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愛美が
ある日、洋介がふたたび来店した。今日はプライベートなんで、と前置きしながらまた名刺を渡してくる。ならどうしてこんなもの、と裏返してみるとアットマークで始まるアルファベットが並んでいた。いかにも古典的で陳腐なやり口だったが、いつも甘ったるい香りの菓子に囲まれているのに、恋の甘みを味わえなかった愛美の心を動かすには十分すぎる切欠だった。
この街は、海沿いにへばりつくように集落が形成されている。乾いて少しずつ張りのなくなってゆく菓子のような地方都市では、公務員や第一次産業への従事以外の職業はそれだけで特別に映る。時折繰り出す業界用語のようなカタカナ言葉も、普段の振る舞いから伺い知ることのできない夜の繊細な手つきもすべて、愛美が洋介に引き寄せられる甘い誘惑のようなものだった。彼は甘いにおいに導かれてきた蟻だと思っていたのに、今では立場が逆転している。わかっていても、愛美は知らない振りをしながら洋介の身体に舌を這わせた。
付き合いはじめた当初こそスマートな印象だった洋介は、カレンダーの厚みが少なくなるにつれて少しずつ疲労の色が濃くなっていった。同じライターの一人が、他に実入りの良い仕事を見つけたと言って辞めたのだという。負担は一挙に洋介へ集中し、会えない時間も増えていった。内心は寂しかったが、言葉に表してしまうと弱みを見せることになりそうで、いつもこらえた。
会えない時間が育てるのは、実際には愛だけでなく、同音異義の哀でもあるのではないか。何気なく口にしたとき、おまえウチのライターになれよ、と洋介は力なく笑ったあとで
「ごめん、本当に」
「気にしないでいいよ。洋介は頑張ってると思う」
逆の立場なら涙が出そうな優しい微笑みを顔に貼り付ける。何度か転職を勧めたとき、物書きがそんな簡単にペンを置いたりできるか、と激昂されてからは何も言わないことに決めていた。どんなに腹の立つ客が来ても、ショーケースからひったくったパイを顔面に投げつけない我慢強さが役に立った。
「なあ、なんでおまえはこんなザマのおれを捨てないんだ」
「そんな簡単に捨てられるなら、2回目に店へ来たときに塩撒いて追い返したよ」
「菓子屋で塩なんか必要なのか」
「小麦粉のほうがいいなら、お望み通りにするけど」
やっと、洋介の強張った頬が緩んだ。
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