第二章
2-1 大魔術師ギゼラ
こんなはずじゃなかった。
リュリーを屋敷から追い出して、結婚させる目的は叶ったが、夫の、ファルネティ伯爵の関心がこちらに向くなんてこと、まったく考えてなかった。
私はぐるぐると部屋の中を歩きまわっていた。檻に入れられた猿みたいに。
これは、計画が前倒しになったせいだ。
リュリーのパリュールを見せなきゃよかった……。
きっと、ジェラール公爵の愛人をぶっただけなら、彼はあそこまで、リュリーを突き放しはしなかっただろう。
「ファルネティ伯爵、あなたは私なんかに気をかけている暇なんてないんです。もっと、あなたと気があって、もっと素敵で、あなたの事を愛していて、あなたの助けを必要としている乙女がいるんですよ」
……そう言えたら、どんなに楽だっただろう。
そんな事を言われて、真に受けてくれる夫が、この世の何処にいるのだろう。
それに、万が一だけど、この白い結婚が、そうじゃなくなったら、伯爵はセレスに気を遣って、『彼女』の元にいくのを躊躇うかもしれない。
彼が踏ん切りがつかなかったのは、非業の死を遂げた妻の死に責任を感じて、操を立てるべきだと思っていたからだ。
私に言わせれば「馬鹿げてる」と言いたい。
セレスが死んだ時に思ったのは、アデライードのことだけだった。夫のことなど考えなかった。
ただ、苦しくて、苦しくて、アデライードと一緒に約束した事が果たせなくて、もう彼女と一緒にいられないのが悲しかった。
そんな妻に縛られるなんて馬鹿げてる。
とにかく、今、必要なことは白い結婚を維持すること。
あんな信用出来ない医者じゃなくて、信用出来るお医者様の協力が必要だ。
私は、ある登場人物たちに、狙いを定めた。彼女らを主治医にしたいと思ったのだ。
二年後には、あの恐ろしい熱病が流行するはず。
それなら寄付は早めにしておいた方がいいし、セレスが祖母を亡くした時のような思いはしたくなかった。
化粧料も使えるようになったし、ベルティーユ嬢からの返金と迷惑料で懐は温かい。動くなら今だろう。
「ミア、お願いがあるの」
起きてからネグリジェのまま部屋の中をぐるぐる歩き続けるセレスを、不安そうに見つめていたミアに、あることを頼んだ。
「奥様、本当にここなんですか?慈善活動なら神殿でもできます。何もこんなところに来なくたっていいじゃないですか」
セレスと同じように目立たないフードつきのマントを着たミアが私にしがみつきながら、そう言った。
「ここじゃなきゃ意味がないの」
私はミアに、今日はある場所で慈善活動と寄付がしたいから、昼食は軽食で自室で早めに取りたいこと、紋章入りではない目立たない馬車を用意することを頼んだ。
私のお願いに、ミアは困った顔をしたが、全て出かける前に準備してくれた。それに慈善活動と聞いて、そのための果物とお菓子が入った大きな籠まで用意してくれていた。
そして行き先は、エンドルフの貧しい地区、フォルミだった。
広場のすぐそばにある、古い建物が目的の場所だった。
元神殿で、今は診療所となっている。
崩れそうなアポロニア像を見て、ミアは私が行き先を告げたとき以上に青ざめた。
私は、しがみつくミアと一緒に、その門の前に来たが、「診療時間外」と札がかけられている。
「ほら、奥様、診療時間外ですって。今日は帰りましょう」
「でも、ここに『ご用のある方は裏口へ』って書いてあるわ」
私は気乗りしないミアを引きずって、建物の塀を辿って周りを歩き、おそらく裏口と思われる門……崩れて門の役目は果たされていなかったが、そこから敷地内に入った。
おそらく、元々は庭だったのだろう。そこには目を楽しませる草花ではなく、畑が広がっていた。
その隅にベンチがいくつかあって、老人や怪我人、おそらく病を患っている人が点々と腰かけ、日向ぼっこやおしゃべりをしている。
畑の周りを、子供達がきゃっきゃと走りまわっていた。
「あら、思ったよりきれいですね」
そこはミアが言うとおり、崩れた塀を思うと、明るく開けた空間だった。
確かに、建物は古くて、あちこち修繕されたあとあり、補強された部材も統一性がなくてちぐはぐだったが、ゴミなど落ちていないし、嫌な臭いもしなかった。
「何してんだいっ!」
突然、その和やかな雰囲気を壊す、嗄れた怒号に、私とミアは抱き合って震え上がった。
「こらっ!何度言ったらわかるんだいっ!薬草を踏むんじゃないよ」
走りまわる子供にむけ怒号を浴びせる老婆……黒いローブを着た老婆は、どこからそんな大声が出せるか不思議なぐらい小柄で痩せ細っていた。
首に下げているのは等級四を示す銅のペンダント。等級四ともなれば、これ見よがしに金鎖にかけて誇示する魔術師が多いのに、彼女は革紐にそれをぶら下げていた。
彼女はアデライードの師匠になるギゼラ・ボネ。
偏屈な魔術師。
このフォルミ街で、診療所を息子と共に営んでいる。
そして、彼女がアカデミーで研究していたのは、アーヘル熱病だった。
アーヘルとは、あの世、影の国の支配者の神の名だ。
冬になると流行る病で、致死率が高い。アデライードの母親も、そしてセレスの祖母も、この病で亡くなったのだ。
病に貴賤はないとは言ったが、流行の度に多数の人間を貴賤問わず影の国へと連れて行った。
彼女は、アカデミーでは患者は救えないと、市井の、それも豊かとは言えないフォルミ街で診療所を開いた。
アカデミーから見れば、恩知らずの異端者だったが、その治療技術と知識は抜きん出ていて、事実、彼女の治療にすがった貴族も少なからずいる。………彼女に大枚を要求されるにも関わらず、支援者は多かった。
私は意を決して、畑の中にいる彼女に近づこうとしたが、先ほど子供が怒鳴られたのを思い出して踏みとどまった。
「……あの、すみません」
私は声を出したが、聞こえないのか、老婆は黙々と草をむしっている。
「あの!すみません!」
今度はお腹からおもいっきり声を出して呼びかけてみたが、全く反応しない。
「ギーーーーゼーーーーラーーーーさーーーーーんッ!!!!大魔術師のギゼラさーーーん!!!!!!」
……おそらく、セレスがここまで大声を出したのは生まれて初めてかもしれない。
ミアばかりか、ベンチに座っている老人、患者達や子供までもが、大声を張り上げるセレスを、驚いた目で見ていた。
ギゼラはようやく私の方を見ると、そのシワだらけの顔に煩わしそうな表情を浮かべた。
「うるさい小娘だねえ、きーきーわめくんじゃない。わたしゃそんなに耳は遠かないよ」
彼女は立ち上がると、桶に入れた水を柄杓で掬って、手を洗うと、緑の粉のようなものを手にもみこんで再度手を洗い流し、手拭いで水気を拭った。
そして、こちらに近づいてきて、「どこのお姫様か知らないけど、卑しい婆さんには顔も見せたくないのかい?」と言われ、私は慌ててかぶっていたフードを外すと、彼女はセレスを見て何故か眩しいものでもみるように目を細めた。
「あんた。名前は?」
「セレスです。セレス・デュシャンと申します」
「生まれは?」
「……北部です」
「そんなの見りゃ分かるよ。地名を言いな」
「シャッテンベルクです」
そう答えると「手」と短く言われ、何の事か分からず「えっ?」と聞き返すと、「手っつたら手だよ。手だしな」と怒られた。
言われた通り手を出すと「手っつたら素手だろ。手袋取りな」とまた怒られた。
(こわい!アデライード、なんで、めげずに、このお婆さんの弟子になれたの?あなたって本当に凄いわ)
言われた通り仔羊革の手袋を脱いで、両手を出すと、彼女は私の手を取った。
枯れ木のような見た目とは裏腹に、その手はあたたかく、険しい表情からは想像できないほど優しい触り方だった。
彼女は何度か私の手を擦り、そうされるうちに、私は変な気分に、だんだんと酩酊するような心地よい気持ちになった。
彼女はそうしながら、手のひらをまじまじ見つめたあと、私の顔を覗きこんだ。
皺に埋もれて、よく見えなかった彼女の瞳は澄みきった明るい青色で、アデライードと同じだった。
「妙なオドをまとってる。妙だ。普通じゃない。
生の輪は、一周廻って終わるはずが、アポロニアの加護で輪が捻れて、また周り出した。
あんたは勘違いしている。あんたの体に魂が二つあるわけじゃないんだ。
それに、これから、他人の業でがんじがらめになる。でも抜けられない。生きていく上での宿命さね。かわいそうに苦労するよ。
あんたがどんなに正しいと思う行いをしても、因果とは関係ない。ただ結果があるだけだ。結果しかない。
でも、あんたにはアポロニアの加護がある。
ただし救えるのは一回きりだ。救う相手を間違えるんじゃないよ」
ミアの「奥様!奥様!」という呼びかけに、現実の景色が目に入った。ミアの心配した顔が目にうつる。
「………今の、聞いた?私、魂が二つあるわけじゃなくて、アポロニアの加護があるみたい」
「何仰ってるんですか、しっかりなさってください。このお婆さんに手を握られていただけじゃないですか」
ミアに肩を揺さぶられて、はっと我にかえると、ずいっとギゼラが顔を寄せて手のひらを付き出した。
「お代」
(……そう言えば、このお婆さん、占いもやるんだった)
手提げ鞄に入れた財布から銀貨を出して、手のひらに一枚載せたが、ギゼラは引っ込めようとはせず、もっとくれという仕草をした。
「銀じゃなくて、その財布の奥に入っている金色の方を出しな。占いは金貨一枚だよ」
「えっ」とミアが何故か声をあげた。
ギゼラに言われた通り、金貨を一枚載せると、彼女は、歯でかじって本物かたしかめ、先に渡した銀貨と共に懐におさめる。
「さっさと帰りな。ここは貴族様が来るところじゃないよ」
もう用はないと言わんばかりに、しっしっと手をふった。
「あ、あの、伺ったのは占いじゃなくて……き」
「なんだよ、違うのかい?それなら早く言いなよ。ほら、突っ立ってないでついてきな」
そう急き立てられ、私とミアは建物に入る前に手を洗うよう言われ、井戸の冷たい水を容赦なく手にかけられて、石鹸を使って洗ったあと、次に薬草をすりこんで、また手を洗って、診療所の中へ羊でも追いやるみたいして案内された。
裏口から入った建物の中は外観同様、古かったが、柱や梁などは立派な木材が使われている。掃除は行き届いていて清潔だ。
華美ではなく、武骨な雰囲気が育った領地の城と似ていて懐かしさを覚えた。
廊下から見えた玄関ホールの壁には、神殿の名残かアポロニアのレリーフが残っていた。
アポロニアの降臨の場面だ。窓のから差す陽の光に照らせれたそれが見事で、思わず足を止めると「さっさと歩きな」と叱られた。
「ここは元々は神官どもの宿坊で、今や魔力持ちは少なくなってるからね、何年も使わないまま、ずっとほっとかれてたのを買ったんだ。
神官どもがどこでも香を焚いてたもんだから、臭いが染み付いて、昔は抹香臭いったらなかったよ」
ギゼラはそう説明した。
診察室、と思われる簡素な寝台と医療器具などが仕舞われた棚のある部屋に入ると、ギゼラは「触るよ」と告げ、私の腰をガシッとつかんで肉付きと骨を調べるような手つきで、揉みしだいた。
「貴族ってのは、政略だ、閨閥だって、こんな小娘まで奥様にしちまうのかい。あんた、いくつ?十五?」
「……十七です」
「もっとハキハキしゃべんな。そんな細い声出してたら、どんどん気弱になるよ。ほら、口開けて、舌出して」
言われた通り舌を出して見せると「次、歯を見せて」と言われ従った。目を見られ、次に脈を取られた。
「健康だけど、赤ん坊をこさえるには、まだ早いよ。あんた月の物の周期もばらばらだろう?」
いきなり、赤ちゃんの話しをされて、私はびっくりして「はい?」と聞き返した。
「体がまだ女になりきってない。別に病気とかじゃないよ。熟すのが遅い体質なんだ。薬とかでどうにかなるもんじゃない。
……それに、あんたのお母さんは、流産を繰り返したんじゃないのかい?」
「……そうです」
何故、母のことまで知っているのかわからないが、ギゼラの言った通り、母は流産と死産を繰り返し、跡継ぎが出来ないことで、肩身の狭い思いをしていた。
結婚は同時期だったが、叔父夫妻の方が早くに男児をもうけたので、その事も、かなり気に病んでいたのだ。
そして、何度も流産を繰り返し、ようやく産まれたのがエロイーズで、母の最後の望みで産まれた子は私だった。
「身ごもることは出来るかもしれないが、赤ん坊が欲しいなら、せめて三年待ちな。ただでさえ、お産は命懸けの大仕事だ。
今、子を宿せても、赤ん坊も、あんたの命も危うくなる可能性が高い。
それでも、あんたの夫が無理強いしたり、話しを聞かないようなら、そんときはまた来な」
そう言って彼女は、また手のひらを出した。
「金貨一枚だよ」
私は言われ通り、一枚の金貨を載せたが、今度は追いやられる前に口を開いた。
「ギゼラさん、私たちは、こちらの診療所に寄付がしたくて伺ったんです」
「それなら、早く言いなよ。良いとこの奥様がこんな所にくるのは、占いか赤ん坊のことしかないもんだから、勘違いしちまったじゃないか。それに、寄付については倅に任せてるんだ」
彼女は、ミアの持った籠に目を向けた。
「あんた、その籠の中身はなんだい」
ギゼラの気迫に圧倒されていたのか、ぼんやりとしていたミアは声をかけられて、ビクッとなった。
「はっ、はい!お菓子と林檎です」
「奥さん、倅には、診察が終わったら、応接室行くように伝えるから、そっちに向かいな。二階のつきあたり」
私が頷くと、ギゼラはミアの腕を引っ張って「あんたはこっち。林檎を切るの手伝いな」と「えっ?えっ?」と混乱する彼女を連れて行ってしまった。
私は言われた通り、階段を昇り、二階に上がった。
二階も一階と同様、掃除が行き届いていて清潔だった。
母に連れられて、慈善活動をしにアカデミーが運営する病院に行った事は何度もあったが、そこは清潔とは言い難かった。
今思えば、あの病院は、病を治す場所ではなく、ただ病人を集め隔離するだけの場所だったのだ。
適切な治療が行われていたかも怪しい。
アデライードが父親に勘当されてまでギゼラの弟子になりたいと強く願った理由が分かる気がした。
アカデミーでの教育や、思想は、彼女の理想とはかけ離れていた。
魔術を研鑽し、皇室に仕えることが求められる。彼女はもっと世の中に立つことがしたかったのだ。
彼女はフォルミ街で、アーヘル熱病を研究する魔術師がいると聞いて、ギゼラに弟子入りさせて欲しいと頼みこむ。
だが、貴族のお嬢様には無理だと、けんもほろろに追い返され、何度もめげずに足を運んで、頼まれもしないのに、慣れない農作業や、台所を手伝うことを繰り返して、ようやく弟子にして貰えたのだ。
そして、ギゼラと共に、アーヘル熱病の治療薬の開発に勤しみ、最終的には成功する。
……ただ、二年後にある大流行には間に合わなかった。
換気の為か、廊下の窓は開けられていた。
まだ、冬とも言える季節だったが、今日は陽気が良く比較的暖かい。窓から吹き込む風が頬を撫でて、北部育ちの私には、心地よい温度だった。
こんな日には、アデライードの家に行って、よく庭で遊んだ。グレゴワール家のリージュの邸宅は噴水のある見事な庭園があって、あの子はミミズとか平気で掴んで持ってくるものだから、私はひぃひぃ言って震えていたのだ。
彼女はミミズを見つけると集めて庭師のおじさんに渡してたっけ。
それにしても……
(あのお婆さん、本当に、こわかった………)
心の中でちょっと泣いていると、階段を上がってきた長身痩躯の中年男性が「お待たせしました」と声をかけてきた。
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