空舞うあなたへ
明松 夏
第1話 濁流
父が死んだ。
私が小学校に上がって間もない頃だった。
その日は朝からずうっと雨が降り続いて、夕方ごろには私たちの住む街に洪水警報が出されていた。
夜になると雨はいっそう強さを増し、窓ガラスに当たる雨粒の音に、じわじわと恐怖を感じていたのを覚えている。
それからしばらくすると、近くの川が氾濫を起こした。
ここにいては危ない。そう判断した母は、私の通う小学校へ避難しようと言い出した。
小さな私の手を握り、降り続く雨のなか果敢に進む母の姿は、幼い私の目にはヒーローのように映っていたのだった。
その時、父はいなかった。
雨が降り始めて数時間後、早いうちから電車が止まり、会社から帰れなくなったのだと母は言っていた。
父の勤めていた会社は、近くに川や山なんてない安全な場所にある。
これなら大丈夫だろうと安心して、私たちは避難所で一夜を過ごした。
だんだん小さくなっていく雨音を聞きながら。
翌朝、太陽が差すなか自宅に戻ってみると、幸いにも家はさほど被害を受けておらず、綺麗な状態で残っていた。
川の水は溢れはすれどそこまでの量ではなかったようで、近所の人も被害を受けていないことを知り、みんながホッと胸を撫で下ろした。
しかし、電車が動くようになっても父だけは帰ってこない。
不安に思った母が会社に連絡してみると、父は昨日の夜のうちにまだ動いていたタクシーを使って家まで帰ったのだと言われた。
母が震えた声で電話を切る。
その時だった。
ピンポーン。
無機質な機械音が家中に響く。
訪ねてきたのは警察の人だった。
いつもより小さく見える母と話すその顔は、なんだか同情の色を浮かべていて、こっそりドアの隙間から見ていた私は自分の眉が垂れ下がるのをしっかり感じていた。
パタンと玄関のドアが閉められる。
立ち尽くしたままの母の後ろ姿に、私の胸の奥を何かが
「お父さんは……?」
聞けども返事はない。
ぱたた、とかすかに水滴が落ちる音がした。
あとから聞いた話だが、タクシーでなんとかたどり着いた父は、家の中に誰もいないことに気づき、避難所へ向かおうと豪雨のなか歩いていたのだという。
小学校に向かうための橋も渡りきり、あともう少しで到着する。あと数十歩で家族に会える。
そのはずだった。
父はゴウゴウと流れる黒い川の近くで、今にも流されそうになっている子どもを発見した。
音も視界も悪いのに、その子どもだけははっきり見えたのだと。
——父は昔から正義感の強い人で、困っている人に手を差し伸べられずにはいられない、そんな性格の人だった。
私と一緒にショッピングモールへ買い物に行った時も、迷子の子どもを両親のもとへ届けたり、母の重い荷物を何も言わず持ってあげたりと、何度もそんな光景を見てきた。
どんな人でも絶対に助ける。
笑顔でそう言う父が大好きだった。幼いながらに尊敬していた。
だから父がその子を助けようとしたことになんの疑問も抱かなかったし、こんな状況でも他人のことも考えられる善人ぶりにみんな感嘆していた。
でも——幼かった私にとってはそんなことどうでも良かった。
後日、お礼を言いにきたその子の家族と母が話している際、私は一度も顔を上げなかった。
母には怒られたけれど、それでも続けた。
だって……もういないんだもん。お父さんはもう戻ってこないんだもん。
わざわざお礼と謝罪までしてくれに来た人たちにそんなことを言ってしまった。
許せなかったのだろう。幸せを赤の他人に壊された気がして。あんなに優しかった父を殺されたような気がして。
誰も悪くないのに、じゃあ何を責めればこのやるせなさが消えるのかわからなかった。
我ながら、なんて酷いことを考えていたのかと思う。
でも多分、高校生になった今でも完全に消化できてはいない。
ずっと心の中に、黒いしこりが残っているのだ。
嫌な感情が、父のことを忘れないように、私に忘れさせないようにして。
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