1-6 不信の種を撒く
セレスの夫であるファルネティ伯爵、パリス・ファルネティは、セレスの七つ年上の二十四歳。
薄い茶色の髪と榛色の目の貴公子然とした青年だった。
音楽が好きで、性格は、穏やかだったが、セレスほどではないにしても、少々押しに弱いところがあった。
『とある聖女の物語』では、彼は妻のセレスが毒殺されたあと、真実を知って、後悔の念にかられて自分を責めて生き続けることになる。
そのあと、さらに追い討ちをかけるような不幸に見舞われ、まだ若いのに生きる気力をなくしてしまい、遠い親戚に家督を譲って領地に隠遁してしまう。
浮気はしたけど、根っからのクズではなかったし、私が「気の毒だ」と思った登場人物で、そして、出来れば幸せになって欲しい人物の一人だった。
その夫が待つ、食堂の扉を開けると、新聞から顔を上げた伯爵は、私を凝視し、驚いたように口を半開きにした。
まぁ、けばけばしく着飾っていた妻が、一晩で別人のように楚々とした姿であらわれたのだから、当然の反応だろう。
それで、私はというと、優雅に微笑みながら席につく……なんてことは出来ず、凍りついたように固まった。
そう、セレスは若い男への免疫が、全くなかった。
同年代の男とはなるべく交流させないように育てられた。
おじさんや、おじいさんは平気だったが、セレスが接した若い男は従兄弟ぐらいだし、年上の従兄弟たちは既におじさんになりかけている。
徹底して管理した交遊関係の賜物だ。
そのせいで、情けないことに、緊張してろくに夫と会話ができなかった。……死ぬまで、ずっと。
「奥様」
控えていたカルロの呼び掛けに我にかえった。
カルロは、おじいさんになりかけのおじさんなので平気だった。
カチコチになりながら、自分の席に着いてようやく、ファルネティ伯爵に微笑みかけることは出来た。おそらく頬は引きつっていたに違いないが。
「お待たせしました」
絞り出した声は、変に上ずっている。
朝から何も食べていないのでお腹はかなり空いていたのに、それも忘れるぐらい緊張していた。
この昼食はセレス(私)にとって正念場だ。
緊張している場合ではないと、私は白葡萄酒が注がれたグラスに口をつける。
お酒の力を借りたいところだが、酔っぱらうのは良しとされない。少し口の中を湿らせるに留めて、どう切り出すかと考えていると、先に口を開いたのはファルネティ伯爵だった。
「……だいぶ、雰囲気が変わったね」
「はい……、ええと、色々……その…………改め…ないと、いけないと思ったものですから」
声を出すことは出来たものの、ただでさえ、セレスは声が細いのに、つっかえつっかえで声は蚊がなくように小さかった。
この食堂のテーブルは長方形で無駄に長い。伯爵夫妻が、その短辺と短辺に座るのだ。声は小さ過ぎて、あちらに届いているかわからない。
私はお腹にきゅっと力を入れて声を出す。
「お気に召しませんか?」
「いや、今の方が良い」
伯爵は、新聞を従者に渡しながら、こちらに視線を向けずに答えた。
(覚悟はしてたけど、ほんとにセレスに無関心……)
私はその反応に自分が、がっかりしていることに驚いた。まさか「似合ってる」とか「綺麗だ」とでも言って欲しかったのだろうか。
私はセレスと彼が結ばれることを望んだのだろうか?
それは違う。私は望んでいない。
では、この体の持ち主のセレスはどうだろうか?
彼を愛していた?恋していた?
彼女はそんな事は思ってなかった。というか、考えた事がなかった。
彼女にとってファルネティ伯爵との結婚は、家門の為の務めでしかなかったのだ。
そんな、何も期待をしていない相手に、緊張する必要はないのでは?
そう考えると、今まで強ばっていた体から力が抜けた。
「今日は朝から使用人たちがあわただしくしていたけど、客でも迎えるのかい?」
さすがに、セレスには無関心でいられても、屋敷の様子には無関心ではいられなかったようだ。
もしかしたら、今、リュリーが部屋に軟禁されていることも知っているのかもしれない。
「はい、色々と準備しておりました」
一度、緊張がほぐれると、言葉は自然に出てきた。
「準備?」
伯爵は怪訝そうに片眉を上げた。
「……まず、もう結婚して半年もたつのに、この屋敷の女主人として、伯爵夫人としてもお役に立てなかったことをお詫びいたします」
私は立ち上がると、伯爵に向かって深々と頭を下げた。きっかり数字を十数えてから頭をあげる。
「リュリーに様々なことを押し付けてしまいました。女主人としての仕事も……」
一つ息を吸って、言葉を続ける。
「……妻としての役目も」
まわりくどい言い方だが、伯爵は言葉の意味をすぐに理解したのか眉間に皺を寄せる。
「彼女をどうする気だ?」
険のある声で彼が言った。
リュリーを捨てて、自分に向き直れとでも、妻が言うと思ったのだろうか。
だが、私には、そんな気はさらさらなかった。
「私は体調が優れない状態が続いています。妻としての役目は暫くは果たせないでしょう。
そうである以上、リュリーをお妾にするのが、ふさわしいと思います」
伯爵は私の提案に拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
「君はいいのか?」
「はい、身分からもそれが一番かと。側室にしては叔父が黙ってはいないでしょうし」
「……君が良いなら、私もそれでかまわない」
伯爵が安心したように、そう言った。
私は、ここで彼が、提示した条件に不服を唱えるかもしれないと警戒していた。
妾ではなく、側室として迎えたいと言ってくるかもと思ったのだ。
側室は法的に認められた妻の一人だが、妾はただの愛人だ。子供が生まれても、婚外子に近い扱いを受ける。
私は、リュリーを側室にし、妻の肩書きを与える気はさらさらなかった。
『とある聖女の物語』では、彼は、リュリーと関係を続けながらも、彼女との事をずっと秘密にしていた。
リュリーは伯爵の側室になることを望んでいたが、彼はそうはしなかった。
それは、セレスの実家との関係を気にしていたからだが、彼の煮え切らない性格のせいでもあった。
いつ妻に打ち明けるか迷っていたのだ。
その重荷がなくなったせいか、彼は少し安心したように固くしていた表情を緩めた。
「それで、三つほど、私からお願いがあるのですが聞いていただけますか?」
お願い、という言葉に、再び彼は警戒するような表情を浮かべ「言ってみなさい」と言った。
さすがに内容を聞かず了承する気はないようだ。
「まず、リュリーは本棟ではなく、別棟の離れに置いて頂きたいのです。
ご不便をおかけすることになりますが、今朝、カルロとマーサに言って快適に過ごせるよう準備はしております。
それと、リュリーはファルネティ家ではなくデュシャン家で雇われ叔父から給金を貰っていました。
このまま、リュリーを侍女として雇っておくことは叔父が許さないでしょう。以前のように私の側に置いておくことは難しいのです。
リュリーはこれからデュシャン家からの報酬を受け取れなくなりますが、そこは、ご理解ください。
最後に、軽い催し物などは、リュリーを伴って頂いて結構ですが、目上の方のお招きには私をご一緒させてください。
正妻としての面子がありますし、叔父もそうしておけば何も言ってこないと思います」
私のお願いは、ざっくり表せば
1. 妾は屋敷内に住まわせてもいいけど、私の住んでる棟はやめてね。
2. リュリーは解雇します。もう侍女じゃありません。
3. 私の正妻としての面子は保つようにしてね。
この三つだ。
再び、伯爵は拍子抜けしたような表情を浮かべた。
私のお願いが、正妻として、この家の女主人として当たり前のことだったからだ。これぐらいの事は守るつもりだったのかもしれない。
「了解した。君の名誉を傷つけるようなことはしない」
「安心しました。カルロ、あれを旦那様にお渡しして」
私は、微笑んで最後の一撃を加える為に、カルロに目配せした。
カルロは、事前の打ち合わせ通りに黒い天鵞絨張りの箱をファルネティ伯爵へ差し出し、蓋を開けた。
それ自体が光を放っているように現れたのは、ダイヤモンドがルビーを囲んだ意匠のパリュールだった。
ネックレスと、イヤリングにブレスレット。それらが燦然と輝いている。
ルビーは親指の爪ほどの大きさのものがいくつもはめ込まれ、ダイヤモンドは細かな粒だが、金の台座や鎖が見えない程、隙間なく並んでいた。
「本日、宝石商のメルシエさんが持ってきてくれました。どうぞリュリーに渡してあげてください」
私はにこやかにそう告げたが、伯爵は何も答えず、パリュールを見つめていたので、私は尋ねる。
「旦那様が注文したものではないのですか?」
伯爵はルビーとダイヤモンドから、視線を外し、私に当惑したような表情を向けた。
「私が?」
「今朝、帳簿の確認をしましたら、他にも私の注文した覚えのないドレスが数枚購入されていたので、これもリュリーに贈ったものだと思っていましたが違うのですか?」
「……リュリーに渡しておこう」
自分が注文したものとは答えず、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、視線を私から外してテーブルの上の料理に向けたが、何も見てはいないのだろう。
様々な事を考えて当惑しているのが手に取るようにわかった。
やはり彼が許可をして、購入したものではなかったのだ。
突然、装いを変えた妻が、今までになく積極的に言葉を発し、自分に無関心だったはずなのに、自分の浮気を知っており、関係を持った侍女を妾にするようすすめ、そして、自分が購入した覚えのない見るからに高価な宝飾を、彼女に渡すように言ってきた。
これで、当惑せずにいろと言われても無理だろう。
セレスは自分で頼んではいないと言ったが、リュリーと自分の関係を知って、リュリーを陥れる為にしていることなのでは?
そんな事でも考えているのだろうか。
もちろん、私はセレスがそんな大それた事が出来る性格ではないことは知っているが、このパリス・ファルネティは妻であるセレスのことを、まったくと言っていいほど知らない。この夫婦はお互いのことをまるで知らなかった。
ここまで会話が続いたのも、初めてのはずだ。
「今夜の演奏会にはリュリーを連れて行ってあげてください。私は家でゆっくりしています」
私は苦い顔をする伯爵に気付かないふりをして、朗らかに言った。
ドレスや宝飾の注文は、調べればリュリーがしたことだと分かるはずだし、ありがたいことに、カルロもマーサもリュリーよりもセレスの味方でいてくれている。
リュリーが何か上手いことを言って、逃れたとしても、一度抱いた不信感はなかなか拭えないはずだ。
それに彼は、リュリーを知れば知るほど幻滅してくれる。
そもそも、この恋は、長くは続かないのだ。
『とある聖女の物語』では、ファルネティ伯爵はリュリーと時を過ごしていくうちに、傲慢な彼女に疲れ冷めてきていた。
セレスを殺したのがリュリーだと判明して、心変わりをした訳ではない。
セレスが毒殺されたのは、伯爵が冷めてきていることにリュリーが気付き、アデライードのお陰で本来の姿に戻ったセレスを脅威と感じたからだ。
アデライードを犯人に仕立て上げ、妻の死を嘆く伯爵を慰め、再び心の隙間に入ろうとした。もちろん、その目論見は失敗する。
それに、パリス・ファルネティは、このあと本当の恋に落ちる。
私は、この二人を添い遂げさせたかった。
「いただきましょう」
料理を見つめながら何も口に入れない、伯爵を促した。
朝を抜いたせいで、おなかはペコペコだった。
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