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パートの何人かが辞めたことで、気づけば愛美は店で一番勤続年数が長い従業員となり、数人の後輩もできた。思ったより華やかな仕事じゃないですね……と愛美の目の前で口にできてしまう、高校を出たての若い女の胆力というか無垢さ、悪く言えば無知さが眩しくて、いつも目が潰れそうになる。反面、こんな田舎町ならそう憧れる気持ちも分からなくはない……と少し同意してしまう自分もいた。
その日の夜、洋介はどこか緊張したような面持ちで突然愛美の家にやってきた。オートロックのモニター越しにその姿を確かめたとき、会いに来てくれた喜びよりも驚きのほうが勝った。アポもなくやってくるのは初めてだった。それに、会うのは二週間ぶりくらいだろうか。会えないかメッセージを送った時は「仕事が忙しいから」と断ってきたのにもかかわらず、そのわりにはいつもより顔が疲労に煤けていなかった。
相手が分かっているので、着替えずパジャマ姿のまま玄関ドアを開けた。洋介は玄関に入ると後ろ手でドアの鍵を締め、次の瞬間には愛美の身体を強くかき抱いた。どさりと音を立て、洋介の鞄が床に落ちる。ほんのり汗に湿った洋介の背中に腕を回すと、それを合図に洋介も抱きしめる腕の力を強めた。
洋介の胸板が乳房を圧し潰すように近づいてきて、確かな胸の鼓動を感じる。そのまま二人でもつれ合うようにベッドルームに向かい、シーツの上に横たわった。洋介に普段のような丹念さはなく、行き場をなくした衝動がなんの装飾もされず自分にぶつけられることを、愛美は拒まず受け止めることに決めた。愛美の上でしばらく身体を揺らした洋介は、やがて短く息を切ってそれを鎮まらせた。
「今はまだ、どんなに嫌な仕事でも修行だと思うことにしてるんだ」
普段は交わりを終えるとすぐに眠ってしまう洋介だったが、その日はやけに口が回った。大学を出るときの就職活動で、大手のマスコミにことごとく落とされた洋介は、どうにか今の職場から内定を得たのだという。付き合いはじめた頃は別のことを言っていた。それを問いただすより先に「恥ずかしくて言えなかった」と向こうから白状した。
そうまでして何を書きたいのか、と問うと「人の心を動かすような記事」と返ってきた。文字に起こすより行動を起こすほうが得意そうに見えたが、彼の自尊心をへし折ってしまうと思い直して、やめた。
「明日、この街を出ることにした」
愛美が店に入りたての頃、ショーケースからホールケーキを出そうとしたとき、手を滑らせて床に落としてしまったことがあった。本当にどうにもならない絶望感に襲われたとき、人は驚きも泣き叫びもせず、黙りこくって目の前の光景を見つめることしかできないのだと知った経験だ。今の感覚はそのときのものによく似ていた。実はようやくリベンジで内定がもらえた、と嬉々として語る洋介の声が遠くに聞こえている。一緒に連れて行ってくれないのか、などという問いは愚問だ。連れて行くつもりなら、こんなことを旅立つ前日に伝えるはずなどないのだった。
「頑張ったね、」
あなたも、私も。
そう言いたかったが、ぐっと堪えて「洋介」と彼の名前だけを呼んだ。洋介は人生相談をしに来たのではなく、燻らずに今も前を向こうとしている自分を褒めてほしいだけだ。人は思考力が失われてきたと感じると、糖分を、甘さを求めるようになる。自分は所詮、洋介が初めて来店したあの日ショーケースに並んでいたケーキと似たようなものだと悟った愛美は、そっと寝返りを打って、洋介の身体を抱きしめた。
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明け方、洋介は愛美の家を出ていった。愛美はずっと、マンションの長い廊下を歩いてゆく洋介の背中を見つめていたが、やがて角を曲がって階段を下りてゆく音が聞こえるまで、洋介は一度も振り返らなかった。一年ほど同じ時間を過ごし、肌をかさね合わせてきた重みなどまったく感じない別れの時が終わる。それと反対に少しくらい重苦しくなるかと思っていた胸の中は、不思議なほどに晴れていた。
なんとなくすぐに家の中へ戻らず、海側に面した廊下から、朝の光を浴びて瞬く海を眺める。潮のにおいは街に染み付いており、風のない朝凪のときにも感じ取ることができた。夜と朝のはざま、海へ向かって吹いていた風が止み、陸へとその向きを変えるとき、今のようにまったく風の吹かない時間が訪れる。男と別れてようやく凪いだ気持ちも、またすぐに、べたつくような海風に晒されるのだろう。
けれど、きっと、それが人生。毎日忙しくあっちを向いて、こっちを向いての繰り返し。そしていつか、自分と視線がぶつかる相手の手を引っ張り、今度こそ離さずにいればいい。
だから、たかが男に振られたくらいで――。
愛美は目尻を指先で拭った。それ以上、自分の目から溢れるものがないことに安堵する。
やがて挨拶がてら海から吹きはじめ、身体を揺らすであろう風を待った。
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風の通り道 西野 夏葉 @natsuha
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