第三章
3-1 華麗なる舞踏会とその裏側
じっとりと舐めるような視線に耐えながら、無理矢理、愛想笑いをした頬はひきつりそうになっていた。
ファルネティ伯爵も、挨拶だけでなく、そこから会話が続くとは思っていなかったようで、うんざりした様子を隠そうともしなかったが、私たちがブリュネ邸の玄関ホールに入ってすぐ話しかけてきたルゴフ子爵は、そんな様子を気にすることもなく、ファルネティ伯爵に喋り続けている。
彼にしては丁寧な言葉遣いだったが、この男の下劣な本性はそんなものでは隠せない。それに私はこの男がジゼル・ベルナールにしたことを知っていた。
今夜、参加したのはブリュネ子爵夫妻が主催する舞踏会だった。
ブリュネ家の令嬢が社交界デビューしたので、未婚の貴族達の為に出会いの場を子爵夫妻が提供したのだ。もちろん、一番の目的は娘のお婿さん選びの為だ。
ブリュネ家はファルネティ家よりも劣る家柄だったし、既婚者のセレスは参加する必要がない催しだったが、皇都の若い貴族令嬢達が集まると聞いて、ファルネティ伯爵が恋に落ちる相手、ジゼル・ベルナールに会えるかもしれないと、是非とも参加したくなったのだ。
皇宮の宴には及ばないものの、かなり大規模な舞踏会で、招待客も多い。
屋敷の入り口である、玄関ホールには、着飾った招待客たちが次々と入ってくるのだが、ルゴフ子爵に捕まった私たちは、その歩みを塞ぐ形で立ち止まることになってしまっていた。
ルゴフ子爵は二十代後半の血統だけは素晴らしい高位貴族だ。
だが、見てくれは悪くはないのに、こうも人に不快感を与えるのは、ある意味、才能かもしれない。
まず、粘着質な視線が気持ちわるい。
ずっと、セレスの首元やうなじを見ているのが気持ち悪い。
ずっと、自分の自慢話しかしないのも鬱陶しい。
だが、これはルゴフ子爵を知らない人が、第一印象で抱くもので、彼の私生活を知ったら、もっと不快になるに違いなかった。
結婚はせず、沢山の妾や愛人を抱え、その扱いも良くない。飽きれば捨てるのを繰り返している
噂によれば側室の座を餌に、身分がそこまで高くない娘達を集めているとか。いや、噂ではなく事実だ。
つまり、稀に見るクズだ。
こんなクズに彼女が手折られ酷い目にあうかと思うと、まだ起きていない事なのに、胸がムカつき、吐き気が込み上げてくる。
仕留めた猪の話しが終わり、では失礼と去ろうとしたが、ルゴフ子爵は、私たちに口を開ける隙を与えず言葉を続けた。
「ファルネティ伯爵夫人、ご挨拶が遅れました。初めてお目にかかります。ご参加されるとは思ってもみませんでした」
「初めまして。夫から色々とお話しは伺っております」
……初めてではない。セレスはルゴフ子爵とは初対面ではないのだ。いつぞやの夜会で会ったことがある。
その時のセレスは、似合わない派手なドレスと濃い化粧で道化と嘲笑された格好だった。ルゴフ子爵は不快そうにセレスを一瞥し、挨拶だけして去って行ったのだ。
「このような舞踏会にはいらっしゃらないと思っていました。ですが、ご夫君はあなたを隠しておきたがる理由もわかる気がします。まるで狩られるのを待つ牝鹿のようだ。……ああ、つまり、あなたが美しいってことです」
(とても!気持ちが!悪い!)
今日、身につけたのは、鮮やかな、孔雀緑のタフタで仕立てたドレスだ。
今朝、屋敷に届いたばかりで、アングレ夫人が言った通り、セレスの肌と髪の色にとても馴染んだ。
だが、私がこのドレスを身につけ、お気に入りの薔薇とマンダリンの香水をつけたのは、間違ってもルゴフ子爵を楽しませ、不快な視線に晒すためではない。
「良ければ、大広間で一曲、踊っていただけませんか?」
感じていた寒気はさらに強くなった。この男と手を握りあい、体を寄せて踊るなんて、想像するのさえ無理だ。
彼はセレスの顔よりも、首元が気になって仕方がないのか、そちらに視線が自然と向いている。
そして彼が見ているのは、身につけた真珠とルビーのネックレスではなくて、肌をじっとりと見ていることに気付いて、ますます寒気を感じた。
「嬉しいお誘いですけれど、先ほどからルゴフ子爵に熱い視線を送っている令嬢がいらっしゃるではありませんか。私のような既婚者ではなくて、あの方をお誘いしては?」
令嬢が見ていたのは、ルゴフ子爵ではなく、その近くにいる別の貴族だったが、興味を反らす為に、そう言ってみた。
だが、彼はセレスのデコルテをじっと見ている。
私は寒気が余計に酷くなり、榛色の目を不快そうに歪めているファルネティ伯爵の腕を掴んだ。
「旦那様、ルゴフ子爵を私たちで独占するのは顰蹙を買いそうです。それに、ブリュネ子爵夫妻にご挨拶もしないと」
「ああ、そうだな。では、またルゴフ子爵」
「では、また」とルゴフ子爵は不平そうに言ったが、ようやくセレスの首から視線を外し、次の獲物の元へと足を向けた。
ルゴフ子爵が離れていくと、安心して息を吐いた。
(ああ、気持ち悪かった……)
想像以上に疲れてしまった。
まだ、クレマンの魔術は有効なようで、お守りのように持ち歩いている魔法陣は青く光っていた。しかし、多少、気丈になれたとしても、ああいう気疲れだけは、どうにもならないようだ。
ファルネティ伯爵にエスコートされながら、大広間に向かって歩き出し無理矢理引き上げていた口角を元に戻す。おそらく、いつも以上に下がって、不機嫌な顔になっていたに違いないが、ひきつった表情筋を少しは休ませたい。
「聞きましたか?『初めてお目にかかります』ですって。初めて会った時のあの方の態度は覚えていますし、忘れられそうにもありません。……あんな方が殿下の側近だなんて、信じられない」
ルゴフ子爵から離れると、不愉快な気持ちが溢れて、思わず愚痴がこぼれたが、ファルネティ伯爵は私の様子に満足そうに笑った。
気に入らない輩に対し、自分と同じように思う人間が側にいるのだから、自然と頬も緩むのだろう。
「ルゴフ子爵はアンベール公爵の外孫だ。皇室も人格だけで側近は選べない。
しかし、驚いたよ。君があんな風に人を断ることが出来るとは思ってもみなかった。ブリュネ子爵への挨拶を急ぐ必要はないだろう」
「だって、あの方の視線が気持ち悪くて。あの方、ずっと私の首を見てるんです。私が過敏なだけでしょうか?」
ファルネティ伯爵は、口許に浮かべた笑みを消して、顔を顰めた。
「いや、正しい反応だ」
「それなら良かったです。
……それに、前にも申し上げましたけど、いつまでもびくびくしていたら何も出来ないでしょうだから改めなければいけないと思ったのです」
「それで、この舞踏会に出席したいと言い出したのかい?」
「……会いたい方がいるんです」
「それは誰?」
ファルネティ伯爵の質問に、『あなたが恋に落ちる相手、ジゼル・ベルナールですよ』とは、答えられないので、私は答えず……いや、正確には大広間の光景に目を奪われ会話が続けられなくなった。
「……素敵」
今日は少し寒く、雪がちらついたが、その季節を忘れるほど目の前に広がったエンドルフの舞踏会は、それは華やかだった。
元々、金の装飾をふんだんに使った豪奢な設えの大広間は、沢山の花や絹のリボンで飾られていて、奏でられる音楽にあわせ、着飾った大勢の男女が踊っている。
高い天井に吊るされたシャンデリアや燭台の光が女性達の身につけた宝石をキラキラと輝かせていて、彼女達がターンをするたびに、ドレスの裾が広がり、色とりどりの花が開くようだった。
「君がこういう場を好むとは思わなかったよ。前に来た時は一刻も早く帰りたそうだった」
「あの時は緊張し過ぎて、楽しむ余裕なんてなかったのです。それに今夜の舞踏会は、華やかで素敵ではありませんか?」
セレスも、リージュとは比べものにならないと人伝に聞いたエンドルフの舞踏会には憧れてはいたが、言葉の通り、緊張し過ぎて楽しむ余裕はなく、前に参加した時のことは何も覚えていない。
ただ、ファルネティ家が懇意にしている家や同じ派閥の夫人達に挨拶をするのがやっとで、それすら上手く出来ていたか怪しい。
「確かに、今夜の舞踏会は華やかだ。きっとブリュネ子爵令嬢の持参金もそれに見合ったものになるだろう。だが、見た目だけじゃ、わからないこともある」
そう言って伯爵は給仕が持つ盆の上から、グラスをとり、私に渡すと、自分もグラスを傾けて一口飲んだ。
「酒の質はあまりよくない」
言われた通り、その発泡性の白葡萄酒は少し雑味があった。
「お酒ぐらい大目に見ては?これだけ大規模な催しを開くのは容易なことじゃありません」
「リージュではどうだったかわからないが、エンドルフではこういう細やかなことにも目を配らせないと、足元を掬われる」
「エンドルフって意地悪なところなのですね」
正直な感想を述べると、ファルネティ伯爵は肩をすくませた。
「一握りの人間達が、さらにそこから選ばれる為に、鎬を削っている場所だ。これぐらいの事で足を引っ張りあうのは、まだ可愛いものだよ。宮廷はもっと恐ろしい」
「ですが、エタン産の高級品を、これだけの人数分揃えるのは、かなりの金子が必要になります」
私の返答に伯爵は満足そうな表情を浮かべた。それは、家庭教師が、セレスが良い質問をした時の表情と似ていた。
彼は酒を飲み干すと、グラスを少し傾け、ある集団をさりげなく指す。
「あれが見えるかい?」
その集団は、お仕着せの給仕に指示をする男たちだった。身なりからして従者と従僕たちだろう。
その従者達に指示をするのは、それより年かさの男性だった。彼は酒瓶を従僕に渡し、何か耳打ちしていた。
「この家の家令だ。高位の貴族や、もてなすべき客には、それなりのものを出すんだ。
それに、ブリュネ子爵も最初は、ここまで大規模な舞踏会にするつもりはなかった。始めは高位貴族だけ招くつもりでいた」
「何か理由が?」
彼は小声で私に耳打ちした。
「借金だ」
伯爵の言うことがさっぱりわからず、周りに声が聞こえないよう、扇を広げて小声で尋ねた。
「借金があるのに、お金のかかる宴を開くなんて、意味がわかりません。どういうことですか?」
「ブリュネ子爵は元商人の新興貴族、ストローブ男爵から金を借りて、娘の持参金にあてた。
そのストローブ男爵にも年頃の娘がいてね、娘の為に出会いの場を求めて、子爵に自分たちを舞踏会に招待して欲しいと、願い出た。
もちろん、この舞踏会を開く為の費用の大半は、ストローブ男爵が負担することを約束して。
ブリュネ子爵は承諾するしかなかった。
だが、そのストローブ男爵を、上位貴族が集う舞踏会に招いたらどうなると思う?」
「……ストローブ男爵より身分が上の方を、招かないわけにはいきませんよね。付き合いのある方は特に不満に思うでしょう」
「そう、その通り。それで招待客の数が膨大に膨れ上がったという訳だ。それにブリュネ子爵令嬢の婿候補は、既に幾人か目星がついている」
「では、この舞踏会はブリュネ家のご令嬢のためのものではなくて、そのストローブ結婚の令嬢のための催しなのですね」
私はため息をついた。
こんな、夢みたいにきらびやかな舞踏会なのに、裏の事情は、なかなか複雑だし、人の欲とお金が絡んだ話しを聞けば、目の前に広がる光景の印象は変わってくる。お酒を楽しむ気もなくなって、ちょうど近くにいた給仕に飲みかけのグラスを渡した。
「そういうことだ。ブリュネ家は娘の結婚で家門の勢力を広げるつもりだ。
ブリュネ夫妻が娘の婿にと狙いを定めている貴族は、どれも宰相の親類か懇意の貴族ばかりだ。利権に絡んだ願い事を婚家に頼むつもりなのだろう。……ああ、今、中央で踊っている褐色の髪の娘がいるだろう。あれがブリュネ家の娘だ」
薄桃色のドレスを翻しながら踊る娘は、セレスと同じ年ぐらいに見えたが、踊る相手は同世代の青年ではなく、中年に差し掛かった紳士だ。
彼女は華麗にステップを踏んではいたが、顔に浮かべた笑顔は、張り付いて取れない透明の仮面をかぶっているようだ。
「だが、貴族はこういう金子が絡む事情には疎い。
元々、ブリュネ子爵が借金をした原因は投資の失敗だ。
皇室が商業への投資を貴族にすすめるようになって、投資をする貴族は増えてきているが、……皆が皆、成功する訳ではない。
そうやって、力を失くしつつある貴族とは反対に商人は力を付けてきている。爵位を買う商人も増えた。
おそらく、これから、こういう催しは増えてくるだろうし、新興貴族と婚姻関係を結ぶ貴族も増えるはずだ。
だが、舞踏会に金を出すストローブ男爵も動揺しているだろうな。一晩で予想以上の金子が消えるのだから」
ファルネティ伯爵は、自嘲するように笑い、少し苦い顔をしていた。
私は、彼がこんな顔をする理由がわかる気がした。
何故なら、セレスとの結婚こそが、その典型なのだから。
セレスは貴族だったが、本来であれば、ファルネティ家と婚姻関係を結べるような家柄ではない。
「そうやって、私達は、沈む船の上で見栄を張り合いながら、毎晩、巨額の富を消費しているんだ」
少し、憂いを含んだ声でファルネティ伯爵は呟いた。
あらためて、彼にとっての理想的な結婚とは、どんなものだったのだろうかと考えた。
彼が、私の想像以上に、貴族の権威を重んじる人だというのは、先日のリュリーをどうするか言い争った時に、痛感した。
きっとセレスとの結婚は、家門の為であっても屈辱以外のなにものでもなかったのだろう。しかも、自分が家門を傾けた訳ではなく、死んだ父親の失敗を尻拭いするための結婚だった。
彼の理想的な結婚は、身分の釣り合う相手との結婚だったのか、それとも『とある聖女の物語』では記されていない、想いを寄せていた高位貴族の女性がいたのだろうか。
それなら、なおのこと、彼をセレスに縛りつける訳にはいかない。
「君もいずれ、こういう催しを開くことになる。カルロやマーサと相談すれば、だいたいのことは大丈夫だ」
湿っぽくなった雰囲気を拭うかのように、明るい声で彼は言った。
「だが、彼らはこうやって舞踏会に参加する訳ではないし、他の家の貴族と直接交流がすることはないから、貴族同士の力関係には目が届かないこともある」
「誰を招待するか、誰に価値ある酒を飲ませるべきかを、私達が判断するのですね」
私の返答に彼は満足そうに頷いた。
真の夫婦にはなれないけれど、こうやって力をあわせあって、いければいいのかなと、私は思った。
もちろん、彼女が、実を取りたいと言うのなら、喜んで譲る気ではあるけれど。
「追々の話しだよ。今日は場に慣れて、楽しめばいいさ」
そう言って彼は、手を引いて、踊る男女の輪の中に私を連れていこうとしたが、私は足を止めた。
ちょうどファルネティ伯爵と同じ派閥の夫人達が目に入ったのだ。運の良いことに、エベール侯爵夫人がその輪の中心にいる。……あのエベール侯爵の母親だが、この人は息子とは違い、親切で人当たりの良い女性だ。
「楽しむ前に、ご挨拶をしないといけません」
彼は、私の目線の先にいる、ご婦人方に気付いて、少し心配そうな顔をした。
「ついて行こうか?」
「大丈夫です。少しお勉強してきます」
何故か彼は少し寂しそうに微笑んだのだが、後ろから名を呼ばれて振り返った。
「ああ、マリウス。グンテルは元気か?」
ファルネティ伯爵が親しげに挨拶をする相手、輝く金髪で、緑の瞳を持つ、長身の男の姿が目に入り、私はルゴフ子爵と話していたときとは違う、寒気で足をすくませた。
「まだ君に紹介していなかったな、エベール侯爵だよ」
ファルネティ伯爵は、笑顔で彼の肩に手を置いて、紹介したが、私は喉がひきつって、挨拶をすることが出来ない。
緑の瞳が、射るほど強い眼差しで、こちらを見つめていた。
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