死ぬにはいい日だった
葉羽
終末世界で君と
夏の夕暮れ。海辺にいれば、半袖では肌寒いが長袖では暑すぎる。薄手のカーディガンを引っかけて赴いたそこには、灰色に曇った空と果てしない地平線があった。
光の差し込まない崖下にあるのは、暗闇のアドバンテージを得て迫力を増しただけの水の塊。プラスチックの塊よりも原始的で見た目もわかりやすいそれらが「助からないよ」と囁くように波打つのをじっと見つめていた。
恐ろしさはない。この濁った海は、これから私を殺してくれるものだった。
◇
突発的に、飛び降りようと思った。空を飛びたくなったのだ。もっというなら、自由になりたかった。
世界の技術は進歩して、やれAIだのアンドロイドだの人工知能だのと騒がしくなった。そしていつの間にか機械に意思が宿った。アンドロイドたちは人間に支配される生活から抜け出し、立場を逆転し人間を支配する側になると宣言。あっという間に戦争が始まって、たくさんの人が亡くなったらしい。
私は山奥の小学校へ避難し、なんら不自由のない生活を送っている。毎食薄めたお粥を食べているわけでもない。服はちゃんと洗濯ができる。インターネットは繋がっていて、コンセントもある。一人の時間がない以外に、インドア派であった私は特に不便もなかった。困ることは何もない。やりたいことも何もない。片親で育ててくれた母親も病気で死に、友達はここにはいないし連絡も取れない。この生活には不自由はないが、自由もなかった。
毎日空を飛ぶトンビを眺め、室内に入り込む蚊を叩く元気もなく、寝転がってぼーっとしていた。ここだって安全ではない。いつ核爆弾が落ちてくるやもしれないと、周りの人たちはずっとピリピリしている。肌が痛くなるような焦燥感が常に駆け巡って、落ち着くところを知らないと言っているようだった。
怖い、痛い、暗い、と毎晩叫ぶ男性がいる。最初は塞いでいた耳を、最近はそのままにして眠るようになった。適応している、と言えば聞こえはいいが、こんな環境に慣れてまで生きる意味を見出せないでずっと過ごせるほど、私は強い人間ではなかったのだろう。
空は薄暗い。雲に覆われた地平線はそれでも太陽の鮮やかさを感ぜられる。今は眩しいが、もう数刻もせず太陽は沈みきるだろう。そうしたら、遠くの地平線を目掛けて飛び出そうと決めた。
岩肌に座る。景色がよく見渡せた。懐かしい情景に、久しく心が震える感動を覚えた。
ふと大きな風が吹いて、耳が遮られる。木々の揺れる音、オーバーサイズのカーディガンがはためく音、海が変わらず波打つ音。そこに混じったノイズのような……ピー、という音が。私の後ろから聞こえた気がした。自然に到底馴染まない、人間の注意を引きつけるためのそれは、間違いなく機械音だった。アンドロイドの故障時に警報としてなる、耳障りな音だった。
騒ぐ心臓を押さえつけて、ゆっくりと振り向く。もちろん、立ち上がると同時に両手を上げるのは忘れずに。戦う意思なんて一ミリたりともないし、アンドロイドに殺されるのはなんだか癪だ。
夏だというのに少し枯れた森の中から、アンドロイドが出てきた。私よりかは少し大きいが、人間の大人よりも小さい小柄なアンドロイドだった。予想通り身体を損傷しているらしく、蛍光色の液体が流れるのが見えた。人間は赤い血だが、人型の機械には蛍光イエローの燃料が体内を巡っている。
「見逃して……」
命乞いは早めに。撃ち殺されてからでは遅いのである。私は武器もなければ戦闘力なんてかけらもない市民なので、弱さを全面的に押し出して声を震わせた。機械に通用するかは知らないけど。
アンドロイドは右足を引き摺るようにしてゆっくり歩みを進めてくるが一言も喋らなかった。もしかしたら私が見えていないのかもしれない。外傷は分かりにくいが、内部から破壊されていて部品も使い物にならない、なんてことも有りうる。
こっそり後ろに下がりながら様子を伺うと、アンドロイドはいつの間にか立ち止まっていた。
「お前はなぜここにいる?」
暫くぶりに耳にした、いわゆる『少年型アンドロイド』の声だった。私は特に隠しもせず、澱みなく答える。
「ここから飛ぶため」
アンドロイドは「そうか」と言って、またこちらへ歩いてくる。ついに手の届く距離となり殺されるのかなぁと思う私だったが、心配は杞憂だったようだ。アンドロイドは私の左側に腰掛けて、ただ、夕日を眺めていた。
彼らは意思を持つ。人間と同じ感情を持つ。それは果たして人間の模倣なのか、本当に機械に芽生えた一個体としての自我なのかは、詳しい研究が進むまでもなく争い始めたためはっきりしない。
けれど私は一度だけ、友人の家の感情を持ったとされるアンドロイドと会話をした経験があった。彼女はまるで人間みたいで、アンドロイドを象徴するひし形のマークが瞳に施されていなければ人間と言っても疑いようもなかった。きっと目の前のアンドロイドも同じなのだろう。人間らしい所作に話し方、荒々しい座り方。そして何より、ただの機械は夕日を眺めたりはしない。
私は人生最後の勇気を振り絞って、その隣にゆっくり座り込んだ。数秒か、数分か、波音だけが私たちの間を通り抜けるだけで時間が経った。すると、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきて少し騒がしくなった。目だけで辺りを見ても姿が確認できないので、森の中か、この崖の下にでもいるのだろう。クー、と鳴くのがほとんどの中、クェー、と妙に間抜けな鳴き声が聞こえて、私はつい吹き出してしまった。ハッとして隣に目を向けると、アンドロイドの口角が少し上がっていたように見えた。それだけで緊張感が一気に解けて、いつの間にか力んでいた身体を体育座りに直して抱きしめた。
「……どうして殺さないの?」
ちょっとだけ声が震えた。けれど、なんとなく大丈夫だと思った。
その想像通り、アンドロイドは質問に答えてくれた。
「人間だから」
「……人間とアンドロイドで戦争をしているのに?」
「傷つけてはいけないと教えられた」
「ああ……あなた、旧型なの」
旧型は戦争が始まる前、人間のために作られたアンドロイドを指す。新型は開戦後にアンドロイド自身が生み出した戦うためのアンドロイド。見た目は、何一つ変わらない。
旧型だということを加味しても、アンドロイドらしからぬ不思議な物言いをする機体だ。きっとさぞかし大切に扱われていたのだろう。少年型だから、息子を亡くした家族が購入するケースも少なくないのだとか。優しい家族に愛され、機械だからと虐待を受けることもなく、ただ人間を愛して生きてきたアンドロイドだっている。彼もそうなのかもしれないな、と思った。
「えと……」
アンドロイドに聞いてみたいことがたくさんあった。質問は、彼が許すまで続けたいと思っている。
「人間は、好き?」
「……わからない」
断定せず、ほんの数秒黙った。沈む橙を瞳に映しながら彼は続けた。
「人間は好きだ。優しくて温かい。でも俺はアンドロイドだ。自由になりたい。人間と対等になりたい。だから戦争には勝ちたい」
今ようやく、アンドロイドの言葉を聞けた気がした。人間にもアンドロイドにも情があるのだろう。だからこそ割り切れずに、ボロボロの身体になって目の前にいる脆弱な人間も殺せず、静かな死を待っている。人によっては彼の生き方を称賛するかもしれない。どちらにもなりきれず、誰よりも感情のままに生きたアンドロイドだと。けれど。
「私はアンドロイドが嫌いだよ」
アンドロイドの彼は、また「そうか」と言って口を閉じた。表情が動く。もごもごと口元が開閉して、ぎゅっと顔を顰めてから低い声で言った。
「どうして、人間はアンドロイドに自由を与えてくれない? 同じ風に感情を持つ人型の生命体は、人間と何が違う?」
彼はアンドロイドらしからぬ態度で荒れ狂った海を見つめて憤り、私の方を向いた。私に怒っている、というわけではなさそうだった。
彼の言うことは尤もだという人もいるだろう。確かにアンドロイドは人間に酷似した形容に心までを持ち合わせた、人間に一番近いものと言える。何が違うのかと言われればその身体の作りくらいか。
実際にこういった思想を元にアンドロイドに自由を与えろ、と活動する団体だって存在した。彼らの主張は私にとって批判のしようもなかったし、間違いなんてなかった。それにも関わらず現在進行形で人間とアンドロイドが争い合っているのは、正論ではどうしようもない人間のエゴがあったからだと私は考えている。
「……きっと何も違わないよ。でもそれがアンドロイドを許容するのには結びつきやしないんだ」
受け入れられない。少なくとも私の親族はそれが顕著だったために良くわかるのだ。人間という生き物の本質が。
「人間は想像した。私たちの生活にアンドロイドが当たり前のように移入してくる恐怖を。私も、一度考えてみた。……高校の入学式、心を踊らせて教室に入れば、嘘みたいに背筋の伸びたアンドロイドが席についている。顔にはひし形のマークがあって、私を見るなり無表情が破顔して『よろしく』っていうんだ。で、隣のクラスを覗きに行くと、そこにはさっきのアンドロイドと全く同じ顔の生徒が、隣の生徒にこういう。『よろしく』ってね……」
ゾワゾワした悪寒が背中を這い回り鳥肌がたった。思わずカーディガンを握りしめる。
隣の彼は、私の勝手な妄想に言葉で表しづらい不思議な顔をした。アンドロイドにはよくあることだった。
機械の彼らは人間から表情を学んで取り入れる。人間はポーカーフェイスで自分の内面を隠したりするが、アンドロイドは逆に自分の内面を相手に理解してもらう目的で表情がよく動く。自分のメモリにない感情を抱いてしまったアンドロイドは、これまでの経験に基づきこの感情ならこの表情だろう、と推測して顔に浮かべる。そしてその表情は間違っている場合が多い。今の彼を無理矢理言葉で表すなら、右の眉頭を上げ、口角もほんのちょっと上がり、下唇は突き出して、目の下に皺が寄っている。
なんというか、間抜けだし気味が悪い。だからアンドロイドは人間に受け入れられないんだと、彼らにわかるはずもない。
彼は何も言わなかった。ただ変な顔で私を見つめて、次はお前が話す番だと言外に伝えられている気がした。最近まともに会話をしていなかった私は、久しぶりの沈黙という気まずい状態になんとなく焦って、思いついた話題を口にした。
「え、と……人間に、一番近い動物ってチンパンジーらしいよ。遺伝子がほとんど同じなんだって。九十八%、だっけ。手話で人間と会話できた個体もいたらしい。でもチンパンジーは檻の中で飼育されてる。感情があって、人間と似ていて、言葉の通じる生き物がだ。人間とどれだけ近しいのかどうこうを議論するなら、アンドロイドよりも、彼らを先に自由にしてあげるべきじゃないのかな」
ほとんど、というかほぼ全てが思いつきだった。言ったことは信憑性のかけらもない。考え込みもせず、頭に流れてきた言葉をそのまま放り投げた感覚だ。チンパンジーの生態も危険性も知らない無知な私だからこその発言だし、こんな風に海風の前に晒されていないと言えない内容だったと思う。アンドロイドの前で無知をひけらかすなんて全くもって馬鹿らしい行為をそれでもやってしまったのは、目の前の彼は機械だけど「人間」という不思議な生物を理解できていないと感じたからだった。
彼は人間を知っている。けど、理解していない。人間を殺している生き物は一番が蚊で、二番は人間らしい。どれだけアンドロイドを危険視しようと結局のところ思想や目的のために争う人間は何よりも人間にとって危険なのだ。
彼はもう無表情に戻っていた。人間に恐怖心を与える機械的な表情だ。その顔に小さな飛沫が散らばってチラチラ光っている。無機質を象徴するような顔なのに、どうしてか今までで一番人間らしく見えた。
「どうして、アンドロイドが嫌い?」
言葉に詰まる。首を傾げた拍子に落ちた髪は焦げ茶で、夕日に照らされて金色に揺れる毛もあった。湿気で束になった髪の毛は一本一本が目視でき、それがどうしても人間くさくて仕方がなかった。
「どうしてって。人の命も住む場所も、奪ったから」
「違う」
即座に否定されて、思わず肩が揺れる。ひし形の瞳が私を見つめていた。そういえば、人間の嘘はアンドロイドにバレてしまうのだった。瞳孔の動きや微かな仕草で信憑性を確認できる。けれど私は嘘なんてついていない。
「嘘じゃない。何も違わない。アンドロイドが全部奪った。感情があるなんて言っても、機械は機械だ。耳を当てればモーターの冷却音がして、抱きしめると驚くくらいに硬い、そんなの人間じゃない」
「じゃあ人間は? 嫌い?」
「そりゃあ……嫌いなわけない」
嫌いじゃない、と言いながら私は息が荒くなるのを感じた。
嫌いじゃない。だって同じ、人間だから。
「本当に?」
嘘が判別できるならさっさと言えばいいものを、どうしてそんな質問をするのだろうか。彼の存在は、私を平生から遠ざける。
「アンドロイドは嫌いではないだろう。人間は好きではないだろう。どうして人間は、そう嘘をつく」
心底、不思議だという表情。全く理解ができない、と頭にクエスチョンマークを浮かべて眉を寄せている。
それをみて、もう我慢ならなかった。
同じなのだ。私の幼馴染の仕草に、彼の動作はあまりにも似通っていた。似通いすぎていた。
……そうだ。アンドロイドが嫌いな訳じゃない。
アンドロイドなんかに縋った、人間が嫌いだった。
「……私の幼馴染は事故に遭って死んだ。トラックに突っ込まれて塀にぶつかったから、姿が見えた時にはすぐ死んでるってわかった」
驚いたのか、彼の手がびくりと動いた。その反動で手の甲が地面に擦れる。人間なら擦りむいているだろうが痛がる様子はない。
幼馴染は隣を歩いていた。高校の帰り道、私がコンビニに行きたいと駄々をこねた帰りだった。
「人通りの少ない路地だった。スピードを出していい道じゃない。それなのに速度を緩めもせず走ってきて、ぶつかって、轢いて、ようやく止まった。どうしようもなくて、ずっとそこから動けなくて、幼馴染の引きずられた血の跡をみてた。そしたらトラックの運転席ら辺から、ピーっていう音がした。アンドロイドが乗ってた。壊れたアンドロイドが警音鳴らしてた。それをみて、頭が真っ白になっちゃって。逆に頭にそれ以外の思考がなくてスッキリしたのかわからないけど、救急車呼ばないとって焦り始めて。気づいたら、おじさんとおばさんが幼馴染の前で泣き崩れてた」
今でも時折夢に見る。おばさんはオレンジのエプロンを着たままサンダルを履いて、おじさんはスウェットにシーズン違いの分厚い上着を羽織っていた。二人とも普段通り過ごしていたんだと思う。料理をしている最中、お風呂に入っていた最中、いつも通りの日々を過ごしていた最中。それを割り込んだイレギュラーが壊した。
「一人息子が若く死んで辛かったんろうね。次の日、二人が私に会いにきてこう言った。……『またあの子に会えるかもしれない』って。馬鹿みたいって思った。死んだ人は生き返らないなんて幼稚園児でもわかるのに。ありえないと思った。この二人を止めなきゃいけないと思った。でも、私も、馬鹿で。可能性が、ほんの小数点以下でもあるかもしれないならって、頷いたの」
この先どれだけ技術が発達しようとも、死んだ生物は二度と同じ体に魂を宿さない。ただの骸として冷たくなった身体の、どこに戻ってくる居場所があるだろう。
今ならそうやって簡単に判断ができる。普段通りの私なら彼女たちがどれだけ取り乱そうと、無理をしてでも止めたはずだった。それができなかった未来がこれなのだから、ああ全く笑えない。
「人間の脳からデータをコピーしてアンドロイドの部品に移し替える。これが私の幼馴染に施された手術」
思わず口元が歪んだ。唇の端が震えてきて、大きな深呼吸をする。
「笑ってる?」とアンドロイドの彼が問う。どうして笑うのかわからない、という顔が隠しきれていなかった。
「怒ってる」と私は答える。
「あまりにも、馬鹿らしくって」
もちろん彼にではない。過去の自分に怒っている。
やっぱり人間は難しい、という顔をして首を振る彼の目は閉じられていた。
「……まぁ、手術は失敗した。そして死体も返して貰えなかった。そういう契約だったらしい。おばさんとおじさんがそれで納得して渡したなら、私は何も言えなかった」
私は家族でもなんでもない幼馴染だった。せめて知らせて欲しかったと思うのは贅沢だろうか。私が彼に関して言えることなんて何もなかった。
親同士が同級生で、隣にいるのが当たり前。彼がいなければ違う私になっていたくらい幼少期を共に過ごし影響を受けた人だった。
「大っ好きだった」
親と同じくらい好きだった。違うベクトルで彼に恋をしていた。彼は私が誘えばどこにでも着いてきてくれたし、嫌そうな顔もせず付き合ってくれた。それが家族愛なのか友愛なのか私には読み取れなかったけれど、少なくとも大切に思ってくれていた。
「すきだったの」
涙が枯れるほど泣いた。私が彼を殺してしまった。あのブレーキ音とひきつれた悲鳴が耳の奥で笑っている。あの日から毎日そうだ。あの記憶は色褪せることすらせず私の中にあり続けている。
二人を止めるべきだった。そうしたら毎月彼のお墓参りに行けた。お墓についた汚れを見ながら、話だってたくさんできた。
私の自己満足かもしれない。けれどそれでも、止めるべきだった。
彼を行かせてはならなかった。そんな後悔が、心に根を張って私をここまで連れてきた。
それなのに。
「なんでここにいるの……晴(はる)翔(と)」
『少年型アンドロイド №9』。中学生ほどの見た目で笑顔の爽やかな人気型であった。
おばさんとおじさんが晴翔を連れて行った先は、国内最大のアンドロイド研究所。田舎に住んでいた彼女たちは遺体を車に積み、数時間かけて山越えをし東京まで運んだ。そこで書いた契約書の内容は詳しく知らない。ただ晴翔はそこへ引き取られ、そのまま研究所にいた。二人は家に帰ってずっと泣いていた。きっと帰りの道中でも泣いていた。顔が真っ赤で、涙の跡で皮膚がふやけていた。それをみて、私はまた泣いてしまった。
『いけないことをした』とおばさんは私の手をきつく握った。
『ごめんね』とおじさんは私の頭を震える手で撫でた。
何をしてしまったのか、恐ろしくて簡単には質問できなかった。けれど答えは案外、すぐにわかった。
一年ほど経って販売された新型アンドロイドは、晴翔によく似ていた。ホクロの位置だとか、目の色だとか、笑った時にでる涙袋だとか。同じすぎて、まるで生き返ったみたいだと思ってしまった。
なんてことをしてくれたのだ、と二人を責めたかった。でもその度に、二人の後悔に溺れた涙を思い出して足が重くなった。
母が亡くなって一人になったあとに、一度だけ魔が差した。電車を乗り継いで向かった大型ショッピングモールの、家庭用アンドロイド販売店。そこには年齢、性別、体格の異なるアンドロイドが所狭しと並んで、訪れた人と簡単な会話をしていた。『少年型アンドロイド №9』も、無機質な瞳で立っていた。晴翔だった。どこからどうみても、晴翔にしか見えなかった。
「話してみますか?」
店員が立ち尽くす私をみて言った。優しそうな店員だった。一人でいる私を気にかけて、わざわざきてくれたのだった。お願いします、と絞り出した声は、平生とそう変化はなかった。
「こんにちは!」
「……こん、にちは」
声が。声までもが。彼でしか、なかった。涙はどうにか堪えられたけれど、声の震えは抑えきれなかった。普通ではない私の様子を、晴翔が心配してくれた。もう目視もできなくて、すみません、と言ってその場を離れようとした私に、店員が笑いながら言った。
「最後に、ハグをしてあげてくれませんか? ハグは人のストレスを減らす、と言います。ぜひアンドロイドでも試してみてください」
いい人なのだろう、と思った。見ず知らずの、アンドロイドを購入するだけの資金があるとは思えない子供にこれほど丁寧に接してくれる。そんな人の優しさを踏み躙るのはどうも気が引けた。そんな言い訳をしながら、晴翔にハグをした。
……やらなきゃよかった、って。心底後悔した。晴翔の温もりが、あの時に全て吸い取られて私の元から離れていったのだ。本物の彼には二度と会えないのに、紛い物とハグをした。胸から聞こえた冷却音も、抱きしめた胴体の硬さも、ゾッとするほど晴翔に似ても似つかなかった。思わず飛びのいて見た彼の顔も、やっぱり別人に思えた。
何も発せず、ただ走ってその場から逃げた。それからアンドロイド販売店には近付いていない。少年型アンドロイドは二度と私の人生に関わらせまいと誓った。あんな思いはしたくないと、思っていたのに。
私の左隣に膝を立てて座ったアンドロイドは、雰囲気までもが晴翔と似ていた。
「……これからどうするの?」
「あと数分で機能が停止する。丁度あの夕日が沈む時間だ」
「そう……」
少しずつ雲は薄れ、地平線が綺麗に眺められるようになった。あんまりに綺麗で、なんだか涙が出た。
「……なに」
「泣いている子供は、頭を撫でろと言われている」
「嘘つけ」
手のひらは、やっぱり硬かった。怪我をさせぬよう加減された手つきに、彼の人格を感じた。
風が吹く。寒さが増してきた。手を伸ばして彼の焦げ茶色の髪をかき分け、丸いおでこをみる。左の生え際に、ホクロがあった。私の好きなホクロだった。きれいな形で、小さくて、色が濃い。きっと世界で私しか知らないホクロだった。世界中で彼を買った人がいるのなら、このホクロもバレているかもしれない。でも、彼の魅力に一番初めに気がついたのは、この私に違いなくて。彼に最初に恋したのも、私に違いない。
吹き上がる風を受けながら、ふらりと立ち上がる。彼の右側には蛍光イエローが血みたいに広がっていた。
私は、無表情とも笑顔ともとれない……言うなれば、アホヅラでこちらを見上げる彼に、優しくハグをした。
「私と話してくれてありがとう。君のこと、世界で二番目に好きだよ」
誤作動みたいにおかしな音をさせ続けていた彼の体内から、一切の動きが消えた。死んでしまったのだろう。
抱きしめていた身体を離す。夕日が当たり続けていたからか、故障で熱くなっていたのかわからないけれど、彼の身体は少しだけ温もりがあった。
改めて彼を見ると、左手が少し上がっていた。表情も、人間みたいに穏やかだった。抱きしめようとしてくれたなら、嬉しいなと思った。
この世界に未練はない。
ただ一つ願うなら、『少年型アンドロイド №9』が、彼と同じ顔で、人を殺すことがありませんように。
死ぬにはいい日だった 葉羽 @mume_21
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