第19話 いきなりやらかしてしまう

 部屋はじつにシンプルなものであった。当然ながらさほど広くはなく、薄汚れた木のベッドが一つに古い壁掛け時計とクローゼットがあるだけで、調度品のたぐいは何もない。

 私は奥へ歩いてゆき、部屋に唯一の窓を開け放す。

 庭が見下ろせる。石塀に囲まれた広い庭のあちこちで、子供たちが駆け回って遊んでいるのが見える。


(皆、大いに遊んでいるな。じつに楽しそうである。やはり、遊びとはかくあるべきものだ。私も早いところトモダチを作り、思い切り遊びたいものであるな)


 しばらく部屋でくつろぎ、言われたとおり時計の針がまもなく十二時を指そうというところで階下へ向かう。


(ミレージュラはもう食堂にいるのだろうか。ところでその食堂はどこだ? しまった、ヘレナに訊いておくんだった。どこだ……どこにあるのだ)


 あたりをきょろきょろしながら歩いていると、開け放しのドアから出てきた人間とぶつかりそうになった。「きゃっ」と小さく悲鳴を上げたその人間は女で、見たところあのシタルと同い年ぐらいに見える。黒髪を後頭部の高い位置で結わえたその娘は悲鳴と共に両手で抱えていたトレイをかばうように背中を丸めた。トレイの上には水の入ったコップがいくつか置かれている。それをどこかへ運ぶところだったらしい。ドアのむこうは厨房のようで、割烹着姿の男女があくせく働いているのが見えた。


「食堂へ行きたいのだが、どこにあるのであるか」


 私は黒髪おさげのその娘に訊いた。


「え……あ、えっと……うん、食堂なら、この廊下をまっすぐ……あ、私もこれから行くところだから……」

「では案内してもらおう」

「う、うん」


 娘はそれまで伏し目がちで話していたのだが、そこで初めて視線を上げて私を見た。

 その目が、私から離れない。私の顔をじっと見つめたまま、固まった。


(な、何だ? 何を見ている。まさか、私が魔王だと知っているのか? いや、馬鹿な、私は勇者一行以外の人間とは面識はない。野外における修行の際にも人里へ足を踏み入れたことはないし、こんな娘が私が魔王であることを知っている道理など……)


 私が警戒しながらまじまじと娘の顔を見返していると、にわかにその頬が染まりだした。いったいどうしたのだ、とこちらが戸惑っているうちに、ぱっと目を逸らす。


「し……食堂、こっちだから……」


 娘がそう言って歩き出そうとした。と、勢いよく向きを変えたせいでトレイの上のコップが揺れる。そのうちの一つがぐらっと大きく傾き、トレイから落ちた。


「ああッ――」


 娘は悲鳴を上げるが、コップには反応しない。

 このままではコップは床に落ちて割れ、水がこぼれてしまうぞ。いいのか――私はそんなふうに考えていたが、娘はやはり反応しない。


 いや……反応しないのではなく、できないのだ。並みの人間にはそこまでの反応速度は備わっていないということだ。

 私は腕を伸ばし、落ちてゆくコップを片手でキャッチする。

 ふう、と息をつきかけるが、しかし次の瞬間にはコップは私の手の中でガシャッと粉々になり、水と共に床に落ちていった。


(ちっ……何という脆さだ。大して力など入れていないというのに)


 私は苦々しく思いながら床に散らばるガラスの破片と水とを眺めた。目の前では娘が唖然としたまま固まっている。


「どうしたのっ!?」


 音を聞きつけてか、ヘレナが駆けつけてきた。


「あ、ヘレナ先生……今、ちょっと」

「コップが落ちそうになったので受け止めたのだが、割れてしまったのである」


 戸惑う娘に替わって私が事情を説明する。 


「あーあ、床びちょびちょだー……二人とも怪我してないよね? ホウキとチリトリ取ってこなきゃ。あ、ナタリーは先に食堂に行ってていいわよ。みんな待ってるから」

「ごめんなさい」


 そうぺこりとお辞儀をして、娘が去って行く。


「ふむ……では、頼んだぞ」

「待ーちーなーさーい」


 ナタリーと呼ばれた娘のあとに続こうとしたところを、止められた。振り向くと、ヘレナが両手を腰に当て、三角目をして私を睨んでいる。


「何か用であるか」

「何か用であるか、じゃないでしょ! このまま行くつもり? 自分がやったことなんだから、後片付けしなきゃダメじゃないのっ」

「後片付け? それはおまえがやればいいのではないのか。私は食堂に用があるのだ」

「はあ!? あのねえ、そりゃあ私だって手伝うよ。だけどぜんぶ私に任せてキミ一人先に行っちゃうなんて、いくらなんでもそりゃないでしょう!」

「先ほどの娘は先に行かせたではないか」

「粗相したのはキミでしょっ!」


 ヘレナは顔を赤くするが、先ほどの娘が頬を染めたのとはだいぶ趣を異にするようだ。そのちがいがいかなる性質のものなのか、それはさっぱりわからぬが。


「それと! 粗相しちゃったらまず言うことがあるでしょ!?」

「言うこと? いや、べつだんあるとは思えぬ」

「粗相したら『ごめんなさい』でしょっ!」


 ヘレナは私の眼前に人差し指を向けながら怒鳴った。


 まったく、何という女だ。私が魔王だと知らぬとはいえ、指を向けてくるとは無礼千万。ましてや下等な人間風情が。しかも謝れだと?

 私は異論を口にしようとしたが、それを遮るようにしてヘレナがさらに言った。


「とにかく一緒に片付けするよ! ホウキとチリトリ取ってくるから、そこで待ってなさいっ」

 

 そう声を荒らげ、大股で去って行く。

 まったく、世にもやかましい女がいたものである。

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