3-2 物語最大の悪役
エベール侯爵の姓名はマリウス・エベール、第四皇子の側近の一人で、年齢は二十をいくつか過ぎたぐらい、エベール家の若い当主だ。
姿だけ見れば、白皙の、彫刻のように美しい容貌と、背の高い逞しい体つきに、ときめく女性は多いかもしれないが、私は素直に称賛する気にはなれないと思った。
何かを諦めたような眼差しと、冷たい表情に、人間らしい温度が感じられなかったからだ。
金色の髪はアデライードとは違う、金属のような硬質な輝きで、緑の瞳は、暗闇で光る獣の目のように鮮やかだ。それが彼の作り物めいた冷たさを一層、際立たせていた。
これから彼がしようとしている事を知らなかったとしても、得体の知れない恐怖を感じただろう。
彼は訝しげな表情を浮かべて首を傾げた。
「また新しい愛人でも連れてきているかと思ったら、こんな舞踏会に奥方を連れてきたのか」
ファルネティ伯爵は驚いて、言葉を失って黙っていた。私も驚いた。曲がりなりにも妻の前で、愛人の話を、それも初対面のセレスの前で言うことではない。
「……初めまして、エベール侯爵」
恐怖で固まっていたが、ファルネティ伯爵と同様に驚いた為か、声帯と唇はなんとか動いた。だが、笑顔は浮かべることは出来なかったし、声は震えている。
エベール侯爵は、セレスを観察するように、何かを探るように見つめた。
「一度会っていますよ、結婚式の時にお会いした」
感情の読めない淡々とした口調で彼は言った。
結婚式と披露宴に彼は招かれていただろうし、もしかしたら、挨拶もしたかもしれないが、セレスはあの日、熱で意識が朦朧としていて、殆んど何も覚えていなかった。
「ところで、君の前の愛人はどうした?」
エベール侯爵は、セレスから視線を外し、ファルネティ伯爵に、また妻の前でするべきではない質問をした。
「……今、ここでする話しではないだろう」
私と同様のことを思ったようで、ファルネティ伯爵は気まずそうに、視線をさ迷わせ、私の顔を窺った。
「私のことはお気になさらず、どうぞ、お続けください」
人の奥さんの前で、随分、あけすけなことを聞く人だなとは思ったが、別に隠すことでもない。
私の了承をえたファルネティ伯爵は声をひそめて答える。
「屋敷から出した」
「それだけ?」
ファルネティ伯爵の返答が気に入らないのか、彼は片眉を上げた。
『とある聖女の物語』では、リュリーとエベール侯爵は特に接触しなかったはずだが、この間の狩りでリュリーと、何かしら交流があったのかもしれない。
彼女に同情しているのか、はたまた、想いを寄せている?それはそれで厄介だが、私はエベール侯爵が、どういう性格なのか詳しくは知らないし、好みの女性がどうだったかなんて知らない。
持っている肩書きや家族構成は、もちろん知っているが、彼のことはよくわからないのだ。……彼が数年後に起こす、とんでもない事件以外のことは。
そして、その冷たい表情からは何も読み取れなかった。
「……後の生活も保証してやるつもりだ」
ファルネティ伯爵は、冷たいエベール侯爵の表情に耐えられなくなったのか、根負けしたように事実を告げたが、エベール侯爵は柳眉を逆立てた。
「甘い。君らは甘すぎる。彼女が何をしたか、考えたのか。ああいう人間は、情けをかけても感謝などしない。いつか君らの首に牙を向けるぞ」
そこまで大きな声ではなかったが、強い口調で彼は言った。
人間らしい感情を表に出さないと思っていた彼が、怒りに似た表情を浮かべたので、私は呆然とし、ファルネティ伯爵も同じように驚いていたが、私は僅かな違和感を覚えた。
エベール侯爵は、私達の呆然とする反応を見て、自分の言動を恥じたのか、怒りを顔から消すと、「すまない」と謝罪した。
「いや、謝らないでくれ。ここまで私達のことを心配してくれるのは、嬉しいよ」
ファルネティ伯爵はおかしな雰囲気を拭いさろうとしたのか、給仕を呼び寄せ、少しして給仕が発泡性の白葡萄酒を瓶ごと持ってきた。
「今度はエタン産だ。エベール侯爵の側にいればいい酒にありつける」
酒が注がれたグラスをそれぞれが取り、何のためか、ファルネティ伯爵はグラスを軽く掲げた。
仕方なく私も倣い、エベール侯爵も同じようにする。
「では、愛と友情に」
エベール侯爵が私を見つめてそう言い、ファルネティ伯爵も、私も、同じ言葉を言って、グラスを軽く打ち付けあった。
(……そんな冷たい顔で口にする言葉じゃないでしょう)
ファルネティ伯爵は満足そうにしていたが、エベール侯爵の口にした言葉は、彼には似合わないと思った。この人には一生縁がないとさえ思う。
緑の瞳に見据えられるのが耐えられなくて、私は目を反らして、グラスの酒を飲んだ。葡萄酒の産地の違いは、よくわからないが、先ほどのものより、口当たりも、そして何よりも香りが良かった。恐怖とか驚きで、思ったよりも喉が乾いてしまったらしく、喉を優しく刺激する泡が心地良い。
恐怖で力み過ぎた体を落ち着かせようと、グラスを傾けていると、エベール侯爵は、まだ私にじっと視線を向けていた。それは不躾なほどだった。
居心地が悪くて、理由をつけてその場を去ろうか迷っていると、ファルネティ伯爵が口を開く。
「君が舞踏会に参加するのは珍しいな」
「……母に言われて、仕方がなく来たんだ。用事を済ませたらすぐに帰る」
エベール侯爵はまだ結婚してはいないので、母親としては、早く身を固めて欲しいという想いが強いのだろう。父親を亡くし彼が侯爵位を継いだ。兄弟もおらず、母子二人きりの家族だった。
エベール侯爵の母親、エベール侯爵夫人ルイーズ・ロランのことは、よく知っている。彼女は、北部の出身で、もちろんセレスの実家とは比べものにならない程、由緒ある家門、ロラン公爵家の出身だ。
息子にまだ配偶者がいないから、彼女が侯爵夫人の称号を持っていた。
こんな、無表情で何を考えているかわからない青年の母親とは思えないぐらい、人当たりが良く、親切な人で、あんな、ひどい格好だったセレスにも、気を使って話しかけてくれた。……だからこそ、複雑な気分になる。彼は残されたお母様について、何も考えなかったのだろうかと。
エベール侯爵は数年後、皇帝と第四皇子の弑逆を謀り、アデライードまでも殺そうとする。
第四皇子に忠実に仕える側近で、誰よりも信頼されていたのに。
セレスが生きていた頃、皇帝には三人の皇子がいた。
テレーズ皇后が産んだ、第二皇子カール。
ジネット妃が産んだ、第三皇子エルンスト。
デルフィーヌ皇妃が産んだ、第四皇子アレス。
セレスが毒殺されたのと同時期、皇宮で第三皇子エルンストが毒殺される。
アデライードはセレス殺害の濡れ衣を着せられ、第四皇子アレスは亡くなった兄の敵を取るべく、皇宮でおきた毒殺事件の犯人を探すのに奔走していた。
その調査の過程で、第四皇子はアデライードと知り合う。
二人の最初の出会いはロマンチックなものではなく、むしろ殺伐としたものだった。第四皇子はアデライードを犯人だと思い込んでいて、毒をどのような経路で手に入れたのか尋問したのだ。だが、アデライードの人柄に触れ、最終的には彼女が犯人ではないと信じてくれる。
第四皇子は、セレスの毒殺事件も調査し、一番セレスに怨みを抱いていたリュリーを怪しんで、彼女の行動を徹底的に調べた。
そして、魔術師グルヌイユが、リュリーに毒を売り、第三皇子エルンストを殺した毒を調合したことが判明する。
命じたのは第二皇子カールだった。
第四皇子の調査のお陰で、アデライードは冤罪を晴らすことができたのだが、その第四皇子を陰日向で支えたのが、エベール侯爵だった。
第四皇子はアーヘル熱病の流行の際、何もしなかった神殿に代わり、病に苦しむ民衆を助けることに力を尽くしていた。
そこでギゼラの意思を継いで、治療薬を開発したアデライードと協力し、さらに深く絆を結ぶことになるのだが、アデライードと第四皇子を再会させたのは、エベール侯爵である。
彼は誰よりも忠実に第四皇子に仕えていたのだ。
それなのに、彼は、皇帝と第四皇子の弑逆を謀り、アデライードまでも執拗に狙った。彼女が特異な――どんなに酷い怪我を負っても治る体質でなければ、殺されてしまったかもしれない。
自分自身が皇位につこうとしたのか、前皇帝の皇子であったジェラール公爵を皇位につけようとしたのか、または個人的な怨恨が理由なのかは分からない。エベール侯爵は陰謀が失敗すると、何も語らず自死した。
彼の冷たい表情からは、その狂気じみた野心など感じられない。
むしろ、そのことが、かえって恐ろしかった。
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