第一章
1-1 はじめが肝心
私は寝台の上で、目の前に置かれた、朝食をぼんやりと見つめた。
湯気のたつ鹿肉のスープ。
煮込まれた大きな鹿肉の塊は柔らかそうで、美味しそうではあるけれど、朝食にふさわしいとは言いがたい。
私は朝起きてすぐ、濃厚な料理を美味しく食べられるような胃の持ち主ではなかったし、この体の持ち主、セレス・デュシャンも同じだったようで、その濃厚な香りに酸っぱいものが込み上げてきそうだった。
「いかがされました?鹿肉は体に良いんですのよ。栄養のあるものを、たくさん召し上がって、お体を治さなければいけませんわ。お子様を成せるように。それに、奥様は痩せすぎです。
さあ、早くお召し上がりになってください」
スープに手をつけない私に、寝台の側に控えていた、一人の侍女が微笑みながら言った。
上品で優しげだけど、いささか高圧的な口調だ。
口にした内容は、さもセレスを慮るようだったが、彼女の本性を知る私には、セレスの華奢な体を貶し、白い結婚を責めているように聞こえた。
彼女は伯爵夫人付きの侍女リュリー・ブラモン。
艶やかな美人だった。胸は豊満でコルセットで締め上げた腰は細く括れている。
彼女は揃いのお仕着せではなく、貴族の婦人のようなドレスに身を包んでいた。
この伯爵家では、お付きの侍女はお仕着せではなく、貴婦人のような装いをする事が許されてはいたけど、彼女の薔薇色のドレスと首元を飾るアクセサリーは華やか過ぎた。
なんだか、この屋敷の女主人はセレスではなくて、彼女であるかのようにも思えてくる。
この体の持ち主、セレス・デュシャンは善良だった。
誰にでも親切で、人を疑うことを知らず表向きの親切を善意と受けとってしまうほどのお人好しで、世間知らず。おまけに引っ込み思案で気弱だった。
彼女は嫁いでから、ずっと、叔父が用意したこの侍女、リュリー・ブラモンの言いなりだった。
リュリーの親切に見せかけた意地悪にも気付かず、伯爵夫人としての権限を徐々に奪われ、彼女の宝石を掠め取っていることも、セレスの夫が彼女と浮気していることにも気付けなかった。
若い娘が憧れるような、条件の良い結婚をしたのに、リュリーに言われるがまま、流行の最先端だが似合わない派手なドレスに身を包み、若いのに素顔がわからないほど濃い化粧をしている、不恰好で滑稽な伯爵夫人。それが今のセレスだ。
つまり、彼女は、善良だが愚かだったのだ。
そして、セレスは、このリュリーに毒殺される運命だった。
「今日は何日?」
私はずり落ちそうになった、サイズの合わないネグリジェの襟元をなおしながら、リュリーに尋ねた。
リュリーは主人の様子が、いつもと違うことに気づいたのか、少し眉間に皺を寄せるだけで何も答えない。かわりに、控えていたもう一人の侍女のミアが答える。
「二の月の十三日でございます」
この物語の主人公である、アデライードがこの屋敷に訪れるまで、半年と少し。
それは、つまりセレス・デュシャンの定められた寿命までの期間だ。
私は夢中になって読んだ物語の内容を、頭の中で反芻した。
今まで起きたであろうこと、これから起こることを。
「エンドルフで再会したら、お買い物や演劇を楽しんだりしましょう。私、一度で良いから、大きな劇場でセレスと一緒にクリストフ物語を観てみたかったの。
それと、二人で暖かい庭でお茶がしてみたい。エンドルフには素敵な公園があって春にはピクニックも楽しめるんでしょ?
エンドルフには、口うるさいおば様もいないし、リージュで出来なかった事がたくさん出来るのよ。それって、とっても素敵なことじゃない?
二人で、今まで以上に楽しいことをたくさんするの、約束よ」
陽の光を紡いだような金色の髪を靡かせ、南の海を思わせる青い瞳をキラキラさせながら、歌うようにアデライードは言った。
セレス・デュシャンの記憶が、この体に残っていたのだろうか。まるで、自分の記憶みたいに、私にセレスのアデライードとの思い出が甦ってくる。
お嫁に行く前にセレスはアデライードと色んな約束をしていた。
花びらに似せて切った紙を、魔法でアデライードが部屋中にひらひらと舞わせながら、約束したあの日のことを、セレスはずっと忘れなかったし、嫁いでからは、アデライードとの再会だけを楽しみにしていた。
しかし、このままでは、その約束の殆んどが叶えられないままセレスは死ぬ。
私は、このまま、この女に殺されたくなかった。
アデライードに再会し、彼女と共に長く楽しく過ごしたかった。
「お加減が悪いのですか?」
日付を聞いてから、考えにふける私に、少しイラついた様子でリュリーが声をかけた。
(兎に角、この侍女をなんとかしないと……。アデライードにとっても毒にしかならない)
私は、できるだけすまなそうな表情をうかべ、リュリーを見上げた。
「私、今まで、あなたの献身に甘えすぎていたみたい」
「いえ、そのような……仕える者として当然のことです」
口下手な奥様が、朝から三つ以上の単語を並べてしゃべり出したことに、リュリーは少し驚いた様子で答えた。
セレスは相手に高圧的な態度を取られると、萎縮して上手く喋れなくなるのだ。
でも、それも改めなければいけない。
緊張して上手く喋れなくなるかと思ったが、少し、体が強ばっただけで、言葉はするすると紡がれていった。
「お休みせず、ずっと私の側にいてくれたでしょう?
他の使用人にはお休みがきちんと取れるように、勤務体制を変えたのに、私は片時もあなたを離さなかった。あなたの好意に甘えすぎてたわ。今まで気が回らなくてごめんなさい」
今までにない私の―――つまりセレスの様子にリュリーは当惑した表情を浮かべた。いや、それよりも混乱と言った方が良いだろうか。
せわしなく、視線をさ迷わせている。
「治療の為に伯爵夫人としての仕事をあなたに任せてしまっていた。帳簿の確認や、使用人達の管理、出入りの商人たちへの対応、それに……」
私はだんだんと落ち着きを無くしたリュリーの様子に、気をよくするどころか、また緊張し始めたセレス・デュシャンの体に渇を入れた。
(あなた、アデライードと姉のエロイーズ、叔父様や従兄弟達とは自然に話せたじゃない。
ちゃんと言わなきゃダメ。いつまでもびくびくしてちゃダメ。だって死にたくないでしょ)
私は一旦息を吐いて、自分を落ち着かせてから唇を開いた。
「……それに、昨夜も遅くまでご苦労様」
私の言葉に、リュリーは見る間に真っ青になり、周りで控えていたミアと三姉妹のメイド達アドリーヌ、カロリーヌ、ポリーヌが息を飲む音が聞こえる。
当てずっぽうで言ったことだが「やっぱり」と私は思った。彼女は昨夜セレスの夫と過ごしていたのだ。
「あ、あの奥様、私は……」
リュリーは、床に跪いて言い訳をしようとしたが、私は優しく微笑み、右手を上げて言葉を止めた。
「責めているのではないのよ。
兎に角、あなたに任せっきりは良くないと思うの。あなたに任せていた仕事は、以前のように私がやっていくわ。
これからも悪いようにはしないから安心して。
だから、今日はもう自室で休んでちょうだい」
リュリーは跪いたまま「えっ」と拍子抜けしたような声をだした。
おそらく、屋敷から追い出されるか、何かしら罰を与えられると思っていたのだろう。
「さあ、立ち上がって、今日は自室で休んでちょうだい」
再度、私が笑顔のまま促すと、リュリーが戸惑いながらも言われた通りに部屋を出ていく。
パタンと扉がしまると、しんと部屋の中は静まりかえった。
ミアは、今まで気弱で自己主張出来ない奥様のかつてない変貌に驚いて、両手でドレスのスカートを強く握っている。
(そんなに強く握ったら皺になっちゃわないだろうか?)
私は心配に思ったがミアはぎゅっとスカートを握り続けていた。
ミアはリュリーと違って誠実な侍女だった。
セレスが、お嫁に来てまず着手した使用人の労働環境の改善―――お給金の賃上げ、周期的に得られる休暇、清潔な寝床に新しいお仕着せ、胃と心を満足させる食事やお茶、支給されるようになった生活用品諸々。
そういったものを与えてくれた奥様に感謝して、リュリーに言いなりの気弱な奥様を歯がゆく思いながらも、誠心誠意仕えていた。
それに彼女は、アデライードにかけられた嫌疑を晴らすために積極的に動いてくれた登場人物の一人だ。
大切にしなければいけない。
私の為にも、そして、アデライードの為にも。
「朝食はいいわ。これは下げてちょうだい」
ミアは我にかえって、ミアと同じように呆然としていた三姉妹も慌てて目の前にある皿と寝台用の卓を片付ける。
私はアドリーヌの手を借りて絹の室内靴を履いて、ベッドから腰をあげると、この靴も、セレスの足よりサイズが大きいことに気付いて、ため息をつきたくなったが、悟られないように、それを飲み込んだ。
「今日は体調がいいからマッサージも治療も必要ないわ。
家政婦長のマーサと家令のカルロに別棟の離れを、『お客様』が滞在出来るように、用意してと頼んでおいて。
それと、帳簿をもらってきてちょうだい。帳簿は入浴後に目を通すから。
今までリュリーが対応していた商人達は私が会います。これからはリュリーに取りつがないように。
それと、リュリーは私が命じるまで、部屋から出さないようにしてね」
矢継ぎ早に用件を頼む私に、ミアは目を見開いたが、「はいっ」と返事をした。
こころなしか、その声は嬉しそうだった。
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