒と、ガキ大将の悪辣な顔だけだった。

当時、今よりも酷い人見知りだった僕に味方はおらず、ただ殴られ盗られ泣かされた。親に相談する事も、友人に助けを求める事も、担任に全てを明かす事も臆病な僕には出来なかった。あのときの僕は孤独で、それが嫌だったから同じようにいじめられていた生徒に近づくこともあったし、いじめられていたこの手当をしてあげたときもあった。それが却って僕への嫌がらせを苛烈にし、それを見ていた苛められっ子が僕に近づくことも、手当してくれることもなかった。

ただ、一人の女の子だけは僕に寄り添ってくれた、名前も知らない僕と同じで、いじめられたその子だけは、僕のそばにいてくれた。だからその子も痛めつけられた。幸いガキ大将は僕のほうが嫌いだったようで、その子から僕が離れれば、また僕一人になった。

3年生になると、親が転勤になり他の学校へと移れた事でいじめは無くなったが、それでも他者への恐怖が拭い切れる事はなかった。それは再び痛めつけられる恐怖でもあったが、自身に近づいた人がまた同じようになる事への恐怖でもあったと思う。

毎日息を潜め、何もせず何も起こらないことを願う卑屈で怖がりな小学生だった。

中学にあがり翔と出会わなかったなら、僕は今こうして返答を返すことも出来なかっただろうし、周囲の視線に僅かとはいえ耐えることもできなかった。


「はじめ。お前いつの間に白崎さんとお友達になったんだよ。」

休み時間、にやついた翔が話しかけてきた。

「友達なんかじゃないよ、昨日雨で立ち往生してたときに話しかけられたんだ。」

「なんだよ、その程度か。けど案外気に入られてたりしてな、お前みたいな根暗。白崎さんの周りに一人としていないだろうしさ。」

翔はへへっと笑いながら彼女の方を見る。

白崎のまわりにはいつも通り人だかりができている。たしかにあの中に僕のような根暗はいないだろうが、だからといって気にいる要素なんてなにもないだろう。

確かにあれだけの人に囲まれていれば、少しくらい物静かな人に興味を持つこともあるだろうが。物静かと根暗じゃ訳が違う。

「ま、そんなの夢のまた夢のまた夢だな」

「夢が一つ多いんじゃないか」

「翔、今日カラオケいかね?みんな行くけどお前いないと盛り上がりに欠けるっつーか」

「行く行く。ちょっとまってろ」

別の友だちに誘われた翔は席を移動する。

「同じようなものだろ、俺もお前もさ」

そう言い残して。


(お前なら、少しくらいは気に入られても不思議じゃないけどな)


昼休み


チャイムが鳴り昼時になる。教室で弁当を広げる生徒や食堂へ向かう生徒、そして1人教室を離れる生徒。

僕にとっての食堂は屋上からの光が差す階段だ。翔とは食べない、前に一度だけ食べた事はあるが話しながら食べるというのは案外慣れが必要なようで翔には迷惑をかけた事があったからだ、それに僕と一緒に食べていられるほど友達が少ない訳じゃない。

ただこの時間は好きだ。1人でいられるし誰に気を使う訳でもない、それに便所メシって訳でもない。きっと僕の青春の記憶にこの階段と背に残る陽の温もりはずっと残っていくだろう。独りぼっちだけど寂しくは無かった、寧ろこの場所と時間を独り占めできる喜びがある。

母の作った弁当は毎日献立がガラッと変わる、お決まりのポテトサラダ以外はミニハンバーグや焼き魚の切り身、米やパンにパスタとバラエティ豊かな献立に母の愛情を感じる。

今日はアンチョビのパスタで、唐辛子の風味が少し辛かったが、舌を刺激するそれが却って食欲を刺激し早々に食べ終わった。

そして、大抵の場合教室に戻るにはまだ時間が余っている。こういう時のために弁当入れの袋には未読の小説を入れておく、保冷剤で濡れないように傍に付いたポケットから本を取り出し開く。幼い頃から使っている桜の押し花で彩られた栞が教えてくれる頁から、僕は本の中に入っていく。

セピア色に霞んだ景色を自分が知る限りの色で埋めていく様に解釈をしていく、色で埋まった景色は凹凸が付く、鮮明になる、文字だけの世界に深みが出る。そんな感覚が、現実から遠ざけてくれる。文字だけで構成された手が僕の手を引き、現実から抜け出した精神は手を引かれるまま主人公を追体験していくのがひたすら心を癒してくれる。


不意に気配を感じ、階段下に目を向けた。そこに居たのは白崎桜だった。

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