3-7 供物 ※残虐・暴力描写があります
ジェラール公爵は自分を刺した男の胸元を掴み、壁に押し付けたが、男に蹴られ、床に倒れこんだ。公爵の腹部には、まだ深々とナイフが刺さっている。
私は恐怖のあまり力が抜けて、床に座りこんでしまった。
その時になって、男はセレスの存在に気付いたのか、鬼気迫る表情をこちらに向けた。
だが男は私を無視して、倒れこむ公爵の腹に刺さったナイフの柄を持つと、そのまま横に引いて肉を裂きながら抜いた。血飛沫が舞い、耳を覆いたくなるような叫びが響く。男は再度、血塗られた手で同じ事を繰り返した。
私は叫びをあげたが、声帯は上手く動かず、ひゅうひゅうと情けない息が漏れるだけだった。
ジェラール公爵の口からは、喘鳴と呻きしか聞こえなくなっていた。抵抗する力も尽きたのか、死にかけの虫みたいに時折、ぴくぴくと手足が動く。
歯の根が合わないほど震えて、ガチガチと不快な音が頭に響いた。確かに願った。彼が酷い死にかたをすればいいと。でも、ここまでの事を願った訳ではない。
(こんなの知らない……こんな残虐なこと、あの本には書かれてなかった)
残虐で非道な場面。ただ、殺すだけではなくて、いたぶることを目的としているようだった。
男は、公爵の上に馬乗りになると、片手で肩を押さえつけ、空いた手を裂いた腹の中にいれて、何かを引きちぎるように、引っ張り出そうと力を込める。大人しかったジェラール公爵の手足がバタバタと床を叩き暴れ、叫びを上げた。彼が暴れたせいで飾ってあった花瓶が床に落ちたが、絨毯の上だったので、割れずに、花をばら蒔いて転がるだけだった。
「……やめて、お願い、私、こんなひどい事を願ってない。ごめんなさい、おねがい、ごめんなさい……やめて……お願い、やめて、やめて」
譫言にように呟いた声は男の耳にも届いたらしく、彼は煩わしそうにこちらを見て、腹の中から不快な音を立てて手を抜いた。公爵の口から血泡と共に呻きが漏れる。男は私にナイフの先を脅す様に向けた。
「ここから逃げるな。叫ぶな。さもないと、あんたにも同じことをするぞ」
私はがくがくと頷いた。男は呻くだけで動かないジェラール公爵を一瞥すると、立ち上がり部屋を見回した。
「なんで、あんたがここにいるんだ。そんな事は聞いてない」
男はぼやきながら立ち上がり、ベッドの傍までいくと、シーツを血まみれの手でつかんで、それを裂きはじめた。
ランプの光に男が照らされ、彼が給仕のお仕着せを身につけていることに気づいた。
彼は何本か、端切れを作ったあと、こちらに近づいてくる。おそらく、それでセレスを縛るつもりなのだと思った。
「いいか、大人しくするんだ。俺はあんたを殺すつもりはないが、暴れたり叫んだりしたら分かっているな?」
私は泣きながら頷いた。脚を出すよう命じられて、大人しく私はそれに従い、震える体を動かして、男に脚を向けた。それを結わえようと彼が屈んだ時、――後ろから血まみれのジェラール公爵が物音も立てず、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。
腹を裂かれ血まみれの彼は、優雅な姿とは程遠く、鮮やかな緑の瞳は爛々と耀いて、悪鬼のような形相だった。
彼は私に顔を向けてしーっと人差し指を唇の前に立てると、傍に転がっていた花瓶を掴み、それからは俊敏な動きで、男の後ろに近づき、勢いよく男の頭に花瓶を振り下ろした。陶磁器が砕ける音と共に、男が床に倒れ、彼も力尽きたように腹を押えて床に蹲る。
「畜生……せっかく、この日の為に誂えたっていうのに」
腹部からは血が吹き出し、金糸を織り込んだブロケードのジレは、その模様も分からない程、血で汚れている。彼は腹部を押さえる手の力を込めて呻き、顔を仰け反らせた。
「……泣かなくてもいいだろう。君の願いが、半分は叶ったぞ」
息も絶え絶えにそう言う彼は、不敵に口の端を上げて笑った。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
彼への謝罪なのか、彼の死を願った自分に赦しが欲しかったのか、私は謝ることしか出来ず、彼の腹部に手を伸ばす。何が出来る訳ではないのに勝手に手が伸びた。
「触れないでくれ、ドレスを血で汚すと、サビーヌにどやされる」
止められて手を慌てて引っ込めると、また嗚咽と共に涙が流れる。それを拭おうとしたのか、彼の手が伸びたが、戸惑うような表情をみせて、手を戻した。
「……そんな子供みたいに泣くな。私が泣かせたみたいで、ますます悪人になった気分になる」
「……ごめんなさい」
口を開けば同じ事しか言わない私に彼は苦笑した。
「君が私の腸を切り裂いた訳ではないだろう。それとも、……君が、あの男にそうしろと命じたのか」
私が頭をふると、彼は「なら謝る必要はない」と笑った。
「君に、少しでも情けがあるのなら私の望みを聞いてくれないか?」
私が頷くと、彼は安心したように息を吐いた。
「階段を下りた先に、護衛たちがいるはずだ。彼らをここに呼んできてくれ。……君は彼らの言う事に従ってくれればいい。彼らの名はセルパンと、アレニエだ」
このまま公爵を一人残していいのかと迷ったが、私がいても何も出来ることはない。震える足に力を入れて部屋を出ると慎みなどお構いなしに走った。
見えた階段の先に、体格のよい男性が二人いる。彼らは、鏡をあわせたかのようにそっくりだった。駆けてくる私を見て、只事ではないと気付いたのか、こちらに駆け寄ってきた。
「伯爵夫人、どうしました?」
「セルパン?それともアレニエ?」
彼は名を呼ばれると、顔を引き締めた。
私は彼に先程あったことを伝えようとしたが、息が切れ、嗚咽で上手く喋れない。彼は落ち着くように、私に言った。
「何があったんですか?」
「ジェラール公爵が、さ、刺されて、何度も刺されて……」
「どうか落ち着いてください。公爵は亡くなったんですか?」
「いいえ、私にあなたたちを呼んでくるようにと」
彼は舌打ちをして、苦い表情を浮かべた。一人が階段を駆け上がっていき、私と話していた方は腰を屈めてセレスの顔を覗き込んだ。
「公爵を刺した下手人はどうなりました?」
「たおれました。こ、公爵が頭を殴って……」
「夫人、焦らずに。一度、息を大きく吸って、ゆっくり吐いて」
言われた通りに、呼吸し上がった息を落ち着かせようとしたが駄目だった。彼は二階の、エベール侯爵夫人たちと話しをした部屋に私を連れていって長椅子に座らせた。部屋には私達以外、誰もいなかった。
その間も、涙があふれて止まらないし、息の間隔は短い。彼は火酒を注いだグラスを私に押し付け、ゆっくり飲むように促した。火酒は喉を焼くようだったが、飲み物を口に入れたせいか、呼吸は少しだけ落ち着いた。
「いいですか、よく聞いてください。あの場にいたことを他の者に知られたら、面倒な事になります。あなたは何も見なかったことにしてください。今夜は何事もなかったようにして、今すぐファルネティ伯爵と、ブリュネ邸から去ってください」
「ですが、あんな事があったのに私たちだけ去れだなんて、それに公爵は、まだ亡くなってませんッ」
「そういう問題ではありません。あの方の生まれをお忘れになったのですか?公爵が襲われた現場にいたのなら、あなたも疑われる。ご自身の家門のことを考えてください。あなたは何も見ていないんです。いいですね。
ファルネティ伯爵にも見たことは話さないように。あなたの命に関わります。『見たことは誰にも話さない』で、言われた通りに動いてください」
彼に涙を拭うように言われ、私は目元をハンカチで拭った。私の涙が止まったのを見届けると、彼は足早に、部屋を出ていった。
頭は混乱していたが、部屋にある鏡でセレスの顔を確認した。目元が若干赤いが、白粉は塗っていないので、お化粧はそこまで崩れていなかった。彼の言われた通り、ファルネティ伯爵を探すために階下に降りる。
大広間では、セレスが先ほど見たことが悪夢だったのかと思えるほど、華やかな光景が広がっていた。心地よい音楽に優雅に踊る男女と、それを眺め、酒を傾ける貴族たち。
私が階段を下りると、知らない令嬢たちを連れた、ギベル男爵夫人が近づいてきた。
「あら、ファルネティ伯爵夫人、随分、早いお戻りね。ジェラール公爵とはいかがだった?」
扇を煽ぎながら、彼女は私の行く手を阻んできた。
「そこをどきなさい。無礼よ」
私は彼女を押しやり、前に進んだ。後ろでセレスを罵る声が聞こえたが、無視してファルネティ伯爵を探す。だが、彼は見当たらなかった。
周りを見渡すと、同世代の貴族と話していたエベール侯爵の姿が見えて、駆け寄った。彼はセレスにすぐに気づいたが、セレスの顔を見つめて眉間に皺を寄せる。
「どうした?顔が青い」
彼が気遣いを見せたことに少し驚き「大丈夫です」と答えたが、彼は真に受けなかったようで再び尋ねた。
「ジェラール公爵と何かあったのか?」
私はまだ混乱していて、何をどう答えていいかわからず黙っていることしか出来なかった。彼は「彼と踊っているのが見えたから、何かあったのかと思っただけだ。何も答えなくていい」と、追及するのをやめたので、あからさまなぐらい肩から力が抜けた。
「何か用でも」
「夫を見ませんでしたか?」
「あちらにいる。ジェラール公爵と君が踊っているのを見て、身勝手にも傷ついたようだ。今行くと面倒だぞ」
彼がしめした所にファルネティ伯爵はいた。壁にもたれかかって、グラスを傾けている。彼は「暫く一人にしてやれ」と言ったが、私は構わず、ファルネティ伯爵の元に足を向けた。
私が近づくとファルネティ伯爵はぼんやりとしていた顔を私に向けて、嘲笑うような嫌な表情を浮かべた。
「早かったな。今日は一人で帰るものと思っていた」
「何を言っているんですか?」
「君がジェラール公爵と踊るのを見たよ。随分親しそうだったな。会いたかったのは公爵か?」
「私がジェラール公爵の誘いを断れる立場だとお思いですか?」
何で、この人はこうもセレスを分かってくれないんだろう。私は身勝手にも、怒りと共に、悲しくなって、泣きそうになった。
(この人と分かりあおうなんて思っちゃ駄目だ。それは私の役目じゃない)
俯く私にため息をついて、彼は給仕に開いたグラスを押し付けた。
「お願いです。一緒に帰ってください」
私が頼むと、彼は鼻で笑った。
「なぜ?まだ、宴は始まったばかりだろう。君も楽しめばいいさ」
私は彼の腕を掴んで再度頼んだ。
「お願いです。お願いですから、一緒に帰ってください」
必死な私の様子に、ようやく、普通ではないと悟ったのか、私の肩を抱き大広間を出ようと足早に歩きだした。
「いったい、何があった?」
私は頭を振り、口を噤んで涙を堪えた。恐ろしいものを見ました。人が目の前で刺されて、甚振られて。そう話せたら幾分楽になるだろうか。
ファルネティ伯爵の顔を見上げて、口を開きかけた時、「ファルネティ伯爵」と呼ぶ聞き覚えのある声に振り返り、その姿を見て力が抜けそうになった。
「ファルネティ伯爵夫人、先ほどは失礼しました」
……そう呼び止めたのはジェラール公爵だった。彼は血塗れではなかったし、何処も怪我をした様子はない。しっかりとした足取りで、こちらに近づいてくる。とうとう立っていられなくなって、ファルネティ伯爵がセレスの体を支えた。
「どうしました?顔色が悪い」
「……具合が悪いようで、今から帰るところです」
答えられない私に代わり、ファルネティ伯爵が答えた。
「本当に申し訳ない。無礼な客人のせいで、あなたには不快な思いをさせました。挽回の機会を与えていただければ幸いです」
セレスの力の抜けた片手をジェラール公爵は取って、甲に口づけた。
手袋越しでも彼の息遣いを感じる。先ほど見たのは悪夢だったのか、幻だったのか、あれほどの怪我を負って無事にすむ人間がいるはずはない。あんな怪我をこんな短時間で治すなんて、神殿の治療師でも無理だ――でも
(……アデライードなら無事だったかもしれない)
彼の着ている上着は意匠は微妙に異なり、ジレは、先ほどのブロケードではなく黒絹の簡素なものだ。彼は私に微笑みを向けた。柔らかく、優しげに見える微笑み、だが緑の瞳には冷たいものが宿っていた。
リュリーの悪意など児戯に等しい。
私が足に力を入れ、床を踏みしめて自力で立つと、彼は笑みを深くした。
「ファルネティ伯爵夫人、また会えるのを楽しみにしています」
彼が通り過ぎると、僅かだが、血の香りが鼻腔を刺激した。
彼の後ろ姿が見えなくなっても、暫くぼんやりと眺めていると、ファルネティ伯爵が心配そうに小声で話しかけてきた。
「……大丈夫か?ジェラール公爵に何かされたのか?」
「……いいえ、なにも、何もされていません」
そう答えた時、地面を揺らすほど大きく鈍い音が響き、絹を裂いたような、叫び声が外から聞こえた。耳をつんざくような叫びは次々と上がり、尋常ではないことがおきたのだと、嫌でもわかった。
音楽は止み、あたりは騒然として、私は止めるファルネティ伯爵を振り切り、叫び声の聞こえる中庭へと急いだ。
「人が落ちてきたんですって」「しかも噴水の上に」「身投げかしら?」「迷惑なことだ」「何もここで死ななくても」「ブリュネ子爵も災難だね」
庭への入り口に近付くにつれ、見た光景や聞いたことを話す声を耳が拾う。
大広間を抜け、中庭に続く扉を抜けると、噴水の彫刻、シューベリとアポロニアの邂逅の場面――腕を開いたシューベリに背中から抱きとめられるかのように、事切れた男の体が引っかかっていた。
彼の赤い血が、シューベリと頭部の飾りが壊れたアポロニア像を彩り、噴水の水は彼の血液と一緒に、赤い放物線を描いて、水面に落ちた。
裂かれた腹部以外は、彼はきれいに残っていて、恨めしそうに夜空を見上げた顔は、間違いなく、ジェラール公爵を襲った男だ。
だが、男の身に着けた服は、給仕の黒いお仕着せではなく、ジェラール公爵が身に着けていたものと同じだ。金糸が織り込まれた豪奢なブロケードのジレは、無惨に切り裂かれ、血塗れだった。
――きっと彼が自分のものを着せたのだ。
男は、シューベリからアポロニアに捧げられた供物のようだった。
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