第2話 清流
——じゃぽん。
冷たい何かが身体中を覆う。
うすら開けたまぶたには、一筋の光が差し込んでくる。
手を伸ばしてそれを掴もうとするが、手のひらをくぐり抜けていく何かが邪魔をして掴むことができない。
その何かの正体、それはおそらく水であった。
濁っているようで実は綺麗なものだったような、そんな曖昧の中に私はいる。
なんだか前にもこんなことがあったような気がする。
気のせいだろうか。あまりはっきり覚えていないことから、夢でも見ていたのかもしれない。
——いや、夢であればよかった。
ピチチと小鳥の鳴く声が鼓膜を揺らす。
どこからか落ちてきた雫がまぶたに落ち、つうっと頬を濡らす感覚に私は身をよじらせた。
「ん……」
寝返りを打って仰向けになれば、何やらあたたかい匂いが鼻腔をくすぐる。
なんだか懐かしい気分になる匂いだ。お母さんが作っている夕飯の匂いだろうか。
匂いの元が気になった私は、重いまぶたをこじ開け、ぼやけた視界で何度か瞬きを繰り返す。
しばらくすると、目が覚めるような鮮やかな青が見えてきた。
……はて、私は庭で日向ぼっこでもしていたんだっけ。
いつまで経っても見えてこない自室の白い天井に、首を傾げながらそんなことを考える。
寝転がったまま頭だけを左右に動かして周りを見てみても、私の部屋にあるクローゼットや本棚は見当たらなかった。
と、いうか。
「ここ……どこ」
ぽつりと声が漏れ出る。
空いた口が塞がらないとはまさにこのこと。
仕方あるまい。庭先で寝落ちてしまったならまだしも、どうやら私は全く知らない場所で日向ぼっこをしていたみたいなのだから。
そのことの重大さを、寝ぼけた頭はようやく理解したようで、私の体を勢いよく起こし、あたりを見渡させる。
しかし、見えてくるのは緑色というにはあまりに黄色寄りすぎる色の木や草に、そこらじゅうに浮かぶ大きなシャボン玉のようなものという、これまた摩訶不思議な景色だけ。
焦った私は、なんとかこの空間から抜け出そうと、行く当てもないのにみるみる足を回転させズンズン進んでいく。
心なしか、いつもより足が軽いような気がした。
「もう……いったいここはどこなの!? 全然景色が変わらないじゃない!」
不安と焦りで胸が押し潰れそうになり、情けない声を上げながら私の足は止まる。
もしやこれは夢なのだろうか。それにしてはなんとも趣味の悪い夢だけれど。
それでも現実よりはマシだ。こんな奇妙な場所にいるなんて。
というか、いったいなぜ私はこんなところへ迷い込んでしまったのだろうか。
私は確か家で寝ていたはずで……。
「いたっ!」
ズキンと頭の奥が痛んだ。
「なんなの……もう」
目を覚ましたらこんな変な場所へ迷い込み、それだけでも十分混乱しているのに、加えて頭が痛むなんて……。
重いため息をこぼしながら、変な色の草の上に腰を下ろす。
もう家に帰れないのかな。
じわっと涙が視界を歪ませる。
私は心細い気持ちを隠すように、三角におった足に顔を埋めた。ぎゅっと握りしめた手のひらに爪が食い込んで痛かった。
その時、足の隙間からかすかに見える地面に影ができたような気がした。
気になった私は、潤んだ瞳のまま顔を上に上げる。
その先にあったものは、あまりにも現実離れしていて、私は鳩が豆鉄砲を食った顔のまま固まってしまった。
「やあ、ここではあまりみない顔だね。初めましてだ、少女」
「あ……え」
こちらににっこり微笑みかけるその顔は、どう考えても人間ではない——昔、テレビなんかでよく見たいわゆる「河童」というものに近い姿をしていた。
つるんと輝く頭の上の皿に、渋緑のボディー。ザンバラ髪の隙間から見える、意外にも優しげに細められた目。
それに引き込まれるように見つめていれば、河童のような人は私に手を差し伸べる。
「ん? おや、泣いていたのか。これは失礼した」
座り込んでいた私を立ち上がらせると、細い目はぐわっと開かれ、なんのことか分からないまま謝罪された。
それだけ言うと、おそらく”彼”であろう人物は、そのまま身を翻しツカツカとどこかへ歩いて行ってしまう。
「ちょ、ちょっと待って! 行かないで!」
「ぐえっ! しょ、少女、髪を引っ張るのはやめてくれないか……!」
このチャンスをのがしたらマズい。
直感的にそう考えた私は、急いで彼を引き止める。
そして、若干痛そうに頭をさする河童さんに、捲し立てるようにしてここまでの経緯を話した。
「ほう、どうりでみない顔だと思った。いや、自慢じゃないんだがね、僕はこの辺の妖怪とは全員顔見知りでさ。少女を見た時、ビビッときたんだよ」
自慢じゃないと言いつつ、得意げに鼻を鳴らしながら語る様に私は苦笑いを浮かべる。
聞く限り、彼はここらの地形に詳しいようだ。
やはり引き留めておいて正解だった。
……っていや、そんなことよりも。
「待って、今なんて言った!?」
「へ? 全員と顔見知り?」
「違うわ、もうちょっと前!」
「……ああ、僕らが妖怪だってこと?」
むむ、と考え込んだ彼は思いついたように口元をニヤリと歪ませ、どういう原理なのかはわからないが、乱れ髪をゆらゆら揺らし、精いっぱい怖がらせようとしてくる。
「じゃあ、やっぱりあなたは……」
「え、あ、ああ、そうさ。少女の考えている通り僕は河童だよ。そう、ここら一帯のリーダーを務める、ね」
てか少女、君全然怖がらないね。
ぼそっと呟く河童のことはひとまずおいておき、私は改めてとんでもないところに来てしまったことに冷や汗を垂らす。
ああ、これから私はどうすればいいのだろうか。
ぐるぐる巡る頭を押さえながら、額に皺を寄せた。
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