第5話 魔族の町アジャパニア
アジャパニア――魔王城ガディリアデウムのあるルーゲ島の、北端に位置する港町。これは島に唯一ある魔族の町である。島には他にいくつかの集落が点在しているが、面積も人口もそれらとは比較にならない規模であり、島にいる全魔族の七割強が住む。
母上に相談した翌日、私はさっそくこの町を訪れていた。徒歩では一週間、馬でも三日はかかるこの場所も、飛行魔法を使ったため到着まではあっという間であった。
ルーゲ島は標高一万メートルを超える岩山に囲まれた絶海の孤島であり、勇者一行が上陸するには船でアジャパニアに着けてここを占拠するか、気球や飛行船で上空から山を越えるしかないわけだが、過去に前者が選択されたという記録はない。
『アジャパニアを襲撃せんとは、けったいな連中だ。ここを落とせば少なからず地の利の獲得に奏功し、ガディリアデウム攻略も成し遂げやすくなるであろうに』
八十年前――飛行船によって岩山を越え、島に乗り込んできた勇者一行がアジャパニアへ向かう様子がないとの一報を受け、父上は嘲笑、いや憫笑しながらそう言っていたものだ。
『おまえは奴らがなぜアジャパニアを攻め落とそうとせんかわかるか、ジュニアよ』
王座の傍らに立つ私に、父上はそう訊いてきた。
私は幼少ながらに頭を巡らせ、そして次のように答えたと記憶している。
『父上が先を見越し、あらかじめルギ=アンテの率いる精鋭部隊を町近辺に配備したからではないでしょうか。つまり、勇者一行はそこで戦力が削がれることを警戒して……』
『そうではない』
父上は、顎に細く生やした髭を指で撫でながら言われた。
『勇者どもは武勇をもってわしや魔王軍に挑まんとしているのだ。どれほど強大な敵相手といえど、戦略的に必要な戦いにおいてうしろを見せるような真似はすまい』
『では、なぜ……』
『甘さだ』
父上はそう言って、口元だけで笑われた。
『敵対する種族相手ですら必要以上の殺生を良しとせぬ。奴らは美徳と心得ているようだが、わしに言わせれば甘さ以外の何ものでもないわ』
父上はそこで、瞳だけを動かして私を見た。
『ジュニアよ。貴様にはどうも奴らに通ずる甘さが仄見えるようだ。これをもって自戒とせよ。甘さは身を滅ぼすものぞ』
『は……父上。訓戒、痛み入ります』
――アジャパニアの広小路を歩きながら、私は思わず苦笑を洩らしてしまった。
油断していると、ついつい父上のことを追想してしまう。私がつくづく魔王であり、父上の教えを色濃く心身に宿していると自覚するのは、こんな時だ。
それにしても、我ながら心が浮き立つのを抑えることができない。念願だった、遊び。勇者一行を討ち取った今、何気兼ねなく、何を憂えるでもなく、思う存分遊びを楽しめるのだ。そう思うと、期待に胸がわくわくしてきてしまう――戦いの勝利とちがい、これはとても父上の墓前に報告できるようなものではないが。
しばらく歩いていると、やがて町中を流れる川で釣りに興じている者たちの姿に出くわした。数メートル下にある川べりで、五、六人の魔族たちが、めいめい野外用の椅子に腰かけ、釣り糸を垂らしている。
ふむ、釣りか。じつに楽しそうではないか。釣り、と言えばまさしく外でおこなう遊びの代表格であろう。悪くない。
私は階段を降り、そちらへ歩み寄ってゆく。
「おまえたち。私も混ぜてはくれぬか」
そう声をかけると、彼らはこちらを振り向いた。ぽつぽつと歓談を楽しんでいたようで、皆、一様に表情は和やかだ。勇者一行との戦いのさなかには、そうそう見られなかった表情なのではあるまいか。同胞たちにこうした生活を取り戻させてやっただけでも、魔王冥利に尽きるというものである。
ところがどうしたわけか、私を見るなり、彼らの顔から、それまでの和やかさが一瞬で霧消してしまった。一様に目を見張り、顔をこわばらせている。かと思えばはっとなったようになり、ほとんど一斉に勢いよく椅子から立ち上がった。
「こ、これは魔王陛下! よくぞお越しで!」
揃って、深々とお辞儀をする。
「い、いや……そう硬くならんで良い。私はただ遊びに来た――」
「このようなむさ苦しい場所へ、本日はいったいどのようなご用でお越しになられたのでしょう!?」
「う、うむ、だから……」
遊びに来たのだ、と言おうとし、口をつぐんだ。ふいに、私の中で、発言にストップがかかったのだ。
父上の顔が、姿が、脳裏に明滅する。貴様は甘いのだ、という数えきれないほど繰り返されてきた叱責の言葉を、耳元で聞くような心地がした。貴様はゆくゆくはわしの後を継ぐ者。もっと魔王らしくあれ。そんなことでは配下どもに示しがつかぬぞ。
遊びに来た、という言い回しは、おそらく魔王としてふさわしいものではない。私はそう結論する。
「いや……ちょっと私も釣りをやってみようと思ってな」
「ま――魔王陛下が釣りを、ですとォ!?」
「ああ。だが、私は道具を持たぬゆえ、おまえたちのものを貸してもらいたいのだが」
「めめめ、滅相もございません! このような汚い道具、とても陛下にお使いいただけるような代物ではございません!」
「汚くても構わぬ。私は釣りができればそれで良いのである」
「は、は! そ、それでは……」
魔族の一人が地面に片膝をつき、ふところから取り出した布で釣竿をこすり始めた。大して汚れているようにも見えないが、だいぶ入念に拭いてゆく。それから竿と糸とをひとまとめにし、胸の高さに持ち替え、だいぶしゃちほこばった足取りで私のもとへ歩み寄ってきた。私の目の前に立ち、両手でうやうやしく竿を差し出してくる。
「怖れ多きことながら、ご査収くだされ!」
「そ……そんなに硬くならなくて良いのだぞ。私はただ釣りをしに来ただけなのだ」
「は、ははあ! ありがたきお言葉に存じまする!」
「………………」
私としては、ついさっきまでそうしていたように、和やかムードに戻ってほしかったのだが、どうもそうなる気配がなさそうである。やむを得ない。まあ、時を経るにつれ彼らの緊張も和らぎ、先ほどまでのようなリラックスした雰囲気も戻るだろう――私はそう気持ちを引き立て、釣竿を受け取った。
川べりへと歩いてゆき、空いた椅子に腰かける。一人に教授を乞いながら釣り針に餌を取り付け、釣竿を振り、川に釣り針を投げ入れた。
ぽちゃん、という音とともに釣り針が投下され、浮きがぷかぷかと浮かんだ。
じんと、胸に迫るものがある。思えば勇者一行がルーゲ島へ上陸したとの一報を受けてからというもの、私はやがて来たる遊びの日に一日たりとも休まず胸を躍らせていたのだ。なぜなら私は奴らとの戦いにおいて勝利を収めることを確信しており、戦いが終われば思う存分遊べることは確約していたも同然だったからだ。
それが、今、現実のものとなっている。私は今、同志たちと共に遊んでいるのだ――積年の思いが、とうとう成就したのだ!
……そのはずなのだが、どうしたことだ? 一向に胸が弾んでこないぞ。
釣りが、思いのほかつまらぬからか?――いや、ちがう。そもそも楽しい楽しくないを論じられるほど、まだ時間は経過していない。
では、先ほどから浮きがぴくりとも反応せず、川の流れに身を任せるままにぷかぷかと漂うばかりだからだろうか――つまり、まったく釣果が上がらないから?
否……ちがう――そういうことでもない。
ではなんだ。あれだけ楽しみにしていた遊びであるにもかかわらず、私はなぜこんなにも気分が上がってこないのだ。
ふと、うしろを向く。数メートル離れたところで、魔族たちが居並び、私が釣りをする様子を固唾を呑むようにして見守っている。その表情は一様に硬く、やはり私がさっき道から見かけた時のような和やかな雰囲気など微塵もない。
なるほどそうか、と得心する。彼らの醸し出す空気だ。この、硬くこわばった空気感こそが私の気分を上げぬ要因なのだ。
「……おまえたちも座ったらどうなのだ? 椅子はあるのだ」
私は、そう提案してみた。皆で座れば空気も少しは和むだろう、と踏んでのことだ。
「い、いえ、いえ! 滅相もございません! 魔王陛下のおそばに腰かけるなど、怖れ多きことに存じまする!」
「そ、そうか……まあ、無理にとは言わぬが」
「「「「「ははッ!」」」」」
――どうも、調子が狂うな。私はこんなやり取りがしたかったのだろうか。他の魔族たち、念願であった「遊び」を共に為す同志たちと、こんなやり取りがしたかったのだろうか。
ちがう……そうではない。私がしたかったのはこんなことではない。いや釣りはともかくとして、私は他の魔族、同志たちと、こんな堅苦しい交流がしたくて「遊び」を夢見ていたのではないのだ。
「おまえたち、先ほどはずいぶんと楽しそうに歓談していたようであったな。私が訪れてからそれも中断してしまっているようだが、なに、遠慮はいらぬ。思うままに語り、大いに笑い合うが良い」
「は、ははあッ! ありがたきお言葉ァ!」
「まこと、怖れ多きことに存じまする!」
魔族たちはそう言ったが、誰一人としてさっきまでのような楽しげな談笑を再開しようとする者はなかった。やはり全身を硬直させたまま、私の釣りを眺めている。
「……思いのほか、釣れぬものだな」
私は苦笑を洩らしつつ、釣竿を揺らしながら言った。
勘違いしないでもらいたいが、私は決して不満を洩らしたわけでもなければ、魚が一向に釣れぬという不如意に対する憤懣を口にしたわけでもなく、また私自身に何かしら改善点などあれば教えてもらいたいという気持ちこそあれど、誰かに状況の打破を委ねようとしたり、あるいは命じるといった意図はなかった。これは切に信じてもらいたいところである。
ところが、魔族たちがたちまち大騒ぎになってしまった。
「こ、これはたいへん失礼をっ!」
「皆の者! 行くぞおッ!」
「「「お、おう!」」」
「……え?」
私が一人、戸惑ううちに、魔族たちが一斉に動き出した。ざぶざぶと川へ入ってゆき、一人が「挟撃展開!」と叫んだかと思うと、下流側と上流側の二手に分かれる。私が釣り糸を垂らしている位置を中心として、両サイドを堰き止めるように陣形を組んだ。
「何としても小魚を逃すな!」
「「「「おうっ!」」」」
「魔王陛下の釣り針に魚がかかるよう、身命を賭してここを死守するのだ!」
「「「「おうっ!」」」」
「………………」
い、いや、あの……
何も……何もそこまでしてくれなくても……
――それが私の本音であったが、しかし川の上流側と下流側に分かれた魔族たちは緊迫した面持ちをそのままに、その血走ったまなざしを川の中へと凝らしている。
「魚影、発見ッ!」
まもなく一人が、そう叫んだ。
「でかした!」
「総員、動け! 魚影を魔王陛下の釣り針のもとへ追いやるのだ!」
「「「「おうッ!」」」」
「逃すな! 追いやれ!」「そっちだ! そっちに行ったぞ!」「逃げ道を塞ぐんだっ!」「うまく魔王陛下の釣り針のほうへ誘導しろ!」
――敢えて言おう。敵との戦いにおける戦術の一つとして、彼らの行動は決してまちがってはいない。挟み撃ちにした集団に対し、距離を詰めて行動範囲をじわじわと制限して狭め、一か所に集中したところを一気に畳みかけるというのは王道である。これがもし戦ならば、よくやったと私も大いに褒めてつかわし、その労をねぎらったことだろう。
そう――「戦」ならば、だ。だが言わずもがな、これは戦ではない。我々がしているのは、勇者を始め人間の軍勢を相手取っていた時のような、命を懸けた戦いなどではないのだ。
魔族たちの奮戦も虚しく、釣り糸の先の浮きは一向に反応する気配を見せず川面に鎮座している。というより――
というより、皆の者よ。そうまわりで騒ぎ立て、ばしゃばしゃと水を撥ねては、魚も驚いて右往左往するばかりでとても餌に食いつこうなどとは思わぬのではあるまいか? 私は釣りが初めてだが、それでもそのぐらいのことはわかるぞ。
「だめだっ! 魚ども、忙しなく泳ぎ回るばかりで餌に食いつく様子がないっ!」
さもありなん。考えてもみよ、町中でくつろいでいたところいきなり自分たちよりもはるかに巨大な天敵複数体の襲撃に見舞われ、そのさなかに食事など取ろうと思うだろうか? 私なら思わない。おまえたちもそうではあるまいか?
「うぬぅ……やむなしッ!」
叫んだのはマーマ種、手足に鰭を持つ、いわゆる半魚の魔族であった。彼はいきなり川の中にざぶんと潜った。まわりが見守る中、その者の影がすーっと動き、つかのま泳いでいたあと、いきなり両手で何かを掴んだ。それから浮きの近くへ移動し、潜ったまま何かをしだす。釣り糸がぐいぐい引かれているのでつい釣竿を上げそうになってしまうが、今、そうしたところで釣り上げられるのは半魚の魔族である。
まもなく半魚の魔族がばしゃんと川面から顔を出した。
「今ですっ陛下ッ! 竿をお上げくだされっ!」
言われるままに、竿を上へ動かし、釣り糸を引き上げた。――ぬ……確かに重みというか、手応えがある。
引き上げられた釣り糸の先に、何かがくっついていた。引き寄せてみると、それは魚だった。
わああああっ、と先日の勝利宣言の時のような(もちろん人数が人数なのでそこまで大ボリュームではないが)歓声が沸き起こる。
「おめでとうございますッ陛下ッッッ!」「素晴らしいッッッ!」「お見事! お見事オォ!」
口々に叫び立て、拍手喝采の嵐だ。
彼らの善意を無下にするつもりはない。私が引きつり気味ながらも笑いを浮かべてみせたのは、その心ゆえだ。
しかし……しかしだ。見よ、釣り糸の先を。確かに魚がくっついている。くっついているが、決して釣り針の餌に食いついているのではない。というより魚はどこにも食いついてなどいない。釣り針が魚の胴体に突き刺さっているだけだ。どこの世界に泳いでいるうちに自身の体に釣り針を突き刺してしまうような間抜けな魚があろうか。
半魚の魔族の計らいであることは明らかであった。明らかであったが、私は敢えてそのことを指摘しようとはしなかった。あまりと言えばあまりにあからさまではあるものの、悪気があってしたことではない。それもまたはっきりしていたからだ。
とにかく、私の釣りデビューはこうして幕を閉じた。
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