第4話

 七月の祝日、海の日を迎えて到来した夏季長期休暇、夏休み。

 暗殺者ユキをペットとして家に迎えてから今日までの星の日常は、これまでのものとは一変したと言っていい。


 朝、起床後に簡単な身支度をした後に、箱買いした大豆バーを一つ食べてから登校するのが星の平日の始まりであった。

 それが今では、朝起きた瞬間に味噌の匂いが鼻孔をくすぐるようになっている。

 寝室からリビングに来れば、ほぼほぼ無用の長物だったIHコンロの前に立つ同居人にしてペット、ユキがエプロン姿で味噌汁を作っていた。


「おはよう、ご主人様」

「……おはよう」


 微笑む彼女に、無愛想に挨拶を返す。

 テーブルにつけば、五穀米に出汁巻き卵、鯵の干物の焼き、豆腐の味噌汁といった一汁三菜の和食の朝御飯が用意される。

 毒や薬を仕込まれていようが自分には通用しないので、躊躇なく料理を口に入れる。

 美味。感想はそれに尽きた。

 和食はそれほど好きというほどではなかった星だったが、彼女の振舞う物は別次元に感じられた。食で感動、という新感覚を味わうことになった。


 制服に着替えようとすれば、用意された制服はシミ一つなくアイロンがかかってて着心地の良いものになっている。洗濯物が溜まったりすることもなくなった。


 部屋を見渡せばチリ一つない綺麗なもの。こまめに掃除をやっていることがわかるものになっている。


「はいお弁当。いってらっしゃい」

「……行ってきます」


 家を出ようとしたら、弁当を手渡される。今までなら昼も関係なく寝続けていたが、弁当をもらうようになってから昼時だけは起きるようになった。

 当然、弁当も美味。学校において楽しみを見出すことはないという考えが、弁当一つで覆されることになった。


 彼女と同居するようになってから、QOLクオリティオブライフが桁違いに向上したと言っていい。

 だが同時に、自分が骨抜きにされていっているという自覚もある。

 半月にも満たない時間で、彼女がいなかった頃はどのように生活していたか朧気程度にしか思い出すことができなくなってしまった。






「順当にハニトラされてんなぁオイ。なっさけねー」


 夏休み初日、太陽が真上に差す真昼間に、いつもの市内中央公園。そのすぐ隣に流れる河川のど真ん中。

 、師弟の二人がそこにいた。


 鍛錬の最中、ケラケラと笑う師匠に星は何も言い返せない。

 事実、ユキに尻に敷かれている現状なのは間違いないのだ。


「なあオイ、俺がこうなるのわかっててアイツを飼えって言ったのかよ」

「何言ってんだ。んなもん序の口だ」

「ああ?」

「ハニトラの目的はなんだ?肝心なのはそこだろ」


 ハニートラップ。女性が男性に色仕掛けをして情報を抜き取ったり脅迫をするスパイの手法。

 ならば当然、それをするだけの目的が存在する。


「……まさか、俺に師匠を殺させる気か?」


 あの女は元々、仇討ちのためにやってきた。そして、狙いは師匠。

 現代火器のほとんどが通用しない師匠に通じる武器となれば、自分が最有力となる。

 誘惑して、心を奪い、コントロールする。周星という最強の武器を手に入れることこそが真の目的。

 今はまだ遠く及ばないとしても、将来的に力をつけていけば可能性はあり得る。


「だろうな」

「……だろうなって。俺が血迷って殺しにかかってきたらどうするんだよ」

「別に構いやしねえよ。師匠超えは弟子の到達点で、師の本懐だ」

「……ほんっと、バカだよな師匠は」

「まあんなこと出来るわきゃねえけどな!」


 弟子と殺し合うこともまた善し。それが師、龍司のスタンスだ。

 女暗殺者ユキを星が生かすと決断した瞬間に、弟子にとって面白いエッセンスになると直感した。





「で、■■■ピーーしたのか?」






 突然の師の爆弾発言により集中が途切れ、決して浅くない川の中へと沈んでいった。

 水の中で多少溺れたのか数メートル流されていき、どうにか這い出て立った時には胃に入った水を吐き出していた。


「お、おま、てめ、何言って、ゲホッ!」

「自由に何しても良い女が一緒に住んでんだぞ。中学生のガキにゃあ辛抱たまらんもんだろ」

「なんも、してねえよ!」

「なんだそりゃ。それでも生えてんのか」

「ようしわかった、今殺す!絶対殺す!!」


 ──テメェの言った師の本懐、遂げさせてやらあ!と、水上にて勃発した師弟による組手。

 遠慮なしに全力で振るわれる星の一撃一撃を、龍司はケラケラ笑いながら超人的な技量で軽々と捌いていき、その余波だけで水柱と水飛沫が絶えず巻き起こり、河の流れは局所的に洪水と大差ないほど乱れに乱れていった。

 都合、一時間は続いた組手も終わる。

 決まり手は、龍司のカウンター気味に決まったデコピン。

 ──しかし、全力のデコピン。常人ならかすっただけでも頭が血煙になって消し飛ぶ威力のデコピンだ。

 それをまともにくらって、河の上を水切りの要領で吹っ飛ばされていき、河口の先の海までいってようやく勢いが収まった。


「……あー、くっそ……。勝てる気しねえ」


 海の上でプカプカと、仰向けで浮かんで揺蕩う。

 潮の匂いと、青い空と白い雲に強い日差し。海の水温は思った以上に温く、海鳥たちは自由気ままに空を行く。

 眩く輝く太陽に手を伸ばそうにも、遠く届かず。それは、目標とする師の強さと同じような距離に感じ取った。


 ──真夏の到来を、意識した。






「……ただいま」


 すっかり日が傾いて夜になった頃に帰宅。夏休みに入ったからといって予定らしい予定はない。

 今までの土曜日曜祝日と同じように、一日中師匠と共に鍛錬。それ以外に興味がない。

 ただいま、と。この家で住むようになってそう言う日が来ることはないと思っていた。


「おかえりなさい、ご主人様」


 迎えて来る、ユキ。

 先に風呂に入っていたのか、綺麗な髪が少し濡れてしっとりとしている。


「海にでも入ったの?潮の香りがするけど」

「海まで吹っ飛ばされた」

「……もう。海水が乾いてパッサパサになっちゃって。早くお風呂に入ってね」

「わかったよ」


 鍛錬でかいた汗と乾いた海水で体中がベタついて気持ちが悪く、風呂に早く入りたいのは確かだった。

 足早に脱衣場までいき、洗濯物を入れるかごに上着を放り捨てようとした時に、星は思わず固まってしまう。


「なっ……あっ……!」


 洗濯かごの中に入っていた、女性ものの、下着。

 薄桃色の、ブラジャーとショーツ。前のような機能性に振り切ったスポーツ物と違った、女性らしいデザインに注力した可愛らしいもの。

 そんなものを着用するのはこの家で一人しかおらず。

 ……想像してしまったのは、この下着をしている彼女の姿。大きい胸も、蠱惑的なスタイルも、白磁のような肌も、美しすぎる容貌も、全て見て覚えてしまっている。

 この下着を、手に持ってしまいたいという興味、欲求を刺激され……あるいはこれもハニートラップの一環であるという理性も鬩ぎあい。

 ……なんなら頼めば、この下着をつけた姿が見たいと言えばあっさり叶うという事実が頭に過り。


 ──見るだけで、いいの?


 振り切るように、手に持った上着をかごに叩き込む。

 かごに入った下着なんて知らない、見ていない。着ている服をかごに全て叩き込んで、覆い隠す。

 風呂に入って、全部忘れる。悶々としたものを洗い落とす。


 ……だが、この風呂に彼女が入っていたことを思い出してしまう。

 シャワーを浴びて、華奢な肢体に流れる湯と泡。湯船に体を沈めて、甘い吐息を漏らして上気する顔。

 その姿がありありと思い浮かぶことができてしまい……。


 ──もう、えっち。


「っっっ……!!」


 声にならない、声に出せない悲鳴を、必死に押し殺す。

 前に一緒に入るか、なんて言われたこともあるのも相まって、余計に悶々としたものが強くなる。


「どうすりゃいいんだよ……」


 いっそのこと、彼女を思うように弄べばそれでいいのか。そう思ってしまう。

 彼女の服を剥ぎ取り、裸体を晒し、存分に揉みしだき、まさぐり、そして──。




「だめだ。それは駄目だ。絶対に駄目だ」


 急に、頭が冷えた。のぼせかけた頭が、冷えてくれた。

 自分の力なら、それができる。彼女になら、それができる。それは紛れもない事実だ。

 ……だがそれを、自分は悍ましく気持ちが悪いものと感じた。

 良心とか良識とかの曖昧な基準ではなく。自身の中ではっきりと存在するが、生理的嫌悪を感じるほどに拒絶した。


「つまらねえ、意地だけど」


 小さすぎる、子供のプライドだけれども。それはやりたくないと、自分の内からはっきり聞こえた。自分の心がそう叫んだ。

 なら大丈夫だ、と星は安堵した。やりたくないことはやりたくない、と叫べる内は。

 最悪なのは、何をしたいのかわからないままに力を振り回すことだ。自分の心がわからないまま力を使うのは、最早暴力ですらない。ただの災害だ。


「……よし、定まった」


 次に、自分は何をしたいのか。

 どういうワガママのために、力を振るいたいのか。自己にある欲を問いかける。


「なんだかんだで、俺も嫌いじゃないんだよな」


 ユキのことを、好ましく思っているのは事実だ。

 半月未満の短い間で、裏でどう思っているのかは知らずとも、星の中ではユキはそばに居て欲しい人になっている。

 少なくとも表面上では自分に尽くしてくれる、優しくて綺麗な年上のお姉さん。そんな人を嫌いになれというものが無理があった。

 それがハニートラップで、自分が絆されているのも十分承知。所詮は復讐の道具でしかなく、師匠を殺すための凶器でしかないことも理解している。


 ──それでもなお、


「……そうだ。俺は、ユキの心が欲しい」


 命令じゃなく、飼い主とペットではなく。上っ面の、体だけの関係じゃなく。

 ユキが、本心から自分に好いていると言ってほしい。ユキが、本心から自分に体を預けて欲しい。

 そのためなら、復讐の道具になったっていい。師匠を殺すのも躊躇はない。


「しかしまあ、笑える。力欲しさに弟子入りして、それより欲しいものができたらそのために師を殺す。師を殺すために、師に力をつけてもらう。……なんて」


 なんて、師匠不孝者。ある意味じゃ孝行者ではあるのか?と、自嘲する。


「よし、決まった」


 好いた女を手に入れるために、我道を往く。

 周星、十四の夏の夜。己の力の使い道を知る。

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