2-2 医師クレマン
「ギゼラの息子、クレマンです。寄付のことでお話があると母から聞きました」
クレマンは思慮深い瞳をした知的な顔立ちの人だった。ジレのうえに白衣を羽織っていて、いかにも中産階級の医者らしい格好だ。清潔な綿の白衣からは薬品とハーブの香りがした。
そしてギゼラの子供とは思えないぐらい、礼儀正しく、穏やかな口調だった。
彼は、医者でもあり、等級六だが魔力もある。いずれアデライードに医術について教えることになる人だった。
「初めましてセレス・デュシャンです」
しばらく使うことがなかった名刺を彼に渡したが、彼は、ファルネティ家の紋章を確認しただけで、受け取らなかった。
「申し訳ありません。貴族の方の名刺は受け取らないのです。……余計なお世話かもしれませんが、こういう身分を示すようなものを、気軽に庶民に渡すのはよろしくないですよ。悪用されますから」
クレマンの忠告に、自分の無知が恥ずかしくて顔に熱が集まった。
通された応接室は、暖かみのある居心地の良い空間だった。
壁は白い漆喰で、柱も梁も焦げ茶色の簡素な造りだったが、飾られた布類が部屋に彩りを加えている。古い家具の上にかけられたカバーや壁掛けは、誰かの手作りなのか凝った刺繍が施されていた。
クレマンは手に持っていたやかんを暖炉の鉄製の吊しにかけて、火掻き棒で灰をかき分けると、残っていた種火で火を起こし薪を足した。
椅子に置かれたクッションの花形のパッチワークが可愛くて、それを眺めていたら「近所の奥さん方からいただいたんですよ。どうぞおかけください」とクレマンにすすめられ、私は長椅子に座り、彼は向かいに座った。
「……この診療所に寄付をされたい、とのことですが、代わりに何をお望みなんでしょうか」
明らかに警戒する口振りで彼が尋ねたので、私は困惑した。
彼らに無理難題を頼む気はなかったし、何か警戒させるようなことをしてしまったのだろうかと考えていると、彼は私の様子を察して「すみません」と謝った。
「ここに寄付される方は、元患者か母の占いの客ばかりなんです。初対面の方から寄付を申し出される時は、非合法の事を頼まれることが多いものですから」
「非合法?」
「例えば、毒の調合などです」
「毒!?」
私は驚いて、聞き返した。クレマンは私の反応に安心したのか、少し肩の力を抜いた。
「そんなことではなくて、当家の主治医をお願いできないかと伺ったんです」
私がそう告げると、クレマンは再び肩に力を入れ、表情を固くした。
「他にふさわしい医者がいくらでもいるでしょうに、何故、こんな場末にいる医者を主治医にしようとするのですか?」
「友達から、ギゼラさんとクレマンさんの事を聞いて、それで、信用が出来る方だと思ってお願いにきたんです。
主治医になって頂けるのであれば、報酬とは別に寄付もお約束します」
「その報酬と寄付を得る代わりに、何かあなたの要求を飲む必要があるんでしょうか」
「……そうです」
クレマンは私の返答に、私から視線を外し、あからさまではないが呆れたような表情を浮かべた。
「ありがたいお申し出ですが、お断りします」
柔らかい口調だったが、はっきりと拒否されて、私は、自分の浅はかさを後悔した。
昨夜、ファルネティ伯爵を説得出来たように、熱意が伝われば、なんとかなると愚かにも思っていたのだ。
『とある聖女の物語』を読んで、私はギゼラとクレマンの事をよく知っていた。信用が出来る人達だと分かっていたが、彼らはそうではない。
知らない貴族が突然やってきて、報酬と寄付を餌に、何か要求を飲ませようとしてきている。これで、警戒しない方がおかしいだろう。
しかも、それ以上に私は愚かな真似をした。
職を約束し、お金を渡せば、彼が自分に協力してくれると無意識に思い込んでいた。
私は、彼らの誇りを踏みにじったのだ。
「……申し訳ありません」
相手の立場や尊厳を何一つ考えてなかった自分を恥じて謝った。
「何故、謝るんですか?あなたの申し出を無下に断ったのは私ですよ。謝る必要はないです」
クレマンははっきりと不快感を示すように、顔をしかめる。
「そ、その……私……深く……考えずに、あなたに、要求を、飲ませようとしたことです」
しどろもどろに話す私を、クレマンはじっとみつめたが何も言わなかった。
「私が信用ならないのは理解しています。
ですが、寄付はさせて頂けないでしょうか?
ギゼラさんとクレマンさんはアーヘル熱病の治療薬の研究をされていると伺いました。その支援がしたいのです。費用をどう使うかの報告はいりませんし、見返りもいりません」
寄付だけは、なんとしてでもしたかった。
資金があれば、あの治療薬はもっと早くに出来たかもしれないのだ。そうすれば、沢山の人が助かる。
アデライードが貴族であったにも関わらず、寄付は思うように集まらなかった。資金があれば、あの治療薬はもっと早く出来たかもしれないのだ。
セレスの夫だったファルネティ伯爵はすでに隠遁していた。
アデライードの父グレゴワール侯爵は娘がアカデミーに入学せず、ギゼラの弟子になったことに激怒していて、アデライードは勘当されていた時期だった。それで北部の貴族の縁故は一切使えなかったのだ。
このままだと、私はクレマンに信用されず、一切、寄付を受け取ってもらえないかもしれない。それに、アデライードが、私が余計なことをしたせいで、ギゼラの弟子になれなくなるかもしれない。それだけは避けたかった。
「お願いします」
私が、すがるように頭を下げると、クレマンは私の様子に同情したのか、少し表情を和らげた。
「不躾な質問ですが、アーヘル熱病でご家族か親しい方を亡くされましたか?」
私は、祖母の事を思い出して、目頭が熱くなった。
「……祖母が十年前の大流行の時に亡くなりました」
祖母がアーヘル熱病に罹患し、私とエロイーズは子供は罹ると死んでしまうからと、会わせて貰えなくなった。
エロイーズと大人達に隠れて、祖母の部屋の外から中の様子に聞き耳を立てると、中から弱々しい声で、エロイーズと私の名を呼び、母に謝り、最後に孫達に会いたいと懇願する祖母の声と、母の嗚咽が聞こえた。
祖母は母に冷たくて、息子たちに呆れられるぐらい頑固で高飛車な人だった。
あんなに気丈だった祖母が、弱々しく変わってしまったことに激しく動揺して、私が祖母の部屋に入って会いに行こうとするのをエロイーズは必死に抱きついて止めた。
祖母の弱々しい声と母の嗚咽は、今でも耳に残って離れなかった。
「失礼を承知で言いますが、聞いて頂けますか?」
うつむいてしまった私にクレマンが尋ね、私は顔を上げ、力なく「はい」と返事をした。
「あなたは、もっと、ご自分の立場と持っている力を理解した方がいい。
会ってすぐ、庶民に名刺を渡したり、主治医の職や寄付を申し出たり、あまりにも世間を知らない。
寄付については、正直、助かりますが、こちらからも条件があります。
それを飲んで頂けるのであれば、喜んで受け取りましょう」
拒否されてから一転、喜んで受けとるという言葉に、嬉しくなって、思わず口から了承の言葉が出そうになったが、それを飲みこんだ。
……ここで、条件を聞かずに了承しては、また浅はかさをクレマンに晒すことになる。
「条件は何ですか?」
「寄付の額は毎月、銀貨一枚までです」
真面目に働く工人の日給がだいたい銀貨一枚ぐらい。豚一匹がだいたい銀貨五枚ぐらい。貴族が寄付する額にしては、あまりにも少ない。
「そんな……。少なすぎませんか?」
私は不満を言ったが、クレマンは厳しい顔をした。
「それ以上は受け取りません。理由をお話しても?」
「……どうぞ」
「私があなたのことをよく知らないからです。
あなたが信用に足りると思ったら、額を増やしましょう。
そして、寄付はあなた自身で毎月ここに持ってきてください。
もちろん、一人で来いとは言ってません。今日のようにお付きを連れてくるのは構いません」
つまりは私を信用していない……その通りだった。
自ら寄付をもってこいというのは、嫌がらせとかではなく、自分たちを信用させる為に信頼関係を築けということなんだろう。
「あと、寄付金を何に使ったか、毎月報告書を作成して寄付して頂いた方に渡しています。
あなたは、報告はしなくて良いと仰いましたが、お金を払ったから、自分は何もしなくて良いとは思わないで頂きたい。
もし、私達が寄付金を使って非人道的な事をしていたり、法を犯せば、あなたも加担していたことになるのですから。寄付は、物を買うのとは訳が違うのです。
ですから、報告書には必ず目を通してください。そして、疑問があったり、使い方がおかしいと思ったら、指摘してください。
………私からの条件は以上ですが、不服はありませんか?」
ほとんど納得できることだったが、やはり額については不満があった。
「……あります。いくらなんでも銀貨一枚では少な過ぎます。
先ほどギゼラさんに、占いと診察の代金で金貨二枚払いました。一回の訪問でお支払した額より、寄付が少ないのは、……その、おかしいです」
「金貨二枚……?」
クレマンは何故か両手で覆って深い深い溜め息をつくと、そのまま項垂れた。
「……母はそんなにも、あなたに請求したんですか?」
「はい。ここに私の財布があるんですが、金貨は元々四枚入ってました。今は二枚です。寄付しようとしたので、これぐらいは必要かと持ってきたんです。
あ……ごめんなさい。ギゼラさんにお支払いしたのは金貨二枚と銀貨一枚でした。
ですから、同額ぐらいは払わせてください」
「金貨は庶民が持てるものじゃないんですよ……」
「で、でも、お母様は受け取りましたよ」
「……では、銀貨十枚からでどうですか?それ以上は今は勘弁してください」
豚五分の一から二匹に上がったが、私は少なくとも金貨二枚は寄付するつもりでいたのだ。金貨一枚はだいたい銀貨五十枚だから、予定より一割しか寄付できないことが不満だった。
でも、勘弁して、と言われたので、ここは引き下がるしかないだろう。
私が条件を飲むと答えると、彼はうつむいていた面を上げて安心した表情を見せた。
「今更、言い訳にしか聞こえないかもしれませんが、私が申し出を断った一番の理由は、この診療所を母と管理するのに精一杯で、貴族のご一家を診察する余裕がないのです。
そこはご理解ください」
クレマンは私が「はい」と頷くのを確認すると、
「お茶はいかがですか?母が育てた薬草で作ったもので、大した品ではありませんが」とお茶をすすめてきた。
アデライードがよく振る舞われたお茶だ。
彼女と同じものが飲めることが嬉しくて、食い気味に「ぜひ、頂きたいです」と答えてしまい、クレマンは少し訝しげな顔をしたが、立ち上がって、暖炉にかけたやかんを火から下ろすとお茶を入れてくれた。
陶器の茶碗に注がれたお茶は、薄い緑色で、爽やかな香りを漂わせていた。一口飲むと砂糖を入れていないのにほんのり甘く、爽やかな香りのお陰か頭が冴えてくるような気がする。
(アデライードが、これを飲むと疲れが取れるって言ってたけど、これなんだ)
お茶を飲んでいる私の様子を、不思議そうに眺めるクレマンと目があった。
「美味しいお茶ですね」
素直に感想を言うと、彼は「母の前で言うと高額な料金で売られますので、やめてくださいね」と注意をされた。
「主治医をお探しとのことでしたが、何か訳ありのようですね。今、主治医がいないのですか?」
「いるんですが、この医者は、私の診断結果を偽って夫や私に伝えていたんです。……何も患っていないのに、その……私の体には問題があると。そして、私に効果のない治療をずっとしていたんです」
クレマンは眉間に皺を寄せて渋い顔をした。
「信用出来る医者を何人か知ってます。宜しければ紹介しましょうか」
「……夫には、私が健康だと知られたくないのです」
「ということは、医者の嘘に気付いているのはあなただけですか?」
「はい、そうです。夫は気付いていません」
「医者として聞きたいのですが、……その主治医の治療をうけてから体に何か異常があったりはしていませんか?」
「大丈夫だと思います。ギゼラさんにも健康だと言われましたし」
ファルネティ伯爵を偽り続けたい理由は聞かれなかったので、胸を撫で下ろした。
いくらお医者様でも、男性にこういう話しをするのは、恥ずかしかった。
クレマンはお茶を飲みながら、しばらく黙っていたが、何か思い付いたのか、再び口を開いた。
「これは提案なんですが、いっそ、その医者を利用してやっては?」
「えっ」
「彼の目的が何なのかは、私にはわかりませんが、虚偽の報告をしたのだから、そのことを脅してやればいいのです。
愚かな医者だが、貴族を騙せば、どうなるかぐらいは分かってるはずです。伯爵家の主治医という名誉も失いたくはないでしょうし、きっとあなたの言うとおりに動きますよ」
思ってもみない提案に驚き、それが選択できる最良のことだとは思ったが、すぐに不安になった。
そんなことが私に出来るのだろうかと。
「それに、あなたが、ご自分の立場と持っている力を理解出来る、いい練習になると思います」
クレマンはそう言ったが、やはり上手く出来る気がしなくて黙っていると彼は首を傾げた。
「出来ませんか?」
「……上手く出来る気がしないのです」
私の返答に、彼はまた何か考えるようにしてお茶を飲んでから、「ご不快になるかもしれませんが」と、断りを入れた。
「あなたは、人の顔をじっと見る癖がある。
その間、体は強ばってますし、呼吸はずっと浅い。様子を窺うと言うよりは、相手にどう反応されるか怯えているようです。
思った事を口に出せなかったり、相手よっては上手く話せなくなることが多いんじゃないでしょうか?」
「……はい」
初めて会ったクレマンに、自分の気弱さを言い当てられたのが不思議だったが、その通りだったので返事をした。
「でも、誰にでもそうなる訳じゃありませんよね。
自然に話せる人たちはいるでしょう?
その時の呼吸の仕方を思い出して、体の緊張をほぐしてみてください。何度も繰り返すことで克服できるようになります。きっと、あなたに足りないのは経験ですよ」
クレマンは、筆記用具を出すと、紙に羽根ペンで何か描きはじめた。
「母があなたに大金を払わせたお詫びと言ってはなんですが、私も少しだけ力を貸しましょう」
彼が描いていたのは、魔法陣だった。
「力を?」
「母の足元にも及びませんが、私も少しだけ魔術が使えます。一定時間、気丈になれる魔術です。おまじない程度のものですが。
さあ、ここに手を置いてください」
私は言われた通り、手を置くと、クレマンは祝詞のようなものを唱えはじめた。
手のひらで触れている魔法陣がだんだんと温かくなり、それが肌に伝わって温かくなってきたか思うと、黒のインクで描かれた魔法陣が、青色に変わって、光を放ちはじめた。
その光が強くなるにつれ、手の平が熱くなり、やがて火傷しそうなほどに熱くなって、思わず手を上げそうになると、クレマンが手を重ねて魔法陣に押し付けた次の瞬間、光はまるで炎が一瞬で大きく燃え上がるよう形になり、何事もなかったかのように消えた。
「終わりましたよ」
手はじんわりと温かいままだったが、手の平を見ても、火傷は負っていない。魔法陣はまだ青くうっすらと光っている。
アデライードが、紙吹雪を舞わせたり、魔法でかすり傷を治してくれたりしたことはあったが、青く光ったりすることはなかったし、他の人の魔法は見たことはなかった。
こんな経験は初めてで、私は興奮した。
「……すごい」
感嘆して、思わず言葉をもらす。
温かくなった手から、だんだんと勇気が出てくるような気がした。
「効果は三日程で、この光が消えるまでです。頑張ってみてください。きっと上手くいきますよ」
クレマンは私にはじめて笑顔を向けた。
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