1-9 リュリーがぶった!
夜が明け、早朝にファルネティ伯爵はリュリーを伴って狩りに出かけていった。
その日、私は忙しかった。
通常の帳簿の確認のあと、リュリーが解雇した使用人たちを屋敷に戻す為に、関わりがあった使用人達から話を聞いていた。
住所がわかる人には手紙を出そうとしたが、中には字が読めない人もいたからだ。
それに現在の住まいがわからない人もいた。
カルロと、マーサと相談し、どうするか決めるのに時間がかかってしまって、昼食を食べたあともそれが続いた。
疲れはてて、今日も一人だし夕食まで寝てしまおうと、ひざ掛にくるまり居間の長椅子でしばらく寝ていると、ミアが三姉妹のメイドを連れて部屋に入ってきた。
「奥様、お疲れのところ申し訳ありません。旦那様が晩餐をご一緒したいそうです」
「今日は、一日中お出かけの予定だったでしょう?」
「早めにお戻りになりました」
私は
(めんどうくさい……)
と思ってしまった。それが、おもいっきり顔に出ていたんだろう。
「旦那様をせめたい気持ちも分かりますが、旦那様がこうやって歩みよろうとしているのですから、奥様も歩みよっては?」
ミアは諭すように言いながら、私を衣装部屋に追いやるとアドリーヌに言って、私の着ているドレスを脱がせ、ミルク色のドレスを用意した。
こうなると、セレスの体に染み付いた習慣なのか、私は、されるがままで、まるで着せ替え人形だ。
カロリーヌが広げたドレスの輪の中に、ポリーヌが背の低い四つ足の台を置き、私がポリーヌの手を借りて室内靴を脱いで台にのぼると、カロリーヌはドレスを上げて腕に袖を通させた。
ポリーヌが背中の紐を絞めている間、カロリーヌはボタンを留め、スカートの裾や飾りを整えて、あっという間に着付けていく。
ドレスを着付けている間に、脱いだドレスと室内靴を片付けたアドリーヌは、着付けが終わる迄には、ドレスに合わせた靴を持ってくる。
カロリーヌとポリーヌの肩に手をおき、彼女達に腰を支えられて片足を台から下ろすまでの間にアドリーヌは靴を履かせ、もう片方も台から降りるわずかな間に靴を履かせる。
左右片足で立っている時間はほんの数秒だ。
毎日してくれる事だが、この三姉妹の息のあった手際の良さには、いつも感心する。
声をかけて行うのではなく、目配せだけで、滞りなく、流れるように、こなしていくのだ。
アドリーヌが姿見の角度を調整し、私は鏡に映ったセレスの姿を確認した。
ドレスは、ミルク色のサテンに同色のチュールを重ね、胸下の切り替えに黒のリボンがベルトのようにあしらってある。後ろは蝶々結びになっていて、少し腰を捩ると、リボンの長いたれが、スカートと一緒にふわりとなびいた。
色は落ち着いているけど、可愛いドレスだった。
ミアは鏡台の前の椅子に私を座らせると、ケープを羽織らせ、結った髪をほどきブラシで梳かしはじめた。
「髪まで結いなおすの?」
「はい。すぐに終わりますからお待ちください」
三姉妹はパリュールを用意しながら「サファイアがいいわ」「サファイアなんてダメよ。ルビーね」「いいえ真珠よ」と小声で小さないさかいを起していた。
三姉妹はリュリーがいた頃は縮こまって、何も喋らなかったが、最近、こうやって私の前で喋るようになってきた。
そのやり取りが可愛いので、それを見ては心を和ませていたが、今日はいやに気合いを入れてパリュールを選んでいるのが気になった。
ミアは三姉妹の主張を無視して、ダイヤモンドのパリュールを選ぶと、天鵞絨のクッションにのったそれを私に見せた。
豪華というよりは、繊細な意匠だった。
「いかがでしょう?」
「これでいいわ。でも晩餐会に呼ばれた訳でもないのに、こんなに着飾ってどうするの?」
乗り気がしなくて、そうぼやくと、ミアは
「今でこそ、必要なんです」
と、力強く言い、三姉妹たちも強く頷いた
「本日、旦那様は予定よりだいぶ早くご帰宅されたんです」
ミアは言った通りに、ブラシで梳かした髪を、手早く結いなおし、真剣な目をして櫛を髪に差し込みながら告げた。
三姉妹もさることながら彼女の手際もかなりのものだが、やはり真剣な目が気になる。
「参加されたのはルゴフ子爵が主催した狩猟でしょう。失礼に当たらない程度は参加して、途中で抜けるのは別に珍しいことじゃないわ」
私は紅筆を持ったカロリーヌが紅を塗りやすいように、唇を少し開けた。
ルゴフ子爵は粗野な人で、ファルネティ伯爵とは相性が悪かった。同じ派閥でなければ、交流を控えたいと思っていたはずだ。
そんな事を考えていたが、三姉妹が何故かそわそわと、こちらに何か言いたそうにして、見つめてきた。
「どうしたの?」
私が尋ねるとアドリーヌ、カロリーヌ、ポリーヌは順番に喋りだした。
「旦那様が早く帰ってきたのは」「あの女が公爵の妾と喧嘩してひっぱたいたからです」「さすがの旦那様もカンカンです」
「あなた達、はしたないわよ」
ミアが注意すると、まだ喋りたそうだった三人はきゅっと口を閉じた。
「公爵?」
「ジェラール公爵です」
私が驚いて立ち上がったので、香水瓶をのせた盆を持っていたポリーヌは体勢を崩しかけた。
「まさかオスカー・ジェラール?リュリーはその妾をぶったの?」
かつてないほど声を張り上げてしまったせいで、四人は驚いた様子だったが、ミアは気を取り直すようにコホンと咳をした。
「奥様、少しだけお声を小さくしてください。身分の高い方を敬称もなく姓名で呼ぶのは不敬ですわ」
椅子に座りなおし、ポリーヌが持った盆の中から、香りの軽いベルガモットを選ぶと、ミアは瓶を開け、私の左右の耳の裏につけた。
「おっしゃる通り、ジェラール公爵です。旦那様はリュリーと一緒にご帰宅されましたが、いつもはエスコートされて離れに向かわれるのにリュリーを置いて、本棟の自室に入っていったんです」
「ミアさん、それだけじゃないですよ。奥様、私たち、凄い泣き声が玄関ホールから聞こえて、何事かと思って見に行ったんです」
「玄関ホールであの女が旦那様にすがって泣いてました。それはそれは凄い声で」
「あの女、旦那様の足にしがみついて歩みを止めてて、従者のブランさんが引き剥がしてました」
「「「とっても、みっともなかったです」」」
ミアは、三姉妹を叱らず、ため息をついた。
「この子達が言うように、そういう事があったんです」
「ちっとも気付かなかったわ……」
私は疲れて眠ってしまった事を後悔した。
「ずっとお忙しかったから仕方がありませんわ。それにお屋敷は広いので奥様が気付かなくて当然です」
ミアは私からケープを脱がせ、アドリーヌが首飾りを、カロリーヌが耳飾りをつけた。
「さぁ、できましたよ。お綺麗です」
ミアと三姉妹は、着飾ったセレスを見てとても満足そうにしているが、私は頭を抱えたくなっていた。
リュリーがジェラール公爵の妾をひっぱたくことなど、物語ではなかった展開だ。
おまけに、このジェラール公爵というのは……
「皇帝陛下の弟君、今は臣籍に下ったとはいえ、その方が囲っているお妾を、リュリーが殴ったのよね。それって、ファルネティ家にとって大変なことじゃないの?」
「旦那様は、すぐに詫び状とお詫びの品をジェラール公爵にお届けになって、公爵も大事にはしたくなかったようで、すぐに返礼の品がこちらに届いたんです」
「……何を贈って、何を返されたの?」
「絵画です。ベルジェが描いた静物画で、応接室に飾ってあったものです。公爵は以前から欲しがっておいでだったとか。
それの返礼でジェラール公爵はお母様から受け継いだヘルミーナの婚姻を旦那様にくださったんです。描いたのは、なんとガイヤールです。
つまり、家門同士の争いは起こらず、もう解決されたんですよ」
……絵画の事はよくわからないが、ミアの口振りからすると、価値のあるものを贈り、その御返しに、それよりも、もっと価値のあるものを貰ったらしい。
私が頭を抱えたくなったのは、ジェラール公爵のやんごとない血筋だけではなく、彼は―――
(何も利益がないのに、こんなものを贈ってくるような人じゃない)
もっと先に、出会うはずだった。
いや、必要がない限り関わりたくなかった。
考えるだけで嫌な汗が滴りそうだった。
「家門同士のいさかいにはなりませんでしたけれど、リュリーはとんでもないことをしてしまったんです。すぐにでも旦那様は、屋敷から追い出しますわ」
ミアは嬉しそうに言ったが、私は予想以上に、物事が早くすすみ過ぎていることに焦っていた。
リュリーを妾にする以外、計画は全く、すすんでいないのだ。
それに、彼女とファルネティ伯爵を会わせる計画もまだだ。
これからどうするか考えながら、重い気持ちで食堂へと向かった
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