3-6 取引と恐喝
ジェラール公爵に手を取られて、大広間へと歩いていく。これは、とても名誉なことだ。
北部の田舎貴族が、高位貴族、それも皇帝陛下の弟君にエスコートされている。リージュにいるセレスの叔父が見たら小躍りぐらいはするかもしれない。
それに、貴族が抱いたセレスの印象、あのみっともない姿を拭いさるのに、今の名誉ほど効果的なものもない。だが、私の心は晴れなかった。
物事には必ず代償がつくものだ。
それを、セレスが払えるかが問題だった。
「クラン伯爵夫人が紹介してくれて手間が省けました。あなたに会いたかったんです」
山羊革の長手袋は正装する際、必ず身につけなければならないものだったが、セレスにとっては煩わしいものだった。これを身につけるたび、セレスの記憶――アデライードと一緒に素手で野花を摘んでいた頃が懐かしくなっていた。
だから、今夜ほど、その存在を有り難く思ったことはない。素手でこの人に触れるなんてぞっとする。
「踊っていただけますか?」
「……私などで良ければ喜んでお相手いたしますわ」
本当は「いや」と言いたいが、あんな事を聞いたあとでは、断る訳にはいかなかった。
クラン伯爵夫人は満足気に、エベール侯爵夫人は少し不安そうに私を見送った。
音楽は、流行りの軽やかな三拍子。手を取られて踊る男女の輪の中に入り、音楽にあわせてステップを踏んだ。
いつもは踊りの教師やアデライードと踊っていたので、こうして男性と踊るのは初めてだ。セレスが踊るのは、半年振りだったが、体は覚えているのか練習通りに動いた。
セレスやアデライードが夢見た、エンドルフの舞踏会――現実は想像した華やかな面だけではなかったし、しかも踊る相手は腹黒い公爵だ。夢も何もない。
彼が何を企んでいるのかは、その笑顔からはわからなかった。
「先程おっしゃった意味はどういうことでしょうか?」
黙って見つめられているのも苦痛で、先程、耳打ちされたことを尋ねた。
「狩りの時、君を貶めた女に恥をかかせろと愛人に頼んだ」
ターンしたあと、彼はセレスの腰にあった手に力を入れて引き寄せた。なるべく触れないようにしていた手が、その拍子に彼の背中に触れる。女性のものと違い固く逞しい。ちっとも素敵だとは思わなかったし、むしろ、げんなりした。
「少し煽ったら、あの女が私の愛人に手を上げた。それだけのことだが、ファルネティ伯爵はあの女を許さなかったようだな」
ジェラール公爵が善意で、そんな事をするはずがないし、彼が、ファルネティ家の内情をこうも知っていることにも、ぞっとした。
立ち止まりそうになった私の手を掴んで引き、そのまま腰を抱いて回ったので、なんとかダンスの体裁を取る。
「嬉しくないの?」
彼は首を傾げた。自分がここまで気にかけてやったのだから嬉しいのは当たり前だろう、とも言いたげだ。嬉しいはずないし、その高慢さが腹立たしい。だいたい、そのせいで計画が狂ったのだから。私が無言でいると彼は肩をすくめる。
「そんな睨むものじゃない。そのあと君は上手くやったよ。家門と夫を醜聞から守った」
彼は私の腰から手を離し、反対の私の手を握った手を上にあげる。私は話しに気を取られていて、慌ててスカートの裾を翻しくるりと回ったが、周りの女性より少し遅れた。私のみっともない動作を彼は気にせず、遅れたステップに合わせる。
「だが、甘い」
この人から見れば、私のやることなす事、何もかもが甘いんだろう。でも、人を人と思わないような人に「上手くやった、完璧だ」と誉められたとしても嬉しくはない。
再び、腰に手を添えられて、私は背中に手を添えステップを踏むことに集中した。
「お伺いしてもよろしいですか?」
「ああ、どうぞ」
「夫に何か話しましたか?」
「君を大切にするように助言しただけだ。それに結婚して半年もたつのに、妻に触れられないのが可哀想でね」
あの晩餐のあとのファルネティ伯爵の変な行動はそのせいだったのかと。余計なお世話だったと言いたい。
「だが、君は嬉しくなさそうだね」
「公爵のお手を煩わせることではありません」
「なるほど。そこまでは必要なかったか」
そこからは会話はなく、私は練習通りに踊りに、彼もそつなく踊った。
ようやく苦痛しかないダンスがおわり、私は思わず息を吐いた。
(……やっと終わった。エンドルフの舞踏会なんて楽しいことは何もなかった)
ただアデライードやエロイーズと一緒に憧れていた時の方が、よっぽど楽しかった。
ジェラール公爵から手を離して離れようとしたが、腰に手を回された。動きを阻まれ、気が緩んだせいか喉がひきつって「ひっ」と声が出る。
彼は苦笑し、腰からは手を離したが、そのまま肩を抱こうとしたので、足を半歩踏み出して逃れた。
ジェラール公爵と一緒にいるせいか、周りの令嬢たちの視線も痛い。次の曲が始まる前にここから去りたかった。
「ファルネティ伯爵夫人、悪いがまだ話しは終わってないんだ。君にとっても悪い話じゃないはずだ。少し二人きりで話しをしたい」
(私は話すことなんてないんだけど……)
げんなりした気持ちがそのまま顔に出ていたのだろう。ジェラール公爵は片眉をを上げて笑い。小馬鹿にされているようで腹立たしさが募った。
彼は再び私の肩に手を回して、彼の指が素肌に触れたので肌が粟立った。……腰の方がマシだった。
拒否反応に気付いたのか、彼は肩から手を離して腕を差し出した。
仕方なくその腕の隙間に手を添えて、歩き出す。
「夫の派閥のことは、私は何も存じ上げません」
「それはどうでも良いかな。今は」
今は、ということは、いずれはその情報が欲しいということだろう。内心ため息をつく。
クラン伯爵夫人は戻ってきた私たちに軽く拍手をして「素敵だったわよ」とにこやかに言い、エベール侯爵夫人は少し硬い笑顔を向けた。
ジェラール公爵が、「少しファルネティ伯爵夫人をお借りしても良いですか?」と言った時、クラン伯爵夫人は快く「どうぞ」と送り出したが、エベール侯爵夫人は顔から笑顔を消した。
始終、にこやかにしていたエベール侯爵夫人が、ジェラール公爵を見て表情を強ばらせたのは気になるし、この温度差にも違和感を覚えたが、そのままジェラール公爵が歩き出したので、それをあとにする他なかった。
「エベール侯爵夫人は、皇室に対してあまりいい思い出がないんだ。嫌われているのは私だけじゃない」
私の心の内を知ってか、ジェラール公爵はそう言ったが、その言葉は信じられなかった。
そう話して歩く間、周りの人々は私達に眼差しを向けてきた。表情から読める感情は様々だが、好意的なものなんてほぼなく、侮蔑的なもの、嫉妬心を露にしているもの、ただ単に好奇心を剥き出しにしているもの、それが大半を占めた。
あまり心地良いものではないし、何気ない素振りを装って、ついてくる令嬢たちまでいた。
だが、大広間の奥にある二階へ続く階段へ近づくと、あとを追ってきた令嬢たちは、従僕に止められていた。二階から上には限られた貴族しか上がることが出来ないようだった。私が二階の部屋に入れたのは、エベール侯爵夫人と一緒にいたからだろう。
「初対面のはずなのに、よく私のことがわかりましたね」
周りに人がなくなって、ようやく気兼ねせず話せるようになり、私はジェラール公爵に尋ねた。
「特徴は知っていたから、難儀しなかったよ」
セレスの特徴――道化のようだと言われたみっともない姿が、他の貴族に刷り込まれた印象のはずだ。今日のような姿で社交の場に出たのは初めてなのに。
ただ、あれこれ聞いて、彼がそれを答えるかはわからない。私は別のことに話しを変えることにした。
「先程のお話しですが、もう少し詳しくお聞かせいただけませんか?」
「ああ、ここで話せることならなんでも答えよう」
「なんと言って、リュリーに手を上げさせたんですか?」
リュリーは、気の短い方ではなかった。なので、どうやって彼女を煽ったのか知りたかったのだ。
「彼女が自分の卑しい産まれを気にしているのは知っていたから、愛人にはそこをつつけと命じたんだ」
確かに彼女を怒らせる効果的な方法だと思った。リュリーは自分の出自に劣等感を抱いていた。彼女の並外れた向上心もそこからきたものだ。
だが、私が彼女の心の内を知っているのは『とある聖女の物語』を読んで、リュリーの犯行動機を知ったからだ。私がそんな『ズル』をして得た情報を、何故、ジェラール公爵が知っているのか。
それに彼はファルネティ家の内情にも詳しい。
知っていることからしてストロープ嬢のような不確実な噂をあつめて知り得た情報ではないだろう。……それを考えれば、答えは一つしかなかった。
(ファルネティ家の使用人の中にジェラール公爵の協力者がいる。おそらく何人も)
セレスの今の姿も、そこから得た情報なのかもしれない。
「そういったことを、どこでお知りになるのですか?」
「それはここでは答えられないかな」
おそらく答えるはずはないと思って聞いてみたが予想通りの反応だった。
(誰が内通者か考えるのは、今はよそう)
自分の生活が、この男に筒抜けなのは不快だったが、多くいる使用人たちの中から、それを調べるのは困難だったし、そんな『犯人捜し』をして、せっかく築き上げた信頼関係を壊したくない。
私は、クラン伯爵夫人たちと話したような部屋へ行くと思っていたが、先程の部屋の扉を通り過ぎ、更に奥へ行こうとするジェラール公爵にそのままついていっていいのかと、不安になって、立ち止まった。
「お話しなら、ここでも出来ませんか?」
そう告げたが、ジェラール公爵は軽く笑い声をたてた。
「廊下では障りがあるね」
そう言って、彼はそのまま私を連れて行こうとしたが、私は手を彼の腕から離した。これ以上深入りしては危険だと思った。一度、深く息を吸い、彼を見据える。正直に全てを話して、彼から離れた方が良いと思った。
「無礼を承知で申し上げます。
公爵がなさったことで、私の計画は狂いました。
リュリーはいずれ屋敷から出して結婚させるつもりだったのです。ですが、公爵が彼女に愛人をけしかけたことで、その時期が早まり、夫は激怒して、危うく家門の恥となるところでした。それに、夫との仲を取り持つことも必要なことではなく、公爵のなさったことは全て不要なことです」
ジェラール公爵は張り付けていた笑顔を、顔から消し去った。
「何をお望みかは知りませんが、私に価値はありません。持っている情報も、特に有益なものはありません。望まれた代償は私には払えないでしょう。……なので、今夜は、ここで失礼します」
私は身を翻して、去ろうとしたが、手首を捕まれて、引っ張られた。
「まだ、話しは終わってないんだ。価値があるかないかは、私が決める」
「それなら、もっと価値あるものをお選びになっては?」
彼は乱暴に掴んだ手首を上げて、セレスの体を自分へ向けさせた。
「ファルネティ家を陥れるのは骨が折れるが、デュシャン家を陥れるのは容易だ。金はあるが地位はない」
明らかな恐喝だった。大きな声ではないが、彼の表情の獰猛さに震えた。これが彼の本性なのだと知った。怖くて身体が震えるのを止められない。
「さっきの勢いはどうした?」
彼はつまらなそうに、そう言った。私は悔しくて唇を噛みしめる。じっとしていると泣きそうになってきて、ますます悔しくなってきた。彼は私の腰に手を添えるとそのまま奥の階段へと歩いていく。
「……どちらへ行かれるのですか?」
「ブリュネ子爵に、ある人と内々で話しがしたいから場を貸して欲しいと頼んだら、何を勘違いしたのか客室を用意してくれた。君は嫌だと思うが、密談するにはいいだろう」
私が目覚めた時から、いや、それより以前からセレスはジェラール公爵の手の上にいたのだろう。一朝一夕で間諜を忍ばせることは不可能だ。私が何をしても情報は筒抜けで、彼の指先一つで行く末が決まったのだ。
このまま、彼を突き飛ばして逃げたかった。でも、逃げれば、彼はあの恐喝通りのことをするに違いない。
彼は第四皇子を好ましく思っていない。ただ派閥の情報を彼に伝えるだけなら、まだマシだ。いずれアデライードの足を引っ張るような真似を命じられるかもしれない。彼女を裏切るような真似だけは絶対にしたくなかった。そんなことをするなら死んだ方がいい。
(アデライードを裏切るようなことをさせられるなら、いっそ、足掻かずに大人しく殺された方が良かったかもしれない)
まるで、屠殺場に連れていかれる羊のような気分だった。草原を遊びまわって産まれた悦びを味わい、飼い主に可愛がられて愛敬をふりまいても、運命は決まっている。
「……そんな死にそうな顔をするものじゃない。何も無体を働くつもりはないし、君は私の好みじゃない」
私は答える気力がなく、黙って足をすすめることしか出来なかった。彼は、私の様子に呆れたように、ため息をつく。
「先程は言い過ぎた。君が思ったより気丈だったから、あれぐらいの脅しは必要だと思ったんだ」
私が大人しく従っているせいか、彼は声と表情を和らげて言った。
「ですが、ご自分の意に私が沿わないなら、おっしゃった通りのことを、なさるつもりでしょう?」
「分かっているのなら、話しは早い。私からの提案は、君にとっては悪い話しじゃないはずだ。これは取引だよ」
取引というのは、お互いが対等な立場にいるからこそ成されるものだ。彼がしていることは恐喝に他ならない。
この人は地位を利用して、人を踏みにじる事をなんとも思わない。盤上の駒を動かすように、人を操れると思っているのだ。
「君が何を望むのか、ちゃんと調べなかったのは失敗だったと認めるよ。
君は、ついこの間まで、愚かにもあの侍女の言いなりだった。多少装いを変えても、弱々しく頼りなかったし、そんな力があるようにも見えなかったから喜んで貰えると思った。私としては君に取り入る為の、贈り物のつもりだったんだよ。
だが、君は自分で方をつけるつもりのようだったし、夫との仲を取り持つのも必要ないと言う。
……それに私が思った以上に君は小娘だった。――これも計算外だった」
いらない贈り物を貰って誰が喜ぶと言うのだろう。それに、セレスを馬鹿にしたような口振りに腹が立った。
「何もかも、ご自分の思い通りになると思ったら、それは間違いです」
彼は私の反論を鼻で笑った。
「そうだろうな。だが、結果はこの通りだ。思い通りになっている」
「きっと、ろくな死にかたをしませんね」
むしろ、そうなれば良い。こんな男は酷い目にあって死んでしまえばいいと思った。
「ぼんやり生きていたら、いずれはそうなるだろうと私も思う。シューベリの血を引く者は、皆、神への供物だ。だが、そうなる運命なら、与えられたものを利用して抗っても罰は当たらないだろう」
三階に上がると、かすかに大広間で奏でられる音楽が耳に入ってくるが、人気は全くなくなった。招待客が訪れない廊下までは、暖めていないようで、少し肌寒い。
廊下をだいぶ進んだ先にある観音開きの扉の前にくると、彼はそれを開けた。
彼と共に中に入ると、室内であるはずなのに冷たい風が頬を打つ。
バルコニーへ続く、ガラス張りの扉が開け放たれていた。
カーテンが靡いて、綺麗に調えられていたであろう、ベッドの上の覆いは剥がれ、暖炉の火も消えている。唯一の光源は、ベッドの横の卓にあるランプだけだ。
ジェラール公爵は舌打ちをして、その扉を閉めた、その時、気配もなく現れた黒い影が彼の背後に忍びより、彼が振り返った瞬間、光る刃物が彼の腹を深く貫く。
瞬く間の出来事だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます